元プロ野球・巨人の球団代表で野球史家の山室寛之さんが、南海ホークス、阪急ブレーブスの球団売却を巡る内幕を描いた「1988年のパ・リーグ」(新潮社)を出版した。両球団の売却が同年だったのは偶然か。経済界、地元行政、メディアはどう動いたのか。同年10月19日の「ロッテ-近鉄」の裏側で起きた「1988年」の真実が、元社会部記者による丹念で綿密な取材で明らかにされる。
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-福岡市では、ダイエーの南海買収より前にプロ野球誘致の動きが出ていました
山室さん 1986年(昭61)、青年会議所を中心に有志による市民の誘致運動が始まりました。福岡市に本拠を置いた西鉄ライオンズ往年のエース投手で、ロッテ監督を務めていた稲尾和久さんが「ロッテ誘致に向けて、みんな立ち上がってくれ」と、青年会議所の経済人に呼びかけ、彼らが情熱的な無私の誘致運動に乗り出したのです。平和台球場近くで育った私も、もし地元で就職していたら、間違いなく運動に関わっていたでしょう。当時の活動の記録や物証を集めて、市民とロッテ球団幹部の秘密裏の折衝経過を追ううちに、ロッテの福岡移転が実現寸前まで進んでいたことが分かったのです。
-しかし当時の桑原敬一・福岡市長は、プロ野球に興味がなかった
山室さん 無関心というより、嫌いと言った方が正確かもしれない。しかし87年暮れ、平和台球場の外野席改修工事で、平安時代の外交施設「鴻臚(こうろ)館」跡が見つかり、球場移転を考えねばならなくなった。また89年、福岡市制施行100年を記念して開かれる「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」跡地利用も市政の課題となっていた。そのころ、ダイエーから福岡市に対し、仮に球界へ進出したら平和台を使わせてもらえるか、と打診があったのです。
-ダイエーは、南海買収が動きだす前に、球界進出を考えていた?
山室さん この時、ダイエーの念頭にもロッテがあった。ロッテを巡り、市民の誘致運動とダイエーの買収工作が同時に動いていたのです。ダイエーは市民運動の存在を知り、福岡の野球熱に目をつけた。一方、市民側はダイエーの工作を全く知らなかった。桑原市長は、ダイエーの打診を耳にして平和台球場の移転とよかトピア跡地利用が、プロ野球誘致によってたちどころに解決する、と踏んで球団誘致に傾いていった。
-そこで、ダイエーの中内功さんと会談する
山室さん 88年5月6日、中内さんの求めで、神戸市のダイエー系列のホテルで桑原さんとの極秘会談が開かれます。桑原市長は、アジアの玄関口としての都市計画を構想していました。桑原構想が、アジアへのビジネス展開をもくろむ中内さんの琴線に触れたのでしょう。ダイエーが、買収先をロッテから南海へと切り替えたのも桑原市長との会談が決定打になったのですね。ダイエー、南海、ロッテ本社の事業計画や銀行の思惑も絡んで以後、虚々実々の駆け引きが繰り広げられます。
-経済小説の趣です
山室さん ダイエーの南海買収が大詰めを迎えていた9月12日夜から13日未明まで、南海の吉村茂夫オーナーが自宅で、メディア各社の囲み取材に応じました。吉村氏が身売り3条件を示唆し、読売新聞がスクープします。しかしその場にいなかったNHKが、朝6時のニュースで、浴衣姿で取材に答える吉村氏の映像を流した。午前1時すぎまで続いた囲み取材で、吉村氏はネクタイを締めたシャツ姿だった。これは新聞の写真から明らかです。NHKは他社が帰った後で取材したのは間違いない。浴衣姿の吉村氏の映像は、午前2時から5時ぐらいの間に撮った。なぜそんな夜中にNHKが吉村氏宅にいたのか。メディアの間でも激しい特ダネ合戦が繰り広げられていました。
-「保秘」が徹底された交渉過程をどう評価しますか
山室さん 中内さんは、球団買収を一貫して否定し続けた。交渉事ですから秘密裏に進める必要があった。そこは理解できるが、落着後は球界進出の真実を語る責任がある。桑原さんは、市長退任後、新聞のインタビューで、当時の経緯をある程度、語っていますが、議会を通さずに民間企業へ公有地の譲渡を約束もしくは示唆する手法を採ったことを民主主義との関連でどう総括するのか。福岡ドームが建設されたよかトピア跡地売却の経緯についても、やや勇み足と感じる面がある。ご存命であれば、そのあたりをぜひ聴きたかったですね。
◆山室寛之(やまむろ・ひろゆき)1941年(昭16)中国・北京生まれ。64年、読売新聞入社。警視庁キャップ、社会部長、西部本社編集局長などを歴任。98年から2001年まで巨人球団代表を務める。現在は野球史家として活動。著書に「巨人V9とその時代」「背番号なし 戦闘帽の野球」など。