中曽根康弘元首相死去 101歳、「戦後政治の総決算」

政治
2019/11/29 12:54 (2019/11/29 13:07更新)

中曽根康弘(なかそね・やすひろ)元首相が29日午前、死去した。101歳だった。「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄民営化などの行財政改革を推進。外交では日米同盟の意義を強調し、当時のレーガン米大統領と「ロン・ヤス」と呼びあう強固な関係を築いた。

2017年5月、自身の白寿を祝う会に出席した中曽根康弘元首相(東京都千代田区)

2017年5月、自身の白寿を祝う会に出席した中曽根康弘元首相(東京都千代田区)

1918年、群馬県高崎市生まれ。東京帝国大(現東大)法卒。旧内務省に入り、海軍主計少佐などを務めた。47年に現憲法下で初めて実施した衆院選に28歳で当選した。一貫して自主憲法制定を訴えるなど、大胆な言動で「青年将校」とも称された。

59年に岸内閣で科学技術庁長官で初入閣。66年に中曽根派を立ち上げた後は、防衛庁長官や通産相などを歴任した。

自民党では幹事長や総務会長を務めた。三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫各氏ら「三角大福中」と呼ばれる有力者と首相の座を争った。

82年に田中派の全面的な支援を受けて首相に就いた。同派から多くの閣僚を起用し、「田中曽根内閣」などとやゆされたが行政改革に意欲を燃やした。

臨時行政改革推進審議会の会長に土光敏夫氏を充て、国鉄、電電公社、専売公社の民営化を実現した。86年には戦後2回目となる衆参同日選をしかけて大勝した。

外交・安全保障の分野でも独自色を発揮した。レーガン氏との「ロン・ヤス」関係をつくり、日米同盟の強化を進めた。冷戦下でソ連の脅威が増す中で「海空防衛の重視」を掲げ、防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠を撤廃した。

中国や韓国とも良好な関係だった。首相として初の靖国神社への公式参拝は、現在の歴史問題の端緒ともなった。首相在職日数は1806日で、歴代7位の長期政権となった。

2003年の衆院選前に小泉純一郎首相(党総裁)の不出馬要請を受け、政界を引退。衆院当選20回で、国会議員在職は56年に及んだ。

引退後は憲法改正やアジア外交など幅広いテーマで積極的な発言を続けた。超党派の国会議員でつくる新憲法制定議員同盟の会長を務め、保守派議員の精神的な支柱だった。

92年1月に日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆。97年に大勲位菊花大綬章を受章した。

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