完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?
- 作者: マイケル・J・サンデル,林 芳紀,伊吹友秀
- 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
- 発売日: 2010/10/12
- メディア: 単行本
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色々な事例を持ってくるうまさというのは確かにあって、いきなり冒頭から、
数年前の話であるが、子どもを持とう、それも、できれば耳の不自由な子どもを、と決意したカップルがいた。このカップルはともに聾であり、またそのことを誇りとしていた。シャロン・デュシェノーとキャンディ・マッカローは、聾を誇りとする他の人々がそうであるように、聾は文化的アイデンティティである治療すべき障碍ではない、と考えていた。(p.3)
と始まる。他にも、加齢による記憶力低下を防ぐ薬のことを「脳のバイアグラ」と表現し、この一言で利用者の願いや社会の受け取り方の微妙さを表現している。
事例紹介は他にも、ミュージカルのマイク使用、や炎のランナーに出てきたトレーナーを雇うこと、など多岐にわたる。この事例を眺めるだけでも面白い。
本書自体の結論は、おそらく以下のようなところだろう。
私の反対論は、遺伝子操作の社会的費用の方がその利益よりもいっそう大きな重みを持つ可能性が高いというだけ。(p.101)
エンハンスメントを巡る論争の中で道徳的な危機にさらされている事柄は、自律や権利と言ったありふれたカテゴリーによっても、費用便益計算によっても完全には捉えられないのではないか、ということである。私がエンハンスメントに対して抱いている懸念は個人の悪徳に関するものではなく、心の習慣や存在様式に関するものなのである。(p.101)
世界に合わせるために人間の本性を変更することは、実際にはもっとも深刻な形態の人間の無力化をもたらす。それは、我々の目を世界に対する批判的な反省から逸らし、社会的・政治的改良へと向かう衝動を弱めてしまう。(p.102)
サンデル教授は「生の被贈与性(giftedeness of life)」という言葉を使っているが、自分のコントロールできない部分があることを認めることで、見守り・寛大さ・謙虚さと言った価値が共有され、それが連帯や相互扶助といった社会制度の裏付けとなっている、それが失われるというコストを懸念しているようだ。
エンハンスメントを認める社会ではコントロールできる範囲が広がるわけだから、当然その部分は個々人の責任範囲ということになる。それは自己責任の範囲を過剰な広げることになり、結局社会全体としてはコスト高になる、ということになるのだろう。
私の目から見ると、この批判はコンピュータやネットワークに対して浴びせられた批判と同じであって、「そういう面はあるだろうが、それは新技術の功罪の功を過小評価し、既存社会の功を過大評価している」と思う。
サンデル教授も幹細胞の議論の章では、
胚研究がこうした危険性への道を開くことは必定だと考えている点では誤っている。胚性幹細胞研究や研究目的のクローン技術利用を禁止してしまうのではなく、人間の生命の胎動が持つ神秘に相応しい道徳的制約を具体化するような規制を課しつつ、研究推進を許容すべきなのである。(p.134)
と言っている。エンハンスメントも同様に捉えればよいと思うんだけど、エンハンスメントと幹細胞研究を隔てるものは何だと教授は考えているんだろう?