■ 【自分】 ■

最終更新:2019.11/21 更新回数:数百回 =最終更新時に新規追加した文

                 

自分は小学校入学時から現在まで家族以外の人と一切話をしていません。
小5からは家族とも話をしていません。
高2から誰一人として誰とも話をしていません。(執筆時)
話さない時は即ち、自発的に何かしているところを誰にも見られないようにしています。
誰とも話さない今は、人前では常時その状態。
話せないフリ、自発的には動けないフリをし続けないといけない状況になっている。
その状態で定着してしまったので元に戻る勇気がなく、もう戻れない。
「自発的に」行動しているところを人に見られてしまうので密かに外に出ることもできない。
何もできない人を演じ続けている状態で、言葉がわかるかどうか字が書けるかどうかも曖昧なフリをせざるを得なくなっています。
意思表示も何もできず、何かを選択することもできません。
やれないことになっているので1人の時「何かした形跡を残す」こともしてはならない状態。
何もしない何もしてない何もできない。行動、判断、言動なし。
即ち基本責任を持つようなことにはならない。
どうやって生きてきたかというと、想像を絶するような形です。
そして今や重度知的障害者“ということに”され、それ相応な扱いをされるようになってしまいました。
このような人はおそらく世の中で自分だけでしょう。
どう思われますか?
↓これらなんか比ではない。。どれだけ仰天?w(もし、気に障る発言だったとしたらすみません)
https://www.facebook.com/SelectiveMutism.Kanmoku/posts/483617915031199
http://www.ntv.co.jp/gyoten/backnumber/article/20170301_02.html
どれほどのものか伝えるために言っておきますが、
学校では喋ったことがないどころか、誘導されずに動いたことはないし、
着替えたことも、食べたことも、トイレの中に入ったこともありませんでした。
自分で教科書を開いたこともないし、ペンを出して字を書いたこともない。音読なんてもってのほか。
最初の3年間は1分以上座ったこともありませんでした。
見聞きしていただけ。
入学前までのころはごく普通でした。
入学後も小5までは家では普通でした。学校だとあれなのに家ではどうして?と不思議に思われていたくらい。
(他人の前で本来を見せることに無理はないので、正確に言うと〈人前ではなく〉知人の前では常時その状態)
…
原因はなんだったのか?
簡潔に言うと…
園で辛いことがあったから…それもあるかもしれないが、1番は自分の個性…
問題はそこにある。
結局を言うと…自分が変わっていただけ…。
普通子供なら何も考えず、ありのままに生きているはずなのに、
自分の場合、あらゆることに対し、色々考えてしまう性格だったがために、こうなってしまった。
もともと何かすると家族に大げさな反応をされてしまうから…それがあれで、知恵を凝らし、
できないフリ、やれないフリをし続けていたわけです。3才時点からそうだった。
そういう“フリ”をすることが発展してしまった。
できすぎてしまうので、その力を隠していた感じ。
大げさな反応をされていた(驚かれていた)理由として「自分はいつも年下だったから」というのもある。
年下だから(←そういうわけで〈クズだの知的障害者だのどうこうではありません〉)見た目的に軽視され、
常識的にみて能力が1番低いものだとばかり思われていたわけです。
だから少しでも力を見せると驚かれた。それもこうなった理由の1つ。
(そのことに気付いていなかった馬鹿野郎ではありません。今気付いていたことにしたわけではありません。
 断じてそうではありません。言い訳ではありません)
しかも、その少しで全力だったわけではなく、本当は身近なところにいる年上の人達を上回ってしまうほどの力があった。
今でも別の意味で軽視されていて(そうでなくても)家族辺りに本気を見せたら
色々絶賛されて衝撃を与え続けることになります。確実に。(思い込みではありません)
このような人はまず他にいませんから、これを分かってもらえる人もいない。。
孤独な存在。
何かできないことがあったり、欠点があったり、短所ばかりだったり、
自信が持てず内気だったりで苦しみ悩むみたいな人は、世の中では有り触れた存在。
そのような人はどこにでもいる。
自分の場合それとは全く違い、その逆です。(できることにより苦しみ悩む感じ)
こんな人は見たことも聞いたこともありません。。
自分はそうではないので、そういうのは共感できない。
そしてこの世の中はそういう人を励ますもので溢れていますが、自分はそれで励まされるようなことはありません。
そういう人とは全く違うため、共感できないわけですから。
共感できる人は普通です。励まされるのでまだいいです。
「下手だから見せられない」ではなく、「上手いから見せられない」。
「わからないから言えない」ではなく、「わかるから言えない」ような感じになる。
6才から…みたいに思われていますが、実は3才の時にはすでに
(本来の姿からかけ離れるほど極端なことにはならずとも)多少この“やれないフリをする病気?”になっていた。
そんなで「真」の本来の姿は家族にも見せたことがない。(少々本来の自分を隠している程度の人はいくらでもいる)
人に見られていると何もできないわけですが…
1人にしてもらえる(誰にも見られていない場にいさせてもらえる)時間がわりとあります。
その時にネットなどがやれている。
(確実に自由の身になれている時間は夜中のみ〈夜中のみしか自由の身になれないわけではありまあせん〉)
気づいたらいつのまにかこうなっていたではありません。
自分はそういう何も思うことなく何となく変化を起こすような単純で軽く甘い人間ではない。
そんな人間ならそもそもこうなっていない。
家族と話さなくなった時なんかは完全にそうですが、
きっかけを作った言葉、この状態でずっといることを決定付けることになった言葉がありました。
ある人が言ったとある1つの言葉によるもの。
本当です。そうは見えなかったからといって作り話ということにしないでください。
周り〈他人〉からは見えていなかったもの、今や忘れられていることが色々あります。

もう(いかなる知人の前でも)話をしていた(常時健常者だった)ころに…あのころの自分に戻ることなどできません。
今、常時健常者になったとしても日程なんかが色々あって…誰もが困惑する。
ともかくもう非常に戻りにくい環境になってしまっているわけだ…。(健常者の状態=本来の状態)
“自分が話すその時”をただただ待ち続けている人がいたりしますが…それではだめなのです。
そんなことを言っている人は何も考えていない。
考えてみればわかります。今の環境で突然元に戻ることなんてできない。
でも自分は一刻も早く昔みたいな常時健常者に戻りたい(現状打破したい)と思っています。
(戻りたいからそう言っています。本当は戻りたくないということはありません。それならこのページはありません)
どうしたらいいのか?
“自分のことを知らない人(他人)”とならリアルでもなんとか勇気しだいで話せるかもしれない。
自分と話したことが、自分を知ってる人(知人)にバレないと断定できる場合ならば何とか…。
ネットの掲示板で見知らぬ人と話すことはできます。それはできました。
ネットで人と話ができたこと。これは凄いことだった。
そんなで電話で見知らぬ人と話してみることならできそうなのでまずそこから始めてみようと考えた。
次のステップそれは肉声…以下省略
と思っていたが冷静に現実的に考えてみた結果、それができたとしても
もはやあまり意味がない可能性大だったのであれだ。重要なことには繋がらない。

自分は現状のままでも密かにネット上で色々なことがやれており、生きがいを感じられている。
仕事をすることと、家族を作ること。それは絶対にやらないといけない…。それをせずに人生を終えてしまうわけにはいかない。
ですがそれは本当に夢のような話。
よくよく考えてみると…遠い場所へ連れて行き、長い間放置してもらうくらいのことをしてもらえないとそれはもうほぼ無理。
まず絶対にそんなことはしてもらえない。ある意味何もやれないと(普通と違う常識知らずの人だと)思われているので。
誰も健常者の自分を詳しくは覚えていない。
健常者の時の状態とそうでない時の状態とを同じに見られたりする…。
小5までのことは忘れられていることが多い。
今のイメージが以前のイメージと重複し、どうしていたのか何をしたか?そういうことが忘れ去られていたりする。
色々自分でやっていたわけだが。
忘れているからには具体的に言わないと否定される。
“小5まで”が人生のうちの少しという扱いになってしまうとは。。
あのころとは別人のようにも思われる。
自分は“普通に授業を受けていたのと同じことになるように”勉強しました。
普通でない特殊な人(特別な扱いを受ける人〈特に障害者〉)などには絶対になりたくないと思っていました。
(障害者には悪いですが、普通に過ごせるに越したことはないので)
だからそうならないようにするんだと心に誓っていました。そのような人になっているわけがありません。
いや健常者ではない状態の時はあれですが、“健常者の時の自分”は普通。
普通のわけないだとか言う人がいそうですが、何を持ってそう言うのでしょう?
大人の普通とは何ですか?子供の普通とは違いますか?
昔とは違い、今は色々なことが障害と定義付けられ、一見何ともなくても少し特徴があるとそれを障害と見なして
障害者の認定を受けさせる風潮で、障害者のイメージが変わってきていますが…
個人的には思うに、会話ができて覚えることができればその人は障害者ではないと思います。
個性があり、人はそれぞれ違います。自分とは違います。
こうあるべきではないなどと思うことがあります。
(↑↓ここで言っている「自分」とは筆者のことを指しているのではなく全ての人間を指しています。変な様に誤解しないでください)
突き詰めたら自分以外の全ての人が障害者になってしまいます。
“自分”というのは自分が正しいと思うことをしているので基本、自分では自分を悪くは思いません。
皆そうです。
だが他人から見ると悪いことだらけだったりします。
必ず良くないと思う点があります。
(何もできない状態だったことにより)学校では普通に授業を受けていないといえばいないわけですが、
“そういう普通に授業を受け続けていない人は即ちどうしたって人並み以下だ”と思う人がいる。本当にそうですか?
そう言ったら古い年代の人の多くは今となっては人並み以下。
“人に教わることをしないと「確実」にわからない”“学歴が全てだ”みたいに思う人もいる。耳で聞くことと読むことがどう違う?
普通のことを経験していない特殊な人にはなります。
だからその特殊な人にならないように誰もが経験する道を経験していくことを望んでいた。
そして“普通に授業を受けたのと同じことになるように”こだわって勉強したわけです。
後々同じことになるようにしたわけです。
生きる上で重要なことか非かは関係なし。
“皆が覚えたことを覚える”という形式。
皆がやっていたようにやる。本来自分が通るはずだった道を通ったことにする。
そうしないと許せませんから。
なので普通に授業を受け勉強していたものと思っていいわけです。
学校は教科書に基づいて授業を行っています。それなりにそうすることができます。
文句はありますか?無知だという証拠はありますか?
もし無能だとしたら、自分でそのように感じると思いませんか?
自分の思うことが絶対ではありません。皆しもが同じではありません。あなたの考えは独特かもしれません。
何もしてなかった、普通の生き方をしてない、経験がない、特別だとか、そんな風に思わなくて良い。
通るはずだった道を通り、本来なら今頃自分は遠に別の家族の元で暮らしていたはずです。
それがそれが、儚くもまさかのこんなことになっている。
引き込もっていたこともないですし、外の世界も普通に知っています。
“普通に授業を受けていたのと同じことになるように”の意味、わかりませんか?
「学校で学ぶこと」を学校で学ぶ通りにほぼもれなく(←「ほぼもれなく」ですから科目全て)学んでいます。
こう言ってもこれは「一般的に誰もしないこと」だから信頼されない。
しかし何もできない状態だったとはいえよ、ちゃんとその気があれば、授業中の皆と同じ時に密かに学ぶことができていた。
ノートに書いたりしてもしなくてもほぼ変わらない。少なくとも自分はそう。
悔しくもその気になるのが遅かった。それができたのは僅な期間のみ。
「何もできない=その場で勉強不能」とはならない。
「何もできない状態だったことにより」というよりか
「何もできない状況で、何もしなくとも問題ないことになっていたことにより」が正しい。
…話しが脱線していましたが、つまりは「本来の状態の自分なら何でもやれる」ということを言いたかった。
できる場面ではできることは事実。(違いますか??)
ただの仮病です。いつまでも続けざるを得なくなってしまった仮病。
そう表現するとわかりやすい。

