空 「誰かが私を『見』る」 空 「この行為があって、初めて私は姿を現すことができる」 空 「視線──視点」 空 「誰かの視点が、私を作るのです」 空 「少年さん……」 空 「あなたが目を閉じたとき、私は消えてなくなるのです」 少年 「目を閉じたとき……?」 ぼくは試しに、手の平を目の前にかざしてみた。 たちまち、空の姿は見えなくなってしまった。 空が実像だとすれば、手の平の上に空の頭部が、下に空の下半身が見えるはずだった。 しかし、空はいない。 レーザーが手の平に遮断されたせいで、ぼくの瞳に空の画像が届かないのだ。 彼女の存在の「不確かさ」「はかなさ」のようなものを感じて、ぼくは少し怖くなった。 あわてて手の平をどける。 美しい女性の姿が音も無く現れた。 彼女は穏やかに微笑んでいた。 少年 「空……?」 空 「なんでしょう?」 ぼくの問いかけに意味はなかった。 ちゃんと答えが返ってくるのかどうか……それを確かめたかっただけかもしれない。 彼女の存在の「はかなさ」とは、今にも消えてしまうのではないかというような「危うさ」であり……。 それはソワソワとした不安感と同時に、神秘的な憧れをも抱かせるのだった。 ぼくは彼女に、魅了されつつあった。 空 「もう、なんなんですか? そんなにじっと見つめないでください」 少年 「ううん、なんでもないんだ、なんでもない」 空 「ところで少年さん……」 少年 「ん?」 空 「少年さんは……月を見たことがありますか?」 少年 「う~ん……月ねぇ……」 少年 「って、考えるようなことじゃないんだけどね?」 少年 「ほらっ、ぼくには記憶がないから……」 少年 「だから『確かに見た』って、断言することはできないんだよ」 少年 「でも……「月」がどういうものなのか知ってるってことは…… きっと、見たことがあるってことだと思う」 空 「わかりました」 空 「では満月の晩、少年さんが月を見上げていたとします」 空 「そのとき、少年さんが目を閉じてしまっても、月はそこにあると思いますか?」 少年 「ははっ、なに当たり前のこと聞いてるんだよ」 少年 「あるに決まってるじゃないか」 空 「ならば、世界中の人間が、いっせいに目を閉じたとしたらどうでしょう?」 少年 「質問の趣旨がよくわからないけど……」 少年 「世界中の人間が目を閉じたって、月は決して消えたりしないよ」 空 「本当ですか?」 少年 「うん」 空 「どうやって確かめます?」 少年 「目を開けてみればいいんじゃない?」 空 「それでは仮定に背くことになります」 空 「私がお尋ねしたのは 『観測せずに、月があるかどうかを確かめる方法は存在するか?』ということです」 少年 「?」 空 「少年さんが目を閉じたときにも、世界は本当にあるのでしょうか?」 空 「もしも、私の画像だけでなく、このLeMUの一切合切がすべてRSDによる幻影だとしたら…… どうしますか?」 少年 「……えっ?」 空 「少年さんが今御覧になっている壁や、天井や、その他の景色のすべてを、 実像だと証明することができますか?」 (ぼくの見ているものすべてが……RSDによる幻影……???) 空 「ふふっ、ごめんなさい、冗談ですよ」 少年 「冗談、なの?」 空 「少年さんがあまりにも自信たっぷりにお答えになったので…… ちょっとからかってみたくなっただけです」 空 「しかし、これだけは言えます」 空 「人間が世界を認識するには、五感のうちのいずれかを使う以外に方法はありません」 空 「すべての感覚を失ってしまったら、世界があるのかどうかさえわからなくなってしまうのです」 空 「逆に言えば、視点こそが、世界を作っていると言えるかもしれませんね」 空 「この場合の視点とは『視覚』のことだけを指しているのではなく、 聴覚、嗅覚、味覚、触覚のすべての感覚を指しています」 空 「物事を知覚するポイント──それが視点なのです」 空 「そして私は……」 空 「私は……月と同じなのです」 空 「おわかりになりましたか? 空の言っている内容は、ある程度理解することができた。 ただ……「私は月と同じなのです」……その言葉の真意がよくわからなかった。 ぼくは漆黒の闇夜に浮かんだ青白い月を、ぼんやりと思い浮かべてみた。 (なるほど……そういうことか……) 答えは、意外なほどすぐに見つかった。 ぼくの知っている限り、月は吠えないし、匂わないし、リンゴのような甘酸っぱい味もしない。 月の存在は、微弱な引力と、その青白い光によってしか知ることはできないのだ。 そう考えてみると、月も、空と同じようにはかなくて、神秘的な魅力に満ち溢れているように思えた。 月は、ぼくが「ある」と信じることによってのみ、そこに「あり」…… 空も、ぼくが「いる」と信じることによってのみ、そこに「いる」…… そんなことを、空は言いたかったのかもしれない。 少年 「うん、わかったよ」 ぼくは答えた。
空は目尻をとろ~んと下げて、頬をくしゃくしゃにして笑った。 なぜか、リンゴのような甘酸っぱい香りを、ぼくは嗅いだような気がした。 |
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