テクノポップユニット「Perfume」のステージ演出のテクニカルサポートや、リオ2016大会閉会式東京2020フラッグハンドオーバーセレモニーのデジタル映像表現などで、世界的に知られるアーティストの真鍋大度氏。
デジタル技術と音楽やメディアアートを高度に融合させるフルスタック集団ライゾマティクスを率いて、新しい時代のクリエーションの先端を走り続ける。
エンジニア的にものづくりにこだわる側面と、アーティストとして表現の限界を突き破る側面の両方に迫った。
Profile
Rhizomatiks Research(ライゾマティクスリサーチ)主宰 アーティスト 真鍋 大度氏
1976年生まれ。東京理科大学理学部数学科を卒業後、大手電機メーカー、Web制作ベンチャー企業を経て、IAMAS(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)に進学。2006年、株式会社Rhizomatiks設立。2008年に石橋素とハッカーズスペース「4nchor5 La6」(アンカーズラボ)設立。NHK杯国際フィギュア大会、紅白歌合戦、2020年東京五輪招致、Apple Mac誕生30周年CM出演、Perfumeの映像作品などで知られる。カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル銀賞、グッドデザイン賞、文化庁メディア芸術祭エンターテイメント部門大賞など受賞歴は多数。2016年のリオ2016大会閉会式東京2020フラッグハンドオーバーセレモニーでの技術演出は世界から絶賛された。
- 大学時代は数学とDJを両立しようとあがいていた
- トンネル防災システムを作りながら、インターネットテクノロジーに憧れた
- 初期のインターネットビジネスはマネタイズに苦労した
- 【MUTEK.JP2019】真鍋大度氏がオーディオヴィジュアルインスタレーションを披露
- Index目次
大学時代は数学とDJを両立しようとあがいていた
両親とも音楽系の仕事をしていたので、家の中には音楽があふれていました。僕自身も中学生までは、ピアノや作曲を習っていましたが、ピアノの練習は大嫌いでした。泣いてやめさせてもらったぐらい(笑)。楽器を弾くというよりは、どちらかというとサウンドをプログラムするほうが好きだったんです。
ゲームが好きだったので、ゲームセンターに行ってプレイした後に、その音色を家のシンセサイザーでコピーするとか、そんなことをしていましたね。当時はファミコンを買ってもらえなくて、パソコンでゲームをしたり、作ったり、RPGのアドベンチャーゲームブックを自分で書いたりもしていました。
ゲームブックって、「戦う→10ページ 逃げる→11ページ」みたいな記述があって、読者の選択でストーリーの展開と結末が変わるように作られたシナリオのことなのですが、条件分岐の概念習得に役立ったかもしれません。ゲームを作るためのプログラミングは独習しました。
小学5年生の頃から「BASICマガジン」とか「LOGIN」とか雑誌を買って、コードをコピーしながら覚えていきました。とりわけ「ベーマガ」はよく読んでいましたね。当時はNECのパソコンがすごく流行っていて、たぶん僕と同世代の人間は結構、ゲームプログラミングをやっていた人が多いと思います。
ところが、中学校の途中からは、あまりプログラムはやらなくなるんです。興味が他のことに移ってしまった。中学時代はスケボーにハマり、高校ではDJにハマります。大学一年のときはそれこそ週に5~6回くらいDJを仕事としてやるようになっていましたが、留年をきっかけにレギュラーでプレイすることをやめました。
東京理科大を選んだのは数学が得意だったからなのですが、当時はあまり将来のことは考えていなかったんです。幸い、数学科には実験もないし、出席も厳しくないので、適当に授業に出ていたのですが、そんな中プロのベーシストだった父に「もし本気でDJをやるんだったら絶対両立できないから、大学やめてアメリカに行け」と言われました。ただ、プロとして自立するほどの度胸はなくて大学とプロDJを両立しようともがきながら、1年で大学を留年しました。
トンネル防災システムを作りながら、インターネットテクノロジーに憧れた
大学を卒業した時には何で食べていけば良いのか全然具体的になっていなかったので、とりあえずシステムエンジニアになりました。特にSEになりたいと思ったわけではなかったのですが、自分のスキルセットというか自分の勉強してきたことを考えるとやはりシステム開発なのかなと。同級生はわりとSEになる人が多かった気がしますね。
会社に入るとプログラムが出来たこともあり、すぐに防災用監視システムの設計開発に携わります。僕は通信プロトコルやUIの設計と開発を担当しました。
サーバーサイドはUNIX Cで書いてパケットを送る側はVisual Basicで書いていましたね。めちゃめちゃ硬いシステムで、技術的には派手なものではありませんでしたが、初めての大規模設計で楽しんでやっていました。今やってるようなプログラムの方は自由に考える余白がありますが、そういったものは一切なかったです。
