南京入城を映した動画があった

歴史戦争は真実を知ることで勝つ。

その時代の経緯を整理すると以下になる。
昭和12年7月7日 盧溝橋事件
盧溝橋事件の双方への発砲は、後に中国共産党国家主席となった劉少奇(りゅうしょうき)が指示したものであることを、彼自身が告白している。事件不拡大を望んだ日本軍は、その四日後には停戦協定を結んでいる。

昭和12年7月29日 通州大虐殺 ← 開戦の原因はこれだ。

昭和12年8月13日 第二次上海事変の閣議決定

昭和12年10月9日 正定事件

昭和12年12月13日 南京陥落  

この資料を見て虐殺は全くの嘘・捏造だと理解出来ることだろう。
日本人が真実の歴史を知ることが歴史プロパガンダに打ち勝つ唯一の方法だ。
nankin1.jpg


1937年12月13日
南京城陥落直後の様子と思われる。
中国軍が軍服を脱いで逃亡した事実。
督戦隊の存在が語られている。 
督戦隊はゆう江門事件を起こしている。(中国人同士の殺戮)                           
 

●日本軍の総攻撃の3日前に蒋介石が飛行機で敵前逃亡し、陥落直前には南京防衛司令官の唐生智(とうせいち)までもが敵前逃亡してしまい、支那軍は司令官がいなくなって大混乱してしまった。
●南京城は外敵から市民を守るために高くて頑丈な城壁で囲まれており、城門を閉じると市民も兵士も外へ出れなくなる。脱出し損ねた支那兵は袋のネズミとなった。
●市民が数多く残っていたので、外国人が安全地帯をつくり、「南京安全地帯国際委員会」を組織した。脱出し損ねた多くの支那兵は便衣(平服)に着替えて安全地帯にもぐりこんだ。

南京事変の動画2番 
1937年12月17日 
南京入場式 清々粛々と入場する様子。
軍隊の体を成さない中国側にとって日本軍のこの統率のとれた様子は絶対適わないと感じさせたことだろう。
「日本の兵隊さんは立派だった」
各国の人々が口を揃えて語る様子が分かる。
最後に安東軍曹奮戦之地との立て札が写るが興味のあることだ。
(調査結果を最後に掲載)


1937年12月18日 
南京入場式の次の日 慰霊祭が執り行われた。


南京事変動画4  
南京城陥落後の復興の様子
難民非難区の中国の一般人も和やかな様子
治安が回復したため一般住民が帰ってきている。



映画 南京の真実 記録映画編(南京陥落後)


南京事変動画5  
1937年12月の年末から年始の様子



1938年(昭和13年)の元旦から追撃の様子

     Public domain 『南京』"NANKING" 4-4



南京入場が12月17日だから日数は経っていないがなんとこの和やかな様子はどうだろう。
門松を作っている様子や餅つきの様子
中国人の子供が爆竹を楽しそうに鳴らしている。
どこで虐殺などが行われたのか不思議だ。

以上の動画から何処で虐殺が行われたか、そのような捏造がどうしてできるか不思議である。

南京城の中で悲惨な事が起きたことは事実ではあるがその原因
●蒋介石が逃亡した。
●司令官の唐生智が逃亡
●一般兵士を逃げられないように床に鎖でつないでいた。
●督戦隊を置き逃亡兵士を殺戮した。(中国人による中国人の殺害)
●便衣兵が安全地帯に逃げ込んだ。
あまりのも中国軍の統率不足・兵士としてのレベルの低さが問題である。
日本軍は規則通りに戦争を遂行していた。
何の文句も言われることはない。


南京城攻略の決死隊
30mの運河を渡り城壁までの50mを20mの梯子を持って走って壁を越える決死隊を組んだ。
一番に梯子を上り始めたのは安東康文軍曹、続くのは中津留大作伍長、斜めに掛けた背中の銃には日の丸がきつく結ばれていた。
銃弾降り注ぐ中、梯子を上り詰めても残り4mは取っ掛かりの何も無いフリークライム状態でそれを越えた。

決死隊は、
安東康文軍曹、(豐後高田市出身)
中津留大作伍長、
江口森次一等兵
真鍋彰一等兵
栗津定一等兵
寺山勝美一等兵
の六人。

この記事へのコメント