人気が沸騰したベイ・シティ・ローラーズ
だが一方で、海外ミュージシャンのアイドル化の流れは衰えるどころか、いっそう強まっていった。そうした折、ティーンを中心に爆発的人気を獲得したのがベイ・シティ・ローラーズ(BCR)である。
BCRはスコットランド出身のメンバーで結成されたロックバンドで、1971年にデビューしたが当初は売れなかった。ところがボーカルが2代目のレスリー・マッコーエンになると、一転して上昇気流に乗り始める。1975年発売の「バイ・バイ・ベイビー」がイギリスで大ヒット、日本でも人気に火がついた(同曲を郷ひろみがカバーしたほどだった)。
さらにその人気を決定づけたのが、同じく1975年発売の「サタデー・ナイト」である。この曲はビルボードでグループ初の全米1位を獲得、全世界的にヒットした。それ以後、「二人だけのデート」「ロックン・ロール・ラブレター」とヒット曲が続き、一気にブームが巻き起こる。日本でもご多分に漏れず、人気は沸騰した。
「洋楽ロック御三家」に比べ、BCRは日本人の思い浮かべるアイドル像に近かった。少年のようなビジュアルと髪型、スコットランド出身ということでタータンチェックがあしらわれたユニフォーム的衣装、恋愛や青春を切なげに、そして時には弾けて歌う楽曲。それらが相まって、彼らは違和感なく「アイドル」のイメージを投影できる対象だった。
ベイ・シティ・ローラーズのタータンチェックのファッションは、日本のファンにも人気を呼んだ=1976年12月、大阪市
興味深いのは、そんな彼らの人気を支えたメディアとして、従来の雑誌やラジオにテレビが加わったことである。
よく知られるように、ミュージックビデオの制作が本格化するのは1980年代にアメリカでMTVが登場し、マイケル・ジャクソンの「スリラー」などが話題を呼んだあたりからである。それ以前は、日本で海外ミュージシャンが“動く”姿を目にするには、コンサートに足を運ぶくらいしかなかった。ただ、その機会も当時かなり限られていた。
そうした状況のなかで、海外ミュージシャンの歌や演奏を見せてくれた貴重なテレビ番組のひとつが、NHK『ヤング・ミュージック・ショー』(1971年放送開始)である。不定期の放送だったが、それでもレコードやラジオで聴くだけだった歌や演奏を目の当たりにするインパクトは大きかった。エマーソン・レイク&パーマーなどこの番組で放送されたライブステージが話題になったミュージシャンも少なくない。
BCRは、当時の人気を物語るように1976年から1977年にかけての短期間に計3回、この番組に登場している。
1回目の出演が1976年5月5日。内容はBBCが制作したスタジオライブだったが、BCRが日本で広く認知されるきっかけにもなった。その半年後に発売されたアルバム「青春に捧げるメロディー」は、オリコン週間チャート3週連続1位を達成し、60万枚超という洋楽としては異例の売り上げを記録した。
そして同年の12月に初来日。その際にNHKのスタジオで収録されたライブが2回目の出演(1977年1月8日放送)である。
このときBCR側からは、「“口パク”であること」と「ファンの人たちを出来得るかぎり大勢入れること」が条件として出されたという(城山隆『僕らの「ヤング・ミュージック・ショー」』、395頁)。そこには歌や演奏そのものを聞かせるよりも、メンバーのパフォーマンスとそれに対するファンの反応、その現場の熱気を優先的に見せたいというアイドル的戦略が透けて見える。実際、500人ほどが集まったスタジオは、舞台セットが壊れるかとスタッフが心配するほどの熱狂ぶりとなった。視聴率も15%前後と、この種の番組としてはかなり高いものになった(同書、404-405頁)。