「密かに外を出歩く」くらいのことなら勇気しだいで何とかできるかもしれない。
それができたら凄いことなので良しとするべきか?
成人間近になったら焦って常時健常者に戻ってしまうか…とも思っていたが、
そんなことはなかった…
次は30手前か…なんて思ったりもしたがそういう問題ではない気がする。
何か行動を起こさないと変わらない。
でもさすがに30,40になったら呆れられて状況を変えてくれるかもしれない。
「このままで一生を終える」ということは…さすがに“ない”と思う。
早死にしない限り、それはありえない。
あのころ、もう少し厳しくされていたらこうなってはいなかった気がする。
大きくなれば自然に治ると言われていたが、「そんなわけない」と感じていた。(本当にそう。自然に治るわけはなかった) 
早い(根の浅い)うちに何とかしないと取り返しのつかないことになる。
普通に取り返せる可能性があったのは小1の前半くらいまでだった。
今回、こんなに長引くことになるとは自分でも驚き。
皆も驚き。そのうち戻るはずで、そういうことになっていましたから。
社会に出る歳になってもそのまま?などと言えば笑い話になったもの。
本当にそのままで人生台無しへの道をたどることとなってしまおうとは。。
長引けば長引くほど色々あって元に戻りにくくなる。

外を歩けても見知らぬ人と話せても何にもならない。家の人と話すのは“冷静に”考えてみるともうほぼ無理だから。
それは単なる「こっそりやっていること」に過ぎない。
どうすれば……
遠くでなくてもいいので少しずつ、一人暮らしさせてもらえたらそれが現状打破に繋がるかもしれない。
ネットで話せる人と知り合ってその人のところへ行くみたいな展開になれば何とかなるか?(難しいか?)
ネットで知り合った人がたまたま徒歩圏内に住んでいて行き来できることになる…
みたいなシチュエーションがあったら一時的にだが現状打破している時間を作れる…。
ともかく現状打破する手段はないわけではない。
誰も来れないくらい遠い場所に放置してもらうか、
知人(自分に関わってこられる人達〈家族含む〉)が全滅する(この世から消え去る)ようなことがあれば確実なのだが。。
(極力人のことを特定して誰と言ったり、限定して指し示すことは避けます。知人などというワードを多様する
 〈このことを語る上で最大のキーとなるのは「知人」〉)
高齢になればかってにほぼ全滅すると思うが、それまで待ったら自分の人生も残り僅かになる…
全知人と縁を切ってしまってそれで果たして幸福か?
全滅するから…というのもあるが、高齢になればさすがのさすがに色々な感情が込み上げ、
何か大胆なことをしてでもして常時健常者に戻る。
まず“自分”としたことがこんなままで終わるわけはありません。
何というか、そういうもの。そう思ってきた。
訓練等は無意味。
心の問題なので。
確認をとられるとだめ(全てにおいてそう)だというのに、何においても確認をとられないとだめとされるのでどうにもならない。
証拠が残らないように工夫したり、何かしても本当に驚かなくなるような状況を作ってもらうことで可能性が開くことはありえる。
自発的に動いているところを見られても話せないことはあるかもしれないが、逆はない。
普通に「話すこと」ができたらその時は完全に常時健常者になっているはず。
考えてみればわかるはずだが、話すようになったら同時に動けるようにもならないといけない。
そうしないと辻褄が合わない。というか、そうなる。
普通に仕事をして家庭を作ったりすることができたら奇跡だ…なんて言われていたことがあるが、そんなことはない。
自分がこうなったこと自体がある意味奇跡。
こうなったのにはしっかりしたプロセスがあるし、本気で何か手を打てば普通にやっていけるようになることが可能なわけです。
もうとっくに「人生失敗」になっているが、だからといってもうどうでもいいとも思わない。
成人したらもうオ○サンです。終わり。仕事も何もできない人でした。みたいな無残なことを言われましたが(ネット上の特殊な人に)、
実際には年齢の数字が増したからといってどうってことないし、人生で言うと先は長い。
諦めなければ大概のことはやれるし、今の世の中のシステムや常識に束縛されていなくてもいい気がする。
1年違うだけでも見られ方が大きく異なってくる。
時間が経過したことが、それが影響してだめになってしまうことがあったり、
運命が変わったりしてしまうようなことがあったら、残念でたまらない。
これからも時間が経過していくのでそういう見方があると絶望的でしかない。未来は暗い。
若いと良い→即ち歳をとるとだめ→即ち未来は暗い
14から今を今だと思わない感覚でいるので、「今」の年齢に対してどうこう言われたり、
子供だ大人だ若い、年寄りだの言われてもピンと来ない。14からは常にそうだった。
「何歳から見て←何歳は○○」という認識も昔から持っていなかった(持ったことがない)のでそう言われてもピンときません。
年齢は人が作ったただの数字。
生年月日などとは違い、頻繁に変化する「変数」。
何にしろすぐに今は今ではなくなって本当の年寄りになるし、子供でもあった。
今には過去がいくらでも混じっています。過去があって今がある。今は過去でできている。

“少しずつできるようになろう”みたいなことも散々言われてきましたが、そういうものではない。
ある瞬間から突然変わる(元に戻る)もの。
最初は園で健常者の状態になったりそうでない状態になったりを繰り返していたわけです。
(常時健常者の状態に戻れた時の解放感は何度か味わっている)
その“状態が変わる時”は“突然”でした。(考えてみればわかるがそういうもの)
“本来”はそういうものですが…
ただ、これだけしぶとくこの状態が続いてしまうと色々あるし突然という風にはいかなくなってきてしまっている。
健常者ではない状態の時が健常者の時のような状態に近づく…
みたいな中途半端なことはない。不都合が生じるので。だからそういう意味での訓練は意味なし。
スイッチで切り替わる感じ。
今でも誰にも見られていない時は健常者の状態なわけです。ある意味突然状態が切り替わっています。
切り替えを繰り返しながらうまくやっていくみたいなことはできる可能性がありますが、
中途半端な状態を経由して少しずつ健常者に近づける(良くなる傾向にする)…みたいなことはできない。
自ら何かすることは何もしない状態。
簡潔に言います。「健常者ではない状態の時を、訓練により健常者の時のような状態に近づける」ということは現状では不可。
「切り替えを繰り返しながらうまくやっていく」ことは可。
言っておきますが健常者の状態から障害者の状態になっても内面は変わりません。
心や記憶や人格に変化はありません。
多重人格ではありません。
でもその2つの状態は全く違います。
同じもの・同じになるものとして見ることはおかしい。
分けて(別人のようなものとして)見るもの。
場面のことは言うまでもなく、説明する上で必須。

実際には「できない、知らない、やれない、わからない」みたいなことは自分にはありません。(現時点でありません)本当です。
教えられる側の立場でいることはもう卒業してると思っています。
(世の中の情報量は無限大ですから、当然知らないことが一切ないという意味ではない。全てを知る人など存在しない)
教えられるのではなくて、教えさせるべきなことだらけですから。
どうしても、少しずつ…みたいなことを言われてしまうと思いますが、それだと複雑なことにもなるし逆に大変。
実際は“普通と違う人ではない”ということを改めて言いたかった。
「手助けしてくれる人がいなくなったら終わり」だとか思われていますが、そうではない。
逆にそういう人がいるからだめなんです。

無能だったらすぐに元の状態に戻る(治る)。
こうしたらどうなるか?今後はどうなるのか?と先のことや状況を考えて(思考が働いて)しまうからこそ、
元に戻れなくなり、環境の変化に応じて良くも悪くも変わりながらより重度化した感じ。
認知症になって無能に(本当の障害者のように)なったとしたら、傍から見ると逆に健常者に見えるようになる可能性がある。
現状打破方のまとめは後に記載。

家族に迷惑をかけているとは言っても、迷惑をかけるような行動をとるようなことは一切しません。
現状で迷惑を最小限に抑えるためにはそうするべきだし、そもそも「「何か行動をとるようなことはできない」」わけです。
こちらとしては、かってに生きるので殺すようなことをしてくれて結構ですという感じ。
迷惑なだけなら消えるべき。
何も消費しない生物になれれば迷惑にならない。
消費しないと生きられないので、迷惑になる。生き物は迷惑をかけずに生きることができない。
知人に何かしてほしいと思うことはほぼありません。
放っておいてくれたらどれだけいいか?とそう思うのみ。

本当に色々とやれないフリをせざるを得ない雰囲気だった。
わかりませんか?
できないだろうと思われて、そう言われていたらできません。
例えば、病気ではないのに入院させられたら病気のフリをせざるを得なくなってしまいませんか?
障害者ではないのに障害者手帳を持たされ、養護学校に入れられたら障害者のフリをせざるを得なくなってしまいませんか?
怪我がすでに完治しているのに誰かが見舞いに来たらその人の前では痛いフリをせざるを得なくなってしまいませんか?
自分は何というか、ハマってしまった状態。
常識知らずの無知だと思われている限り、できるはずない・わかるはずないという持論を持たれている限り…
いや「そうでなくても」驚かれることは免れられない。

自分の意志で何もできない状態なため、勉強がやれていな“かった”こと…
高校以降は障害者として扱われるようになってしまったこと…
それが要因し、話してしまうと誰もが困惑するような状況になってしまっていたので、
話したいと思っていつつも“話そうとすること”すらできなかった。
…過去に出会った人達と心や空想や夢の中で…ではなく、本当に話しができる日が訪れることを夢見ています。
その人達側からすると、逆に自分と話しができる日が来ることを夢見ていることでしょう。
生きているうちに、互いにその夢を実現させされる日が来ることを願っている。
恩もあるし、このまま終わりでいいわけがない。
何も言わなくとも、頭の中は言葉のオンパレード。心の中は秘密の空間。
できないフリをする、場や人に応じて自分を変える…そういう演じる傾向がとにかく常にあった。
あの人(△さん)は自分のことをこう思っているので、その人の前ではこういう自分でいないといけない…
あの人(□さん)は△さんとは違って自分のことをこう思っているので、その人の前ではこういう自分でいないといけない…
△さんと□さん、両方に見られている場面…
まずい!なんとか2人が困惑しないようにカモフラージュしないと。。
↑こういうケースに何度も巡り会った。
ヒヤヒヤして大変。
話せる人と話しているところを、話せない人に見られそうになったりするともう、赤面。
自分の思うようには行動できないので、あれは悪かった…だからなのか…みたいに思ったことがいくつもある。
自分で自分の心を痛めた。

