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クイーン、BCRから「ロック御三家」へ

太田省一 社会学者

ロックアイドルの葛藤~レイジーの場合

影山ヒロノブ拡大特撮・アニメソングの歌手として大御所の影山ヒロノブ
 日本にも、アイドル的人気を集めたロックバンドがいなかったわけではない。1977年デビューのレイジーなどはその筆頭だろう。ボーカルだった景山浩宣は後にソロとなり影山ヒロノブと改名。いまや特撮・アニメソングの歌手として大御所的存在である。

 レイジーのアイドル的立ち位置は、5人のメンバー全員にミッシェル、スージー、ファニーなどカタカナ(英語)の愛称が付けられていたことからも伝わってくる。そこには、BCRの存在がやはり意識されていた。キャッチフレーズも「和製ベイ・シティ・ローラーズ」。衣装もタータンチェックではなかったが、トリコロールカラーで統一された。またファンの応援も揃いのハッピを着るなど、アイドルの親衛隊を彷彿とさせるものだった。

 ただ、バンド名のレイジーがディープ・パープルの同名曲からとられたものであるように、元々彼らは本格的なハードロック志向のバンドだった。ギターの高崎晃とドラムの樋口宗孝が後にヘヴィメタルバンド・LOUDNESSを結成したことでもわかるように、その志向は一貫して強いものだった。

 ところが、彼らの代表的ヒット曲となった1978年発売の「赤頭巾ちゃん御用心」は、好きな女の子を赤頭巾に見立て、自分がライバルの男性、つまり狼たちから守ってあげるよという内容の、まさに王道のアイドルソングだった。その後も同様の路線を求められた彼らは本来の音楽性とのギャップに苦しみ、激しく葛藤することになる。そして結局、レイジーは1981年に解散に至る(1998年に再結成)。

 さかのぼれば、同様の葛藤はGSにもあった。テンプターズ時代の萩原健一は、目指していたローリング・ストーンズのような方向性とはかけ離れた「変なアップリケの付いたヒラヒラのユニフォーム」を着て歌わされることに、強い不満を抱いていた(萩原健一『ショーケン』、14-18頁)。

 とはいえ、日本でもロックとアイドルの取り合わせが本格的な大衆人気を得る機はすでに熟していた。レイジーとほぼ同時期にデビューした3組のアーティスト、Char、原田真二、世良公則&ツイストが揃って高い人気を集め、彼らは「ロック御三家」と呼ばれるようになる。 (つづく)

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筆者

太田省一

太田省一(おおた・しょういち) 社会学者

1960年、富山県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビ、アイドル、歌謡曲、お笑いなどメディア、ポピュラー文化の諸分野をテーマにしながら、戦後日本社会とメディアの関係に新たな光を当てるべく執筆活動を行っている。著書に『紅白歌合戦と日本人』、『アイドル進化論――南沙織から初音ミク、AKB48まで』(いずれも筑摩書房)、『社会は笑う・増補版――ボケとツッコミの人間関係』、『中居正広という生き方』(いずれも青弓社)。最新刊は『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント 』(光文社新書)、『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』(双葉社)。

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