僕が就職した2000年当時はちょうどインターネットビジネスが盛り上がってきた頃で巷ではインターネットってお金になるのか、コンテンツをどうやってマネタイズするか、といった議論が盛んにされていました。
そんな時に会社を立ち上げる大学の同級生、千葉秀憲(現・同社取締役)が僕より先に会社を辞めて、インターネットコンテンツのベンチャーに入っていたんですね。そこで、僕も自然に興味を持つようになり千葉に誘われて進路を変えるわけです。
そのベンチャーでは前職の防災システムに比べればはるかにシステムのサイズは小さくて、エンジニアも一人か二人で書いていました。サーバー側ではCGIスクリプトをPerlで書いて、ローカル側はFlashで作り込みました。
Flashは当時出てきたばっかり。それが結構面白かったんですね。もう一人、ライゾマティクスを立ち上げたメンバーの齋藤精一(現・同社代表取締役)も、そのベンチャーの仕事を手伝ってくれていて、彼も当時Flashを使っていました。今と違って当時は全員がプログラムを書いていましたね。
初期のインターネットビジネスはマネタイズに苦労した
大手電機メーカー勤務のときは作業服かスーツ・ネクタイで仕事をしていましたが、Web制作のベンチャーではラフな格好。めちゃくちゃ自由な会社で会社に寝泊まりする設備もあって、結構みんな寝泊まりしていました。
その後、10年くらい僕は学校や会社に寝泊まりすることになるのですが、たぶんその頃のだらしない生活がクセになったのでしょうね。仕事にのめり込むと面白すぎて家に帰るのが面倒くさくなって、くち果てるまでやってしまう。(笑)。まあ、単に仕事とプライベートの切り分けが上手くないだけなのですが。
ただ、そのWeb制作会社の時代はあっという間に終わりが来ます。大手の資本は入っていましたが、すぐに経営が先行かなくなり、僕は解雇になりました。当時はコンテンツ事業を起こしては潰れるスタートアップが無数にありましたね。
その頃インターネットやWebのビジネスに感じていたのは、どうやってそれをマネタイズするかということでした。ターゲティング広告でマネタイズする仕組みが当時はまだできていなくて、マネタイズするとなるとやはり有料コンテンツなんです。つまり、有料会員を集めなくてはならない。
僕らはクラブミュージックが楽しめるインターネット上の仮想クラブのようなコンテンツを作ったり、テレビとインターネットを融合させるようなコンテンツに関わっていました。イスポンサーからお金をもらったりユーザーに登録してもらって課金をするというビジネスモデルだったんですが、規模が小さすぎてなかなかうまくいかなかったですね。
その後失業保険をもらいながらハローワークに顔を出す様な生活をしていました。千葉はそのままFlashをずっとやっていて、齋藤はニューヨークでバリバリ活躍していて、さて自分はどうしようかなと思いながら短い期間ですがソフトウェアのエンジニアやサウンドデザインの仕事をフリーでやっていたんです。
そんなときにIAMAS(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)の先生や学生が作った作品を見る機会があって、大きな衝撃を受けました。
僕はそれまでプログラムを使ったクリエーションはずっと独学でやっていたので、きちんと学べたらいいなと思いIAMASに入学します。IAMASはものすごく刺激的な環境でその後の僕の仕事に大きな影響を与えてくれました。
【MUTEK.JP2019】真鍋大度氏がオーディオヴィジュアルインスタレーションを披露
カナダ・モントリオール発の電子音楽&デジタルアートフェスティバル「MUTEK(ミューテック)」。デジタルテクノロジーと音楽を融合させた最先端のアートの可能性を探求するために、世界のアーティストが集結する一大イベントだ。
日本では4回目となるMUTEKが12月11日~15日までの計5日間にわたって渋谷で開催される。その第一弾ラインナップにライゾマティクスの真鍋大度氏の作品が登場する。「dissonant imaginary」と題されたアートプロジェクトで、真鍋氏と京都大学/ATR(国際電気通信基礎技術研究所)の神谷之康研究室が共同制作するもの。
音を聴くことで変化する視覚野、連合野の脳活動データを用いて画像を再構成する様子を可視化したオーディオビジュアル・インスタレーションに注目だ。
- #01 ピアノ、ゲーム、スケボー、DJ——全てがアーティスト・真鍋大度の原点になっている
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次回 #02 テクノロジーに熱狂している理由 Coming soon
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次々回 #03 テクノロジーで実現する未来 Coming soon