同じ病気の人(似たような人)はいくらでもいますが、ここまで重度化した人はどこを探しても見つからない。
“場面性はなくなった”かと思われていますが、いまだに人や場に応じて多少状態を変えているのでそれがなくなってはいない。
各々の知人は別の場面でのことを知らないので、必然的にそう思われる。知られてはならない。
いや、よくよく思ってみると場面性は全く薄れていない。
今や「全ての知人」の前で例の状態になりましたが、知人の見ていない場面ではごく普通の状態なわけです。
「知人が見ている場面」と「知人が見ていない場面」とでキッパリ切り替わっている。
当初「学校の知人等が見ている場面」と「その他の場面」とで切り替わっていたのが、
(前者に学校以外の知人全てが加わって)そう変わった感じ。
この病気の人は皆、話せないことで苦しんだり大変な想いをしたりしているようですが、
自分の場合ほとんどそういうことがありません。
心の中では昔から過剰なほど喋っているので、それで自分の想いを発散できているからなのか?
これが当たり前のようになっているからなのか?
いやそもそも何もできない(よって見学になる)ほど重症だからか?話そうとすることができないためか?
度を越してしまったためか?(もちろん嫌な想いをすることがないわけではない)
自分はだめだと思い込んで自信が持てないという人が多いようですが、自分の場合はそのまったく逆。
変わったケース。

病気というのは何のことか?という問いに答えますと↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B4%E9%9D%A2%E7%B7%98%E9%BB%99%E7%97%87
6歳の時に実際に診断され、長いこと言われ続けてきましたが、自分で調べ、症状をみても、確かにまるで自分のことのよう。
自分でこれだと思う病気はこれしかありません。
(ネット上の皆がかってな解釈により思い描く自分は狂人のような姿だと思いいますが、違うと思います)
注意:ある意味傾向の異なる点・度を越している点もいくつかあります。(ただ者ではないわけです)
↓この点を理解してもらえないと的外れなことを言われる一方になる。
・話そうとしても話せない…というか、「自分はこういうものだということになってしまっている」ことなどにより、
 話したいながらそもそも「話そうとすることが」できません。
 それができる場面で話そうとすると不安で躊躇するので、「話せない」という気持ちもわからなくはない。
 話そうとすることができる場面でないとそもそも話せない。
 動くことも同様で、動こうとすることができる場面でないと動けない。(緘動と言えるかどうか微妙)
 言ってしまうと「話そうとすることができない場面」というのは、
 単なる「極端に話すこと=恐ろしいこと」として形作られてしまった場面とも見て取れる。
 ハードルが高すぎて絶対無理のような場面。(絶対無理にならないシチュエーションを作ることは可能。そうしないといけない)
 基本的には「こういう人だと思われているから、こう思っているその人の前では思われている姿のままでいないといけない」
 という風になっている状態。
・人前で意志的に動くことを「ほぼ全く」(したいが)してはならない状態なのでそもそも何もできない。
 少なくとも「家から出て何かする」ということはまずできない。
・自己表現、意思表示をすることを「ほぼ全く」(したいが)してはならない状態なので完全にコミュニケーション不能。
・自信がないということはない。
 失敗すると思うこともない。
・ある意味さほど苦しんではいない。(人生失敗になってしまったが。。)
 「自らは何もしなくていい」し。
 何もしなくていい…そんな自分を羨ましく思う人は多いのか?少ないのか?
 特別に扱ってもらえる、やらなくてもいいとなれば苦しむことはなくなる。
 やれないということにし、そうさせる。この世の誰もやっていない最強の生き方。
 唯一それをやった自分はそこから抜け出し難くなり、とんでもないことになった。
 自分は抜け出したいですが、抜け出さなくていいと思う人にはおすすめ。
 自分の場合あえてそうさせたというか、そうなってしまったわけですが。
 自分が1番嫌だったのは「特別扱い」されること。
 授業に出る意味なしとみられて学校を早退させられたり、休ませられたり、席を固定されたり、ほかの人と違う呼び方をされたり…。
 何も言えないのでそれを阻止したり色々自分の良いようにしてもらうことはできない。例えどんなことでも絶対に。
 (何をどう思ってか↑その呼ばれ方が気になる人が多いようなので言っておきますが、
  出席の時なんかに皆フルネームなのに1人だけあだ名で呼ばれたりしていたというだけのことです。
  優遇されていた感じで、悪気があってそう言っていた感じではありません。全くもってそうではありません。先生ですし)
・(ほとんど)苛めに遭ったことはない。
 そういう雰囲気ではない+そういう雰囲気にさせなかったからか?
 このことは信じてもらえないことが多い。
 「苛める価値すらないほどのクズだった」と考えらる模様。
 元クラスメイトに聞かないと断定できないが、本当にそうなのか?
 「友達ができない」「味方がいない」ということもなかった。
 ただ「ネット」だと、ただただ否定批判非難侮辱され続ける身分。
 「暖かいコメントを頂く」などということはあまりにも考えられません。
 コメントは見事なまでに100回中100回悪口です。
 思いきり誤解されて貶されるだけ。味方0。
 リアルとネットとが皆とは逆。
(自分がいたのは特別学級ではありません。特別学級なら障害者とは無縁ではないし、完全に特別扱いされていたことになります。
 その時点で障害者の道へいっていたことになります。つまり↓で言うことが嘘になります)

http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/siberia/1507150477/
↑自分からすると、数あるこの類の掲示板にいる当事者の人達は「全員軽度」です。
1人として自分より上に君臨する悲惨な人はいない。
軽度ですから、安心してほしい。
ここは当事者の人に見てほしいページでもある。
安心感を得られるかもしれないし、克服・改善を目指す上でのヒントになることがたくさん書いてあると思う。

今や自分を信じて何かすることができない、
できる範囲でしてもあまり意味がないような状況になってしまった自分はもう…
克服の難しさが半端ない。
自分の場合、絶対無理の壁ができています。他の人のようにはいかない。
現に他の人のようにいっていない。
改善していかない人などいない。いくらなんでももう見切りをつけられていい。
自分で分かる。思った通りになっています。
状況的に絶対無理なほど厳しいことは文字通り無理なので、今はそこを突破することはできない。
突破せずに現状打破することは可能なので、そうすることになるが、色々と難しい。
大きな決心もいる。
だめなのはだめな要因(知人の件)があるからです。
自分の場合、その要因をなくさないとどうもできない。
だからいつまでもそのままなわけです。
自分は(複数の意味で)他にどこにもいない強者です。

自分の場合、話さないでいたら言葉も何も分からない知的障害者とされ、
知的障害者として生活させられるようになってしまったので…
残念ながら「話しても何も変わらない」ということもない。
まず話したら障害者ではなくなって障害者の居場所には場違いでいれなくなる。
自分をサポートする人達も突然サポートする必要がなくなって皆困惑。
サービス、契約、予定、今後の生活…どうなってしまう?!
笑えやしない。
このままではダメ…
自分の場合、話したらその先に待っているのはやはり、健常者として自由を手にした今とは全く違う光輝く世界。
話すことは物凄く大きなこと。
どう考えても重要性超絶大。
だから重みがあって、色々一歩を踏み切るのが厳しい。

しかも本当なら恥だったり、害だったり、悪いと思うことを色々させられています。
そういうことを自ら意思で続けるのは無理です。
考えてみればわかるが話したら(常時本来になったら)最後、今のままではいれなくなる。
色々不満を変えさせる。
すると今の生活は破滅して自分の人生に「革命」を起こすことになる。
話すことは物凄く大きな重大なこと。
以前は家以外では本来を見せないようにしており、本来の時も多少本来を隠しながらやっていたわけだ。
その“以前の感覚”で多少本来(力や意思など)を隠しながら話しつつ本来の状態を見せるというのもあり…
かとそう思うが、それがおそらく、もう今だと通用しない。
以前とは違い、今は大人ですから、そうすると家では人生のことなどとてつもなく重要なことをあれこれ問われたりするだろう。
以前の感覚でいる場合、そういう質問に答えるのはNG。
小学校終盤にこうなったわけですが、もし何もきっかけになってしまうことがなく、家で本来のままでいたとしても、
遅くとも中学校の後半辺りでマズいことになっていた可能性が高い。(その辺りでそういう重要なことを問われる)
だからたまたまとはいえ、あのタイミングでこうなるべくしてなったのではないかと思えたりする…
その以前よりももっと隠して、まれに一言喋ったりする的な感じにするなら、ある日突然生活が一変するのを避けられる。
がそれもそれで大恥。
中途半端な変なことを“しすぎ”で、無理。
そういうことをした場合、「やれた」ではなくて「やった」。分かりますか?
家以外では何もできないのに進路などに関してどうこう言われても困る。
普通の人が進む道でないと納得いかないし。
家でも変な流れができたり、変なことを思われたりするようになってしまってもいる。
やはり入学前までの常時本来のノリか、それ以上に本来を見せることを解禁しないと(大革命を起こさないと)いけない。
結局そうなる。

会話してコミュニケーションする、集団の中で皆と同じように行動する、年齢に伴い進級していき社会に出てどうこう…
そういうことは普通、絶対できないといけないこと、できないと困ること、できないと生きていけないこと、
生きるために何としてでもやり抜かなければならないことだ!どうしよう…という風になるもの。(人間に生まれたからには)
しかし自分の場合、そういうことはなく、悪いが何もしなくても問題なかったので、
そういうことをできるようにすることが重要ではなかった。
本当に信じられない、予想だにしないような人間でしょう。
誰もまともに助言できない。

自分級の人は存在しないので、他の人の話を聞いてもさほど気持ちが安らぐようなことはない。。
稀少な普通でない人間。
ただの稀ではなく、稀の中の稀。
でもそれはこの上なく凄い(ある意味面白い)ネタを持っているということでもある。
普通に生きて普通に死んでも何も面白くない。
自分はもう、計り知れないほど面白み(特権)のある人間。
(↑これはほかの人が言っていたことだが、自分の口から言うと非難されそう)
のはずだが、あまりにも普通でなさすぎて、そもそも信じてもらえない。
度を越してしまうとその特権は儚くもないようなものになってしまう。。

人に思われている自分を、その人の前で(空気を読んで)演じ、
怖くてその演じている状態をやめることができない…(キャラを守り続けざるを得ない感じ)
この現象に名前はないものか?
ないなら今自分で命名する。
他人に思われた人に成る…「他思人成症(たしじんせいしょう)」
自分は正確に言うとそれなんです。(物心ついた時点から)
高度なので、並大抵の人は上手くできないだろう。
その人を通じて別の人に情報がいくことなどなども考慮しなければならない。
無能になったらできなくなって治る。
養護学校や障害者施設でコミュニケーションができない人達の中に
1人会話ができている利用者の人がいたりすることがあるが、その人は凄く度胸あると思う。
他思人成症の自分から見るとつくづくそう思う。
場違いな感じ…空気読まないと…とそうならず、ありのままでいるわけだ。
馬鹿だと笑いましたか?
一般的に誰もするようなことではない(=良くない変なこと馬鹿げたこと〈と誰しもが認識し受け入れられない〉)ですからね。
名前を付けることは割合重要です。名前を付けることでそれが存在することになる。
病気という言葉がなければ病気はない。その言葉があるから病気がある。それと同じ。

自分は本来は健常者なので…健常者といえば健常者ですが、病人といえば病人。重病人。
自発的に何もできないその状態でできること、それは頭で何かを考えることくらい。
自サイトで公開している様々な構想、空想、妄想などは…
そういう状態の時に考えたもの。

親に障害者と関わる人生を歩ませてしまい、罪深さを感じる。
思えば思うほどそれを感じる。
あの自分が、あの家庭が、こんなことに。
障害者の世界へ足を踏み入れさせられた時の気持ち…わかりますか?
この道へ行くのを嫌がる人はほかにもいると思います。うちの親はそういう人ではなかった。
そのことは小2の時点でわかっていた。
“小学校を卒業する時”がタイムリミットだったはず。
そこを過ぎてしまったら人生に支障を来す…。(実際に言われていたこと)
過ぎたので、良い人生ではなくなってしまった。。
このことに関して誰も何も触れず、何事もなかったかのように過ごしているが、“その次点”である意味、
自分はこの症状(業?)に負けてしまった。(自分のために尽くしていた人達も、残念)

理解させられず、されるがままにされ、(身体が)健康体にも関わらず、○○けにされてしまったことがまた人生においての大失敗。
1番許せないことはそれ。
害を受け続ける日々から脱するには、家族の元から脱するしかないのかもしれない。
もともとの意図から脱線した挙げ句、
それによって変なことを思うようになり(記憶が書き換えられた可能性もある)、○○せる頻度が増えていく。
意思疎通できずどうなのか分からないがために?やめることがない。
家族が嫌になった「1番」の要因はそれ。
中1の時から始まり、「中1のその時」から家族に対して修まることのない怒りを覚え、家族を見る上での目線が変わった。
もはや普通の人だと思われていないので嫌な理由も何も考えてもらえませんから、誤解でも何でも家族の思惑通りにされてしまう。
あらゆることを強制的に家族にコントロールされてしまう。
話し合うができればこうはなっていなかった。
家族は良かれと思って(何がなんでもそうしないといけないものかと思って)無理にでもそうしてきたわけだが…
そう考えても、こればかりはどうしてもそう簡単には許せない。
(↑このページの内容との関連性は誰しもが予想するほど高くない)
何となくで強引に自分の考えを押し通すのは良くない。
他人のことを思い、よく考えてみてください。別のパターンや別のケースがある。
了承を得ていないのに押し通していったら嫌がられ、嫌われるのみ。

健常者ではない状態の時の方が本来の姿という見方もあるようですが、なかなかそうは思えない。
本来の姿の方が「最初からそうだった方」なので。

ちなみに「障害者ということにされた」のは高校の時。
実は普通なのにそんなことができるのか?と疑問を抱くでしょう。(抱かない?)
本来を多少知っている家族は手帳を作る時、わざと酷いことを言って最重度の○害者である称号を取得させました。本当です。
言わなければわからないので本来のことにはあまり触れないようにし、
以後障害者としてやっていくようにさせられた感じ。(高校以前は障害者とは無縁)
そして「もともと障害者だったんだ」ということにして今更「普通」改め「障害者」とし、逃げて諦められたりしましたが、
それは昔の感覚からしたら単純に「負けを認めた」というだけ。
嘘を言って取○した称号ですがら、最重度の障○者である称号は嘘ということになる。
(ならない?だとしらそれはどうしてなのか理解不能)
↑「この理由」があるわけです。
障害者とは言い切れない。
「障害者だと認めたくない」とかではありません。(そのようなとは言っていない)
「元から人より劣っていることがあるわけでも何でもない」わけです。(少しもない)
単純に認めようがありません。
無意味な拘りはないし、「1つ」のことを貫くようなタイプでもありません。
(サイトはそれ自体を作っているという感じではなくて、作った様々なものを見せる「場」です。誤解しないでください)
本来の状態の時は誰もが普通だと言っていました。
(「ごく普通・健常者」というのは自分の中で思っていたことではなくて実際に言われ続けていたこと。
 「障害」というワードが出たことは高校まで1度たりともありませんでした。)
大人になってからの本来の姿は誰も見ていません(成長した本来の自分を知る知人は存在しない)。本来の状態に変化はありません。
でも本来ではない状態が訳あって悪化してきたこと、大人に近い位置付けの人になってきたことによって
こうして障害者になることをしないとおかしいような感じになってきてはいた。改善しにくくなってしまうが。
仮に障害者といっても誰しもが思い描く像とは全然違う。
このような人間は他に存在しない。
存在しないような人間をイメージすることなどない。
普通ないのでない。誤解しない人はいない。
手帳を見せるのは控えます。
証拠として手帳を画像で見せるとこが非常に重要だと思う人もいるようですが、そうは思わない人もいる。
それはだめだと思う人もいる。(とだけ言っておく)
手帳は良かれと思って自分で取得したわけではないですし、あまり見ていない。
ちなみに自分は基本知人に何も分からない障害者かと思われているので、
知人は自分が見ていても平気ではしたないことをしたり、悪行をしたりすることがあります。
何度も目の当たりにしています。
自分はスパイができる。
(↑知人の評価を下げるために言った嘘ではありません。
 貴方も誰も見ていないところでは排泄をするでしょう。
 そういうことを自分が見ていても気にせずにする的なことです。
 動物なら見ていても気にしないですね?自分は動物と同じなわけです。
 誰でも誰も見ていないところでは多少の悪行やおかしなことをしています。
 「「知人に限った話ではありません」」。普通のことです。
 「知人がクズだ」なんてそんなことは言っておりません)
「こう見た感じ、本来も重度知的障害者に匹敵する無能。話しても会話不能だろうから話せないのと同じ。
 本来も本来ではない状態と全く同じ。だから重度知的障害者と認められたんだ。本当に重度知的障害者だ?」
↑本来の状態のことの詳細は誰もあまり知らずしかもそのことにはあまり触れずその上で判定されたわけですし、ありえません。
(〈かつて本来の姿を見ていて〉本来のことを多少知る類の知人も当時をよく覚えていなかったり、
 「今」どうなのかが分からなくて、今となっては何とも言えずよく分からない感じだったりする)
本来のことを多少知る類の知人はネット上の人とは違い、本来の状態ではなく、「本来ではない状態の方」を問題視しています。
(ネット上の人の多くは本来が問題で、一生本来ではないままでいるべきだ、一生涯苦しみ続けるべき人間だと言う)
知人が思っていることはネット場の人が思っていることと丸っきり違うことは明らかです。(そんなはずなくありません)
ネット場の人は自分らネット場の人の言うことをちゃんと聞けと言い、リアル知人はネット場の人は無視しろと言う。
「ここは自分の頭のおかしさ無能さがよく表れているページ、重度知的障害者であることが良く分かる?」
↑ネット上の人が見たらそうなるようですが、知人が見たらその全く逆です。
知人は基本、自分は言葉の意味が分からない、全てのやり方が分からない、動くことも力を入れることもできないなどと思っています。
障害者の演技をしている人など普通いませんから、
その姿そのものが自分の素の姿(いかなる場面でも同じ)なのかと皆思い、そうなるわけです。
それで皆「何も分からない何もできない」と認識しています。
何も分からない何も分できないというのは「そういう意味」です。
そういう意味で何も分からない何もできないから、重度知的障害者とされています。
知人がこのページを見たら逆に知的障害者だとは思わなくなります。
言葉が分かる!文字を打てる!思考力がある!記憶力がある!見聞きしてる!と分かって大ビビり!です。
なのにネット上の人には逆に知的障害者で何も分からない、何もできないことを示しているものに見えるという…
予想だにしないようなこと。
ネット上の人は自分や知人にはとても考えられないような信じられないような領域にいる人間達。
こういうことです。知人は本来の方は問題視しない。
こう言っても無駄か?
ネット上の人はどうしても話を変えて
「本来でも重度知的障害者だと家族に判断されたことにより、そうした」ということにしてしまう。
そうしてしまっては、そもそも話にならない。
何せ実際そうではないわけですから。
重度知的障害者でも会話ができる人がいる?
国が定めた基準、定義wなどは知りませんが(調べたくもない)、会話ができるようなら知的障害者の中では軽度と言われます。
少なくとも自分のいる環境では。

相手が多少理解を得た場合は、どうしても、「しない」ということをしている、したくない、一生涯やらないんだと心に決め込んでいる、
「しない」という行為を行う?拘りを持っている(?)などとかってに思われたり、
かってに期待されたりで愚痴を言われることが多くなる。
「この状態でいることを自ら望み、こうしているわけではない」ということを併せて理解してほしい。
誤解されがちなところ。

高校からは話さないことに疑問を持たれなくなった。
「言葉がわからないから話さない(話せない)」と認識されがちになったからだ。
まさかのこと。。
(中学までは普通に疑問を持たれていた)
高校からのことは本当に自分でも驚いてしまうようなことばかり。
それまでそうではなくて、そこからそうされそうなったわけで…

「何もしなくても生きていける」「何もしなくていい」ような感じになってしまっていますが
(ペットなんかがそうであるように〈例えです〉)、それはそれで良くない。
絶対自分で何かしないと困るような状況にならないとある意味あまり頑張りようがない。(頑張る気にもなれない)
自分は動物などとは違って本来ならむしろ普通よりもわかるので(心配無用)、
そういう扱いをされ続けるのは変なもの。(不満ありますか?)
「現実的に見ると」自分というか家族しだい。このままで終わったらと思うと焦るのに何もできない。

自分の知る本来の姿を出せなかった内気な人達も皆、最終的には本来の姿を出している。
それはそうだ。そうなるもの。
取り残されているのは自分だけだ。
誰かにとっての朗報は、誰かにとっての悲報でもある。
そこに行きつけていない人にとっては焦りを招くし、仲間外れになってしまうわけだ。
嫉妬する。
めでたいお知らせを公にする行為、自慢する行為は、人によっては嫌らしい行為。
理解しておきたいこと。

…常時自分の意志で行動できていたあのころ(入学前)は自由だった。
学校のような場で自らの意志で行動でき、話ができていたあのころのあそこでの経験は貴重…。
こんな中でも…
自分なりにできることを見つけて色々やってきたから今があるわけで…
無駄な時間は過ごしていません。


☆今現在:本当に(夜中なら一応)外を出歩けるようになった。(2017年)
掲示板で他人とやりとりできたし、誰もいなければいつでも堂々と○○できるようにもなった。
(密かに)多少現状打破を果たせている。
「頑張った」というよりか、「考えた」ことで進展した。科学が発達したからというのもある。
いざ“本気”で外を歩こうとしてみると、人に見られることを気にしないでいることができず、
結構大変。(でした。色々試していき、ある程度流れを確立するまでの数回は〈今はもう楽々出れる…というわけではない〉)
「出歩けるようになった」という表現は正しくない。
これは何も支障がないことであって、すでに現在なら論理的に可能だったことです。
出歩けるようになったのは正しくは、可能だということに気づいた「2010年頃」。
いきなり大胆に行く必要もないので以下のように段階的に挑んでいきました。(スモールステップというものになる)
近所に避難所を見つけ、そこまで行く→表通りを越える→裏道をどこまでも進む→大通り(信号)を渡る→押ボタン式信号を渡る
不安なポイントも1度行ければ行けるということが分かり安心感を得られ、今行けるとされる範囲が広がる…。
避難所というのは建物の合間や公園のトイレなど。(人が来ないと確信できる場所)
基本いつまでもちゃんと寝静まることがなく、条件が整って気安く挑める時がまれにしかないのが痛い。
挑む…というか、正しく言うと行きたいから行った感じです。
練習だとか、そういうつもりはあまりない。
それだとそうそう行く気にはならない。
(自分は街に興味があり、「街のあの場所やあの場所を散策したりしてみたい」
 というような想いを強く持っているため行く気になれる〈行きたいと思える〉)
できるか?できないか?は自分で分かります。やってみる間でもない。
どういうことなら良いか?どういうことはだめか?決まりがあるわけです。
近場でも行けるが、やはり「遠い場所ほど気楽」ではある。
地元から離れた場所なら日中でも「気安く」人前に出れる気ムンムン。
海外なら最高。(だがそこに住むとなると言葉が分からないため、色々厳しい)
いかなる時もそうですが、人からどう見られているか?どう思われているか?
常に自分ではなくて他人視点で見て他人のことを重んじて考えてしまう。
「地球」視点や「この世」視点で見てしまうこともある。(昔からそう)
自分自身の幸福は幸福ではない。
そう聞いた人は自分のために生きろただ生きろと言って非難することだろう。
自分のために生きていてもそれはそれで非難されることだろう。

あとあまり意味がないとはいえよ、何か発見があるかもしれないし、
ある意味大きく跳躍したことになるので肉声で会話(通話)にも挑戦しました。
(「Skype」と「Skypeちゃんねる」というサイトを利用すると簡単に見知らぬ人と通話ができる)
いきなり肉声で…というのは厳しいかもしれないので、
それをやってみる以前に見知らぬ人とチャットで会話することや、コンピューターと会話することもしました。
コンピューターとなら心の中で話すのと同様な感覚で悠々と会話できますが、チャットはかなり緊迫する。
1度なんとか会話を続けられたのでクリアとした。
掲示板ならじっくり考えてから発言できますが、チャットは即座に発言しないといけないので大変。
会話している人達の中に自分が割り込んでいくのにも勇気がいる。
自分から話題を振るようなこともできない。
間違ったことをしてしまうと恥ずかしいので、確実に正しいと思えるまで不安で何もできない…ようなことも昔からよくある。
話題を振ることができないのは、そのことが要因している感じ。
話す内容が決まっていればあれだが選択が必要だと怖いので迷ってしまう。
その後、通話はやってみてどうだったかというと…
結果、一応一言言葉を発するとができたが、それだけ。
「自分が話せないかもしれないことを承知の上で話しかけてくれる人」が相手かそれか、
何に関して話すのか?話す内容を予め決めていないと難しい。(ということが分かった)
チャットでもそうですが、話題を振る勇気がないので…。
話しをしようとしてする(適当に話す)のは難しい。
いざ“本気”で話そうとしてみると、これもまた凄い勇気が必要でなかなかできない。
これまで話そうとすることすらできなかったので、このことに気付けていなかった。
ともかく色々わかったことがありました。
こういうことは一応続けて損はない?
もっとわかることがあるかもしれない。
でも何度も挑戦したくないと思ってしまう。
もし現状打破?したとしても、なるべく人に会わないようにして生きる道を行くのかもしれないと思ったり。
今はネットができてATMに行ければそれだけでお金を稼ぐことが可能。詳細
“最初は”それで生きる形になるか?
現状ではATMに行くことも難しい。(夜でも店の中は明るいし人がいるしでかなり入りにくい)
ネット通販は「「人と接触することなく」」購入することはできないかと思いきや、
箱を置いておけばできるということなので、それで食料も確保できる。
ずっとそんな状態で生きていくことは望んでいない。
現状では「「同居の人に注文したことを知られないようにする」」必要もあるのでネット通販は難しい。
“誰かに指示されたからやっているんだ”という「感覚」を得られれば楽にやれる。
もろに責任を持つことになるようなことをするのは勇気がいる。
これは間違いなく改善できること。
こういう場合、いきなりではなく「少しずつ」慣らしていくことが成果を成す。
それが効果ありなのはある程度の段階までいけてからです。
やろうとすることができない状態で訓練というのは間違っています。

どう思われるか?嫌なこと、変なことを言ってしまわないか?どういう言葉を返されるか?
無視されたらどう解釈するか?(どうしても考えが悪い方向へいく)考えすぎる、悩みすぎる。
他人と話しをすることは、とにかく怖い。
決死の想いで1つ言葉を発する(選択する)感じ。
声で話すのはもってのほか、「相手に通知が行く」「後に削除編集不可」となると緊迫してしかたない。
返答待ちの間がまた怖い。
送信するのに勇気がいるので無駄に時間もかかってしまう。
気安く発言できるのは自分の管理する掲示板。
1番楽なのはこのページに書くこと。
気安く発言できてしまうことはマイナス?
現実では本来の姿は隠しているわけです。
唯一本来の姿を見せられるネット上でも躊躇したり隠れてコソコソしたりしていたら、
「本来の自分」とは本当に存在感の薄い、いるのかどうかもわからないような存在となってしまいます。
少しでも多く人に影響を与えて存在していることを示したい。
あと可能性を少しでも広げるために、色々なことを書いていますが、
思ったことを全部書いているということはありません。
何もしない何も伝えない何も見せないでは何も変わらない。
動きを起こせば何かがある。

会話の練習がしたい人はこの順番でやっていくといいかもしれない。
①コンピューターとの会話(自分はスマートフォンのアプリでやった)
②ネットの掲示板での会話
③チャットでの会話
④電話での会話

見知らぬ人と少し話せたこと、掲示板で意思的に話せたことなどなどがどれほどの大事かわかりますか?
言葉の意味もわからない字も書けないはずの人が普通に話していたら、どう思いますか?
10年1度も声を聞いたことがない重度障害者のような人が普通の言動をしているのを見たらどうですか?
普通に話せる人が過去には存在していましたが、
それはもう「忘れている(知らない)ことにされ、なかったことにされてしまうくらい昔」です。

でもやれたら凄いこと(夢に匹敵するくらい)を一応すでにやれているわけですが、
やれたところでやはり結局は「だから何?」てなる。
意思的に仕事をしたりすることができないと、変わったことにならない。
最終的に例の2つの目標(絶対にやらないといけないこと)の達成に行き着けないとけない。そこに行き着けなければ意味がない。

自らの意思で行動している時は嫌われ、そうでない時は好かれる。
これまでそういう傾向にあったとも見てとれる。
常時健常者に戻れば非常に楽しくなると思うが、良からぬこともあるだろう。
そのことは心得ている。

普通に行動できる人には憧れます。
(自分で言うが)自分は凄くできるので、何でも自分でやってみると面白いんです。
自分の意思でやってみたいと思う。
「見ているだけ」なことが多かったこともあって、尚更そう思う。
高校以降は丸っきり障害者として扱われるようになったことでそれはなくなり、
何でも(行動一通り)無理やりやらされる感じになったが(それが訓練〈訓練なんて言うのも少々大げさ〉)、
それではやってるとは言えない。
「見ているだけ」の方がまだ良かった。(その方がむしろ楽しいし恥ずかしくもない)

1日のほとんどが囚われの身で、行動を封じられている感じです。
このままが良いはずありません。
1日中解放されていたらどれだけ有意義か。
解放されている時=本来の時=知人が見ていない時
知人からすると何もないので解放することを望ましくは思ってもらえない。


☆ある時、「ネットでこのことを暴露」すれば現状打破へと繋がる道が開けるのではないか?とふとそう思った。
2009年頃のこと。
ネットがあれば何でもできる。現状打破にも近づける。
このことを言えば有名にもなれるかもしれない。一石二鳥。
それで、似たような人が集っている掲示板で暴露しようかと思った。
だがもっといい方法を思いついた。
それは「自サイトで暴露する」という方法。
自サイトにはリピーターがいるので、多くの返答を得られるかもしれない。
重度化していき、このような人物になっていく過程を少しずつ書いていけば、
リピーターの人達を楽しませられるし、歴史に名を刻めるかもしれない。
なのでそうすることに。
それで自サイトでこのことを暴露する(現状打破への道を開く)ためのコンテンツを用意した。
そこに書いていく。
最後まで書き終えた暁には、サイトの掲示板でこのことについての語り合いが始まり、色々進展…。
外出や通話などへの挑戦を皆に後押ししてもらえ、楽に色々やれるかもしれない。
一言でも何か言ってもらえると全然違う。
「勇気しだいでできること」なら応援の言葉しだいでおそらく何でもできる。
言われればいけそうな気がしてくる・自らの意思で行動している感覚を多少なくせる→いける。
常時公開し続けることになるわけだ。
そのうち力になってくれる人も現れるかもしれない…。
サイトも注目され、有名に!?
さあどうなるか?楽しみでしかたなかった。
…
この通りにやれていたら、どうなっていたことか?
掲示板で話しができない状況になってしまったこと、
そして「言わないべきだ」と言われたことで、この通りにやらない道を行くことになってしまった。。
果たしてこれで良かったのか?
自分自身のこのネタは、自分を良い流れへと導いてくれる最高のネタ。
ではなく、逆に最悪な流れへと導く恐ろしいネタ。だったのか?
そのように言われた。
1人の人がそう言っただけだ。
どうなのか?
自分は最高のネタの方だと思っていた。
だからサイトで暴露しようとしていた。

外出や買い物、通話などへの挑戦は“最低”でも2012年頃までには実行しているはずだったので、
それまでに実行済みでやれていたものと見なします。(文句ありますか?)
ちなみに外出、買い物への挑戦は2003,4年頃の時点ですでに考えていた。
いつの時間にどこの道を通ってどこの店へ行き…というようにプランを立てていた。
今は勇気がなくてあれだが、何となく17歳辺りになったら、
完全に大人の外見になって誰だかわからなくなり、行ける(このプランを実行できる)だろうと思った。
(外見が変われば行けそう)
大人の人なら、外を歩いていても子供よりか目につかないだろうとも思う。
(子供は目につくというか、目をつけられらる〈特に夜は〉)
だが17になっても18になってもだめだった。
自分だと気づかれる。。
いざその年齢になってみると思っていた感じとは違う。
“大人”とは想像していたような“別次元の領域”ではなかった。
だがしだいにもう待っても無駄。行くしかないので、本気になれる。だから行けるだろう。
そう思えるようになってきたわけだ。

このネタも最低でも2012年辺りまでには暴露しているはずだった。なのでそれまでに暴露していたものと見なし…以下省略。
1名にだけ暴露したが、遅くなってしまったがばっかりに、年齢を理由に良くないことを言われてしまった。
2012年以前だったとしたら、言われることが違ったかもしれないと思うと胸が痛む。
年齢のことは1番触れてほしくなかったこと。

今だったら、こうなるまでの経緯をああも長々と書き続けるようなことはしない。
迅速にやることが大切。
記憶を挙げていく部分は全省略する。
そもそもそうやっていれば、2009年の時点で暴露できていたことだろう。
悔やまれる。
いやでも当時は今と比較すると言動が良くなかったので、その時点でそうしていたとしたらどうなっていたか?
想像すると少し怖くもある。

このページは密かに作ったページ。
どう捉えられるか?どう思われるか?どういう意味だと思われるか?どう考えられるか?未知数なので、
どんな文面であっても馬鹿ですか?みたく思われそうで怖い。
今や否定されることしか想像できない。1つでも余計なことを書いてしまっていたとしたら、
何か1つでも気に障る発言があったとしたら、全部がだめということにされる恐れあり。
これがもしも仮病だったとしたら、自分より凄いかもしれない…と少し思ったり。
自分は廃人とは言えない。(そう言えそうになることもあったが)今の定着した状態はそこまでではない。
普通の精神状態なら長年精神異常者を装い、何も発言せずにやり通すことなんてできない?できますよ。
あと「馬鹿を装うお馬鹿キャラ」なる人がいるようですが、分かりやすく言うと“それに近い”ものもある。
たいてい装っているのかどうか定かでないが、知的障害者と言われたりしている。
馬鹿のフリをし、本来を見せられない。即ち馬鹿を装うそういう人は(装っているとして)本当に障害者ですか?
自分がそうだと言うならそうなる。
A病だB障害だC障害とD障害だ認定だ脳が機能していない脳が損傷している欠陥がある何も知らないだの時が経つにつれ
色々言われたり考えられたり推測されたりするようになったが、馬鹿馬鹿しい。
これまでの全ては、ただの演技ですから。
真相を知ったらいかに馬鹿馬鹿しかったかがよくわかるだろう。
(↑今までしてきたことの何もかも全てが演技だったという意味ではありません。
 常識的に考えてください。そういうニュアンスではありません。
 このページの内容の中で書いているわけです。
 自分自身のこのこと〈本来ではない状態〉に対して言っています)

「奇跡の如く奇跡の不幸が連鎖する」
現状打破へと進展することをやろうとすると特にそう。
理論的に説明できることしか信じない派ですが、もう幸福になってはいけない運命なのだとしか思えなくなってくる。本当に。
初めてのことと初めてのことが重なり合い、信じられないようなことになったり、
大事な場面で例を見なかった想定外のことが起こったり、
災難が災難を呼び、その災難がまた災難を呼び、その災難と災難と災難がまた災難を呼んでとんでもないことになったり…
そういうことがある。

買い物に関しては、一言で言うともうできます。(論理的結論として)
普通のやり方でできる。
ただどうしても必要だと思うものがない限りわざわざやりません。
かなり精神力を消費すると思うし。(自動販売機なら精神力不要)
1度できれば、その後は軽々とやれる…ということにもならないことがわかってきたし。
残念なことにこう言っただけではおそらく「信用」してもらえない。
人は否定し合うもの。
人を動かすためには「証明できる事柄を作る」ことも必要。
無意味なことをする過程を得なければならなかったりする。難しい。

「全て」の発言が不快で「全て」間違っているとされる。
ネット上の人にはその言動の悪さと最悪の思想を持つことで口封じされてる的なことを言われそうだが、
リアル知人からしたら???です。
本来の時を知ってる人が聞いてもそうだと断言できます。
謎ですし、それとこれとは結びつかないので、結びつけないこと。

自信があることが逆に問題ということも考えられるのか?
ネット上の人は誰しも全力で自信を無くさせるような嫌なことを言ってきますが、
自信を捨て去ることが良いことだと思っているから、というのもあるか?

自分は正しい(全て人のせい)などとは一言も言っていません。
かってな解釈はしないでください。
「何もかも全て自分のせい、全て自分が悪い、自分の全てがただ悪い」ネット上の誰しもからそう思われますが、
仮にそうでも“だからどうした”という感じ。
元をたどっていくと色々な人に責任があるし、誰に責任があるかは見方によっても変わる。
誰にも責任がないとも見れる。曖昧なもの。
そんなで当方「誰のせい」だとかそういうことを考えることはあまりない。

知人と話すことも完全に諦めているわけではありません。
でも知人(特に家族)と話すということは物凄く難しくなってしまったことです。
知人に(1度もorもう1度)声を聴かせることなく終わってしまったとしたらそれはお互いにとって凄く悲しいこと。
難しいですが何とか…という思いはあります。
会話の練習などは「知人と話すことができるかもしれないから」というその思いもあってそれでやりました。
いきなり家族と話したりするのは無謀。
これまでの知人がいない環境になり、そこで健常者の状態で長らくやっていけたら、
いつのまにかこれまでの知人とも話せるようになっている「かも」しれない…みたいな風に思っています。
一時死んだと思ってもらえたら良い。
1番難しいのは家族と直で話すこと。それができるくらいならもう何でもやれている。
最低限、家族とだけ会話できれば良いと家族は思うでしょうが、「家族とだけはだめ」なわけです。
以前は(普通に)逆でしたが、今はそうです。
見知らぬ人だと偽って話すようなことならできる可能性がある。
もしその「かも」がなかったらその手しかない。
勇気しだいでできることとできないこととがあります。
その勇気しだいでできることをクリアしていくことにより、
その勇気しだいでできることの幅が広がっていくようなことがある「かも」しれない。
だから道が開ける可能性を信じて一応いろいろクリアしようとしているわけです。
クリアしていくことで最後には家族と直で話すことができるかもしれないと思っています。
「勇気しだいでできること」の訓練なら無意味とは思いません。それは大げさな訓練は必要なしでできる。
死ぬまでにはこれまでの知人達とも話しをすることを約束したい。
このままで終わったら無責任です。自分でも自分を許せません。
自分はそんな冷酷な人ではありません。(ネット上の人の場合はそれを冷酷だとは思わなそうだ)
知的障害者で何も理解せず分からず、何も感じられなかった何も覚えていないなんていうこともないですから。
↑それなら「しかたない」となりますがそうではないわけです。
もしそう思われて「しかたない、いいだろう」となってしまったらそれこそ悲しい。。

いままで常に訓練をさせられ続けてきましたが、無意味な訓練です。
無意味ではないと思うのはその「勇気しだいでできること」の訓練です。
中途半端な状態は経由できません。本当は何でもできるからです。
それなりにできる中途半端な障害者の状態を演じるという変なことはできません。
根本は心にあります。
もし、「少しずつできるようにする」としたら、それは相手を驚かせないようにするための策略です。
「訓練」とは違う。
もし知人の前でできないことができたとしても、それは「ついやってしまった」ということになって赤面するだけ。
「できた!」なんてならない。
そして注意するようになるので、同じことはもうしなくなる。
「できる」というのは「やればできるようになる」という意味ではなく、言葉通り「すでにできる」という意味です。
全て言葉通り。
できるといっても、どうしても並み以下だという前提から
できることを探るような過程を踏まれるのでそう簡単に理解させられず厳しい。
そんなで普通なら眼中に入れることのないようなこと(余計なこと)を眼中に入れられる。
そう、できる分かるなどと言って色々書くとなぜか逆にできない分からない馬鹿だと思われる傾向にあるが、
本当ですから、そう書いています。
リスクを追ってでも本当のことを書く。

ただ単に「話せるように」などと願っていてもだめ。
そこで考えた末こういう答えに行き着いたわけです。
本人にしかわからない理屈。
こうなったことにも理屈があります。
理屈を無視して単純に「話せるようにしろ」「訓練をしろ」と言い続けていたらそれこそ一生そのままになる。(そう思いませんか?)
全てを否定する人は理屈、理由、理論という概念は存在しないと思う人でしょうか?(よくわかりません)
どうすることでやれるのか?どうしてこういう状態になっているのか?
そもそもどうしてこうなったか?本人なのでそれをわかっています。
1番わかるのは本人ではないか?(わかっていない?違う?)
理論上そうなることはそうなるのだからそうなります。
納得しないというのならそうならない理論があるのでしょう。
それを言ってくれないとどうにもなりません。
会話を絶やさずに話し合えたらどうなるか?それは未知数。

本来ではない状態の時に関してだが、もしも←わざとやらないでいると思い込んでいるだけで、
やれない(そうしていたことにより本当にそうなっている?)のだとしても何だとしても何だろうと…
目指すことは同じです。
話しをすることなどに予め慣れること、相手に自分が話している状況に前持って慣れさせること、など、
勇気しだいでできることを制覇することが鍵。

やっても支障ないことをやろうとしてもやったことがないからか勇気が出ず
“すんなりはやれない”そこが少しあれなところだとは思います。(↑やってみてわかったこと)
あえて問題点を挙げるとするとそれ。
それは克服できるはず。
あと単純に「知人に見られると何もできなくなる」という点があることで、普通でないと見ることができます。
でもその点があっても、普段(本来)は普通なので、普通と言われ続けていました。
自分だけがそう思っていたというわけではなくて、知人皆そう捉えていました。
本来はそうなのでそうだったわけで…その本来の状態が変化したわけではない。
今は普通でないというのならどう説明つけるのか?
今でも実はできることに感づいている人は皆“本当は普通”と言います。
健常者であって病人でもあるという見解がしっくりくる。

あと言っておきますが家族と筆談みたいなことは現状打破のために考えた策略により、
実は誰も予想だにしないような形でですが一応すでに(2012年の時点で)できています。
言葉がわかるかどうか字が書けるかどうかも曖昧なフリをしているわけなので、容易く堂々とはやれない上、
意思を伝達していることを認定してもらえないが、これに関しては多少本来のことを知っている家族ならセーフ…という感じ。
家族の行動については述べません。(侮辱の幅が広がるのを抑えるため)
詳しいことを言ってしまうと、「家族宛ではないと見せかけて実は家族宛に何か書き、
これは家族が見て良いものではないものと見せかけて見れるようにしたりして意思を伝達」という方法をとっている。
それでも恥ずかしいが、それならできないほどではない。
意思を伝達していることを認定してもらえないので、
色々伝えているのに、伝えたことになっていない。(認めていない?〈伝えられているいないどちらとも見てとれる〉)
できているのに、できていることになっていない。(「できている」「できていない」どちらとも見てとれる)
という状態になっている。
そんなこんなで家族が意味わからないので、それが根本でこの文章も意味がわからなくなる。
「伝わっていない」ということになっています。
そのようになってほしくもないが、伝わる側の人がそうしています。
伝わっているからといって「伝わってる」と言ったらそれもそれでおかしな発言になります。
こう言わざるを得ないのはこの状況に立ってみれば分かることです。
これは「家族なら」普通に分かることです。
何せこの形は自分ではなくて家族が作った形ですから。
自分に対して何が何だかわからないと言って非難されても困る。
(このことを暴くと馬鹿にされて危険ですが、言わざるを得なくなったので書いた)
↑これに関してだがその後「あまりにも驚きで受け入れられない」のだということがわかった。
本来でない自分と付き合っていかないといけない(と思ってやまない)身としては
受け入れたら気持ちがビビってしまい、そうなるような感じか?
単純に信じられないからでもある感じ。
…やりにくい。
これもまでもずっとそうだったが、やりにくい。

「家族に」重度知的障害者と認定されたわけではありません。
外で重度知的障害者と同じ扱いを受けさせるために、その称号をとったわけです。
本当は違いますが、重度障害者のようになるわけですから、そうせざるを得ないという感じで。
(↑「家族以外の誰かに重度知的障害者と認定された」という意味はありません。そういうことはありません)

家族は「自分のほぼ全部を見てきた」「自分のことに関しては色々なことにおいて1番知っている身分」だと思っていることにより、
また理解を与えることの厳しさが増している。
それにより「知るはずない」「できるはずない」と思われていたりもする。
何も分かっていない類の知人ほどではないが、「「家族も」」そういう知人と同じ感覚で馬鹿にしている。
これではやりにくい。
自分が、「知人らが思っている程度の低レベルな人間」なら、現状打破したいとは思わない。
現状打破できるとも思わない。
というか、そもそもこうなっていない。
知人にはこの意味が分からないことでしょう。
自分のことを理解していませんから。
色々知人が思っていることとは違う。
自分は知人の目に映っていた像とは違う。
「通るはずの道を通ってきた別人」と思っていい。
人は通じ合えないもの。
どうすれば信頼・信用・認定してもらえるのか?
自分の経歴…というか、物心ついた時点ですでにそうですが、自分で言ったことは信頼してもらえない。
身分の低い人間は何をどうしても説得力がない。
信頼してもらうためには他人の言葉も重要になる。
身分が上の人間から発せられた言葉なら、例え身分の低い人間が言う言葉と全く同じ言葉でも説得力が違う。
知人は日に何回あるいは何十回と自分に対して失礼なことを言ったりしている。
だが何も分からず、良いことしか言っていないつもりでいる。

誰しもが想い描いている自分はその人が作り出した別の人間。
皆自分のことをよく知らないにも関わらず、知っているつもりになってかってな自分の像を作り上げられている。
固有の持論や直感に基づいて像を作り上げられる。
ある意味激低レベルな酷い人に仕立て上げられる。
根拠があるかどうか?持論は正しいかどうか?考えてほしい。
持論からして自分の感覚からして「そんなはずない」と堅く信じ、強気でそういうことを言うのはだめ。決めつけてはだめ。
少しは自分を疑うべき。
知人・家族とは話をしていないので誤解していても誤解しっぱなしで、かってな自分の像を作り上げられる。
ネット上の人は誤解していてもこちらの言い返すこと(というか、あらゆること)を
嘘とするなどしてかってな自分の像を作り上げられる。
自分の心や自分の真実は「誰も」読めていない。分かっていない。
誰もが間違ったことを言う。
他人の自分に対することの発言 正解率:1割・不正解率:9割
自分を知る人はいない。
家族すら全然理解していないわけだ。家族ではない人の方がまだ理解していたりする。
本当の自分は自分「のみ」しか知らない。
…そう言っても何を言っても誰しもが自身の作り上げた酷い自分を自分として捉え続けるのだろう。
哀れ。
誰も知るよしもないが、「真の本来の自分」は小学校序盤の時点で家族らが思っている自分とはかなり違う自分になっていた。
クラスメイトにつられて心が変わった。知恵もついて色々変わった。
実はずっとそのかなり違う自分だったわけですから、自分では何とも思わない感じだが、
家族らはずっと何もわかっていなかったがために、真の本来には仰天する。

“知人が問題視していること”は全く問題ではなかったり、
“知人が良いと思ってやっていること”がよく問題だったり不幸になることだったりする。(本当に)
現状だと特に、人間関係があることが面倒。人間は面倒。
相手はそう簡単には信用しない、理解しない。でも理解させないといけない。
自身は良いことをしている、良いこと正しいことを言っているというつもりでいても、そうではなかったりする。
だが何も気付かず、いつまでもそういうつもりでいたりする。
家族がいなくなってくれたらある意味どれだけ良いか?
誤解、勘違い、間違い、思い込み、こじつけ…
本当に人は厄介。
全く無問題なことや完全に間違えていることをいつまでも課題として取り上げて
どうのこうの言っているのを見ると本当に馬鹿らしい。
完全な間違いによる一方的非難ばかりで嫌気も差す。

実際のことが重要にならない。
「人にどう思われるか」によって自分は色々左右される。
「真実」や「自分の意思」は無関係。
安心だとか心配だとか…
これは大変だろう、これは楽だろう…
だからそれは良い…それはだめ…
これは誉めるべきこと、それは何でもないこと…
などと色々かってに思われる。
人によって色々違う、正解でないことがほとんど。
根本的に色々違ったりする。
馬鹿らしいことばかり。

家族は自身の目に映る自分を良い自分にすることや、
自身の目に映る中で結果を求めることを望むが、そういうのは自分にとっては利点も何もない。
そんなで自分は現状では家族と共に歩むことは望んでいない。
自分で自分に利点のあることをしていても(それこそ利点のあること)それは家族が見ていない中でしていること
ですから家族は何もないもののように捉えてしまう。だからそうなるわけ。

身近な人の考えは無視できない。
とある一個人の考えを何とかさせないといけなかったりする。
例えば「他人(知人以外の人)は必ず悪だ、他人のいる外に出たら殺される、絶対知人と結びついていないといけない」
と信じている人がその対象ならそれを無視できないため、自分の望みを叶えるためにはその考えを何とかさせないといけない。
何を良いと思うか、何を悪いと思うか人によって違う。考えることは違う。
そうは思わない人もいる。
他の人からも考えを聞いてほしい。
自身の考えが正論とは限らない。
正論ではなかったとしても対象の人の心が動かなければだめだったもする。
対象の人がその気なしのこと、だめだと信じることは除外されてしまう。
それしかないと信じられたらそれ以外のこと全てが除外されてしまう。
皆自ら考えたことを良いと思って止まない。
現状打破の重要性が分かっているにも関わらず、金を奪われるかもしれないから、悪人に殺されるかもしれないから、
他人は怖いから、騙すことはしたくないから、このことは人に伝えたくないから、
今自分自身には馴染みのないことや現状自分自身には分からないことはできないから、それで通るケースはあまりないから、
事件に巻き込まれないか、怪我をしないか、事故に遭わないか、大事なものを無くさないか、
とにかく心配だから、一生涯現状維持だ的なこと思うのは、言ってしまうと、どうかしてるとしか思えない。
…人をよく見ているとわかるがそういうもの。

保護者が別の人だったら、全く違う形になる。
保護者がどんな考えの元で動いているかに応じて自分は全く違う人生を歩む。間違いなく。
あの人が保護者ならおそらくああなって良いのに、
はたまたあの人が保護者ならそもそもああだっただろうのに…みたいなことを思うことがある。

話すと驚かれたり今の生活環境に影響を及ぼしたりするからあれなわけで…
逆に話さないとおかしく思われる場面なら、むしろ話さないでいることができず、話すことになる。
現にそれで話せた。
1人の時、外国人の集団に捕まって強制的に部屋に連れ込まれ性行為をされかけたが(2018年)その時、
その人らの問いかけに答えたりすることができた。(口で)
(ちなみに、お金を持っていないことを示したら釈放してもらえた。
 ↑これが他人と話せるという絶対の証拠。〈ではない?〉
 その場面を動画で撮影して見せるくらいまでしないとだめなのか?それでもだめかもしれない)
座れるようになった時などもそうだったが、「できない」ではなく、
逆に「できる」と皆に思われてしまえれば、むしろやらないでいることができなくなり、できるようになったりする。
自分のこのこと(事情)を知らないでいてくれたらできるので、知られていない方が良い。
事情を知っている、家族と連帯しているとなるとそもそも何もできないので何にもならない。
ある意味もう克服しています。
家族や家族と繋がりのある知人以外の人となら間違いなく話せると思いますから。
「克服しているにも関わらず、家族が存在することによってそれを封じられてしまっている」感じです。
そう表現できる。

もし知人に驚かれないと確信できるようになったとしても、もはや今の知人の前で本来の状態を見せることは難しいと思う。
なので単に「自分で自分を戒めているだけ」の状態とも見て取れる。(だから何?という感じ)


☆すでに言った通り、必ず現状打破できる方法があるわけですが、それがいいとは誰も思わない。自分でも思わない。
そこで効果のあるかもしれない(と思っていた)ことの具体例(現状打破方)をまとめてみる。↓
やってみないとわからなかったというケースがあるので、絶対無意味とも言い切れない。
○=自分で実行可能 △=他人の協力が必要 ×=家族の協力が必要 ?=検討中

・以前の自分に戻ったらどうするかを具体的に考えてもらう ×
 今の通所施設に関してどうするか?どこでどう働くか?どういう流れでどう生活していくか?など。
 常時本来の状態になったら、そうなった日以降、そういう場所は場違いなので行けません。(比較対象外の人達のいるところです)
 以前の自分に戻っても誰も困惑することがないような流れを予め考えておく感じ。
 でも場面に応じて違うのに、辻褄が合うようにするためには
 あらゆる場面(全ての知人の前)で同時に本来の状態でいれるようにならないといけない。
 「今の環境のままで常時本来の状態になれ」と言われてもそれは物凄くハードなこと。
 通所施設の詳細は言いません。
 手帳のこともそうですが危険ですし、(個人として)屈辱的なことには触れたくない。

・自分と同じような人を見つける ○
 ここまであれな人はほかに存在しないでしょう。(この世にただ1人。おそらく誰しもそう思う〈誰も否定しない〉)
 だが絶対とは言いきれない。
 “もしも”存在し、その人と交流することができたなら、互いに色々良いことがあるはず。
 もしこのような人をほかに知っているならぜひ教えてほしい。(いえ、教えてください)
 “ある程度”共通点のある似通った人ならいくらでもいる。
 最悪そういう人でも良い。
 同様な人に希望を与えることもしたい。

・意見をもらう △
 このページを他人に見せ、意見をもらう。
 すると何か気付くことがあったり、力になってくれる人が現れ道が開けるかもしれない。
 ずっとそう思っていた。
 この文章を公開する日にありつけてしまった今、道が見えなくなりつつある。
 …誤解されて的外れなことを言われるばかり。
 なかなかアイディアは得られない。
 的外れなことをあえて的外れだと思わないようにするよう、意識しているがやはり的外れでしかない。
 「同様の人」や、「専門医」に意見を聞いたらどうか?
 全てここに書いたので面倒なことはせず、このページを見せれば良いだけになる。
 でも後者は厳しい。
 そういう地位が遥かに上の人に当ページを“自ら”見せる勇気はない。
 誰も意見を掲示板に書いてくれないので返信を兼ねてここにやたらと色々書くことにもしてしまい、このような有り様。
 こんなに恥ずかしいページはなかなか見せられない。
 でも現状打破の方法を1番わかるのはやはり“自分”。
 ↑↓これだけアイディアがあれば十分なのでこれ以上にそれを得ることに重要性はさほどない。
 何かを「誰かに聞く」必要は「あまり」ない。(そう思う)
 前者を実行したが、結果なかなか当ページへのリンクをクリックしてもらえない。
 唯一〇i〇iからは人が入ってくるが、
 そこは前々から自分を知っているス〇ー〇ーの人が入ってきてしまう可能性が高い。
 これは、そういう人からしか意見をもらうことが(反応を見ることが)できないということを意味するのか?(そのようでした)
 それ以外の人の反応を知ることを1つの目標に掲げています。
 もし何か危険なオーラを感じられたり、緊張感を感じられたり、
 近寄りがたい印象を出していたりしたとしても、反応をもらえないと何もわからない。
 まず何か一言でも良いので言葉をもらえるとありがたい。
 簡単なようで難しい目標。
 そう言ったらそこからではなく、検索でヒットしやすいある別の場所から入ってくるようになった。
 そこから来た新参を装うのはやめてください。
 (そうしないと見向きもしないのではないか?とかってに思い、そうするのでしょうか?)
 そうされ、“もし”見抜けなかったら「前々から自分を知っている人以外の人から意見をもらう」という
 その目標を達成したことにしています。
 そのまま事実上達成していない状態で終わりにしてしまうかもしれません。
 現状打破に支障をきたします。
 その後、前者(同様な人に意見を求めること)を15回前後はやりましたが、返答が返ってきたのは僅か2回。。
 その2回も本当に一言だけで終わりだったり当ページは見ていなさげだったり…。
 目標を達成した?とはいえ、まだ微妙。「どう思われるのか?」それをあまり確かめられていない。
 反応がない場合、「嘘を言って人を弄ぶクズと思われ嫌がられたor変な危険人物とみられたor
 どういうわけか知らないが怒りや憎しみや嫌気や不快感を持たれた」
 (よって近寄らないようにしようとした)ものと(曖昧ながら)判断します。
 (そうは見えないようだが)怖さを押し退け、勇気を振り絞った上で、全力で言葉で投じているのに
 かってにそんなふうに思われてしまうというのは本当に悲しい。
 相手の好感度下がります。
 …本当にそうなら書き込みを消すなりしてそれなりの反応を示してほしい。
 そうしてくれれば曖昧にならず、すんなり諦めがつく。
 「お前の言葉が悪いんだ?」
 どんな文か見てもいないのに堂々とそんなことが言うのは失礼でしょう。
 自分は悪いやつとされているので、そういうことにされる…
 ネット上で繰り返し言葉を投げかけてきたり、返信を続けてくれるような人はほぼいない。
 そういう人が出てきたら奇跡。
 奇跡のようなことと思っていい。
 出てきましたが、信じられないようなレベルのこと。
 もともとそうでしたし、今改めて思ってみてもそう。
 そんなでネット上で「悪い人」とされる人につきまとわれるようなこともないものと思っていい。
 それがもしあっても、自分は無意味だと断定できるまで話したら見切り排除を試みます。
 実際、そういうことがあり何度かそこに行き着けています。
 嫌な想いをし続ける、尚且つ無意味(メリットなし)、なのに拘ってそういう人と付き合っていこうとし続ける…
 そんな訳のわからない意味深なことをする変人ではありません。
 変な誤解しないでください。
 嫌なことを嫌なのにやり続けるはずありません。

・知人に予め本来の自分を知ってもらう ×
 能力や知識のことなど。
 そうすることで驚かれにくくなり、ある意味本来を見せやすくなる。
 (自分の今の本来のことをよく知っている知人は誰一人いない)
 だがそれはほぼ無理な話。
 ここで散々言っているようなことを例の手段で予め伝えても知人は信じない。
 信じないですから、本当に驚かれることは避けられない。
 驚かれない環境を作ってもらうことはできない。
 信じない(信じられない)ようなことが事実なわけですから相当驚く。

・どこか遠くで1人で暮らす ×
 以前はあれだったが、それ相応の歳になったことで、これが可能になった。
 人と接したりすることに「最大限に慣れる」と思うので、
 地元に戻っても本来の状態のままでいれるかもしれない。(それでもその可能性は低い)
 2度と戻らない、知人も来ないなら絶対的に現状打破可能。
 (自分のことをちゃんと理解しているなら、それで現状打破できることが〈その原理が〉分かると思います。
  「知人がいるからできない知人がいなければできる」それだけですから、それで現状打破できるわけ)
 だがそれは良くない。普通良いとは思わない。
 なぜって?「家族と縁を切ってしまう」ことになるわけです。(それでいいと思いますか?)
 普通なら自立するからといって、もう2度と会わないということはないです。
 普通のそれとは違うので自分の場合「縁を切る」ということになる。
 年をとって大事な親族が誰もいなくなったら別に良い。
 「心配してくる人がいる」ということが大きな壁となる。(本当は心配無用な人です)
 「現状打破(縁を切る)」と「家族との縁」。
 選ぶとしたら、個人としては前者。(今の想いはそう)
 演技のようなもので難しかったりするし恥ずかしいし、この先も現状のこんな状態ではやっていられない。
 だが自分でそれを望んだからといってどうもできない。何にでも言えること。
 (このページを普通に読んでいればそれがどうしてだかはわかるはず)
 「縁を切る」ということに家族が賛同してくれないといけない。
 だから難しい。
 まず「縁を切りたい」という意思を示すのが難しい。(例の方法で示せないことはない)
 示せたとしても、「1人で生活できる」とは到底思ってもらえない。
 もしも思ってもらえてもそれに賛同はしないと思う。
 皆絶対の持論を持っている、ナメられるで信用してもらうこともできない。
 絶対の持論は持つなら「自分の中でしか通用していないかもしれない」ということ視野に入れてほしいもの。
 言ってることは絶対だ、絶対できるという証拠となる事柄を作ったりすれば多少家族の信頼度を上げることができる。
 (なぜか証拠にならず、だめな場合もあり)
 「証拠となる事柄を作る」というのは実際自分自身にとってはあまりする必要のないことなので、なかなかする気にはなれない。
 「ある日突然失踪して2度と帰らない」ということをやれば行けますが(もちろんかなり下準備が必要)、
 もしメモを残していったとしても、とてつもない大騒ぎになってしまいます。無理です。
 とにかく家族がネック。
 これは場を変えれば治ります。
 小学校のころなら転校することで治せたかもしれない。
 ただ、今や長引いて家でも学校と同じに近い状態になってしまったわけです。
 家(家族)も変えないといけない。
 そういうことです。
 そこまで重くなってしまった。
 情報が家族を仲介することになる限り大きく変わることはない。
 この絶対いける方法をすぐに実行に至らせることは難しい。でも現状打破が絶対に無理、不可能ということはありません。
 絶対ではないがその他にもいける可能性のある方法があるわけです。
 可能性があるのだから不可能とは言えません。(当然)
 絶対いける方法も実行に至らせることは難しいですが「難しい」です。
 ネックである家族をなんとかすれば不可能ではない。
 「遠くではなくしかも一時的にだけ」で実行してもらえることはありえますが、その場合、
 形跡が残ってしまい、やりにくい形でやらされてしまうかもしれない。そこが多少怖い。
 そうならなければ、まずやれる。
 とりあえずはお金の管理の流れ、食糧確保の流れだけでも確立させれば良い。
 どこでどのようにどうするか?具体的に決める。
 具体的に決める必要がある。そうすれば現実味を帯びてきて実行できる。
 手助けを入れられると逆に厳しくなる。
 知人に再度会うとなると、その会う時のことを常時視野に入れ、その時に備え続けているような形になる。
 ホテルは従業員がいるのでハードルが高め。
 ハードルが高すぎて「無理な領域」には踏み込めません。
 どういうことなら良いか?どういうことはだめか?決まりがあり、
 できるか?できないか?はやってみる間でもなく自分で分かるわけです。
 どういう形をとられるか?そこがポイント。
 妨害しているもの(天敵・厄介者)は家族ですから、家族の動向にかかっています。
 「人並み以下なことはない」「知人がいなければ理論上動ける」わけですから、それだけです。
 無理な領域に踏み込まないとだめだというなら違う。
 この案は無理な領域に踏み込まずにいけるので絶対いける。
 事実上問題なことは、皆が予想するであろう問題とは異なります。
 問題視していることがないわけではないが、それはどれも皆からすると笑ってしまうような程度のことです。
 皆はまず生きれるかどうかを気にし、こういったことはもう思い浮かびもしない。考えつかない。
 信用せず自己流解釈で何かしようとした場合、無意味路線を走り続けるだけになります。
 口座や色々な契約は家族の管理下にあるため軽々と手を出せない。
 履歴が残るとだめ。
 形式常識ルールが限りなく多い。誰が考えたのか現在の世の中で人として生きるのは関門だらけ。
 大人になれば好きにして良いのかと思いきや、そうではなかった。
 誰しもが自分自身が正しいと思っている(自分に否は打たない)ので、対立して上手くいかない。
 (自分自身が正しいと…省略←誤解され、お前がそうだなどと散々言われますが、
  これはこちらから相手に対していつも言いたいことです)
 独立できない世の中だということがまたネック。
 なんとかして密かに自分で口座を作ることができ、行けそうな場所にATMがあったとしても、
 ネットがないとポイントサイトで稼ぐこともできない。
 ホームレスとして生きるのも自分のこの症状からして初めは楽でない。
 森で野生動物のように生きるなら楽々行動できるが、違う意味で過酷。
 でも何かいい手があるはず。
 誰かの力を借りなければならないのか?極力それはしたくないし、人はそう簡単に都合良く動いてくれない。
 支え合えうような関係になるとまだいいのかもしれない。
 無人のコンビニがあればいいと思い、調査したところ、海外にはすでに存在する。
 無人スーパーは国内に1件?だができている。
 食品自動販売機なら近場にある。
 最初に暮らす場所はそれらの近くだと非常に気楽。
 いずれはどの店からも店員がいなくなると言われている。
 家族の元を離れれば突然本来に戻る、という感じではありません。
 まず小学校入学時以降もほとんどの時間本来の状態でいたわけですし、今も本来の時がそれなりにあります。
 知人が見ていない場面なら何ともなく行動できているわけです。
 知人にずっと会わなければ、本来の状態もずっと続く。
 そういうことです。
 突然未知の領域へ行くような感じではありません。
 ×場所を変えればできる ○知人が見ていなければできる
 場所(環境)を変えること自体には意味がない。
 「今の自分は本当の自分ではない、本当の自分を取り戻せ」的なことを言われたりもしますが、それは誤解です。
 今もいままでもそうですが、知人がいない場面になれば本当の自分になります。
 取り戻すも何も、今の自分は本当の自分でもあります。
 それで「知人のいない環境へ行くことで突然、人が変わって本当の自分になる?」的なことを思われたりもしますが、
 それも意味がわからない発言です。
 「知人がいない場面」と「知人がいる場面」は必ず毎日ありますから、毎日取り戻したり失ったりしています。
 知人のいない環境へ行った場合、人が変わって本当の自分になるではなくて、「いつもの本当の自分がそのままでいる」。
 それだけのことです。たいしたことではないです。
 必ずしも遠く行かないといけないということはない。
 「知人に気付かれない」ならそれで良い。
 もしこれが絶対だめだとしたら、家族の状況が変わるか、気が変わるか、認められるまで待つ。
 その間現状のままで多少でも現状打破に結び付くことを色々やる。知人の前で何かできるようにはならないが。
 予想だと絶対だめというか、答えられず終いだろう。(実際だめ?なように見える)
 「そうなり、そうする形が最も現実的」なのか?
 何か、今の自分は自分で責任を持つことができないとされる。
 おそらく障害者として障害者を援助する人達と結び付くことをしたから。
 例えば家出をやって失踪し例の色々な施設をやめることになっても自分自身の責任とはならず、
 家族の責任となり、家族が刑罰を受けることになる(と言う)。
 大人になった意味がない。
 30,40になればさすがにあきれられて…などと序盤に書いていましたが、今やそれはなかった。
 手帳さえ手にすればどんなに呆れられようとどんなになろうと何があろうと
 何をしようと、働かなくとも世話をして生かし続けてもらえるとされる。
 何もせず楽したい人にはおすすめ。
 国に守られ絶対的。障害者は神のよう。
 「できない人」と認定させてしまえばもう何もしなくていいわけです。
 