「戦後政治の総決算」を掲げ、5年間にわたる長期政権で国鉄分割民営化などに取り組み、原発政策や憲法改正論議にも大きな影響を与えた中曽根康弘元首相が死去した。101歳だった。
1918年、群馬県生まれ。東大卒。旧内務省に入り、海軍主計少佐を経て、47年に旧群馬3区から衆院初当選。当選20回は戦後最多。科学技術、運輸、防衛、通産、行政管理各省庁の大臣・長官、自民党幹事長、総務会長を歴任した。
54年に日本初の「原子力予算導入」を主導し、戦後日本の原発政策に深く関わった。66年に中曽根派を結成。少数派閥ながら「風見鶏」とも評された政治感覚で他派との合従連衡の政治を渡り歩き、鈴木善幸首相が退陣した82年の自民党総裁選で河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎の各氏を破り第71代首相に就任した。
当初は田中角栄元首相の影響が強く「田中曽根内閣」と批判されたが、ロッキード事件で田中氏が有罪判決を受けた後は距離を置いた。新自由クラブとの連立のほか、安倍、竹下登、宮沢喜一のニューリーダー3氏を競わせる政権運営で基盤は強固となった。
土光敏夫氏が会長だった臨時行政調査会(臨調)など諮問機関を使って改革案をつくらせ、党や官僚の頭越しに実行するトップダウンの手法を多用。民間活力を重視する「小さな政府」路線で電電、専売、国鉄の3公社を民営化した。ただ、国公有地の払い下げやリゾート開発を進め、首都圏を中心に地価高騰を招いたほか、選挙公約を破る形で売上税導入を図ったが、廃案に追い込まれるなど批判もつきまとった。
外交では、東西冷戦の高まりを背景に「西側陣営の一員」の立場を鮮明にし、レーガン米大統領と「ロン・ヤス」関係を築いた。対米協力強化を図り、米戦略防衛構想(SDI)への研究参加、防衛費の国民総生産(GNP)比1%突破に踏み切った。「日本列島を不沈空母のようにする」と発言。戦後の首相で初めて靖国神社を公式参拝し、中国などから強い反発を浴び、翌年から見送った。
86年には衆参同日選に踏み切り、300議席を超す圧勝で総裁任期延長を勝ち取り、戦後5番目に長い政権となった。後継総裁には竹下氏を指名し、影響力を残す形で退陣した。
リクルート事件では、秘書らへの未公開株譲渡が明るみに出たほか、側近が受託収賄罪で起訴された。国会で証人喚問を受け、自民党離党。91年に復党後は各国の指導者と会談して議員外交を展開。小選挙区制導入後は、党の比例ブロック終身1位として当選を重ねたが、2003年に小泉純一郎首相から引退勧告され、公認を得られず政界を退いた。
97年に現役議員ながら大勲位菊花大綬章を受章。その後も持論の憲法改正で発信を続け、2017年5月、自身の白寿を祝う会でも改憲への意欲を示していた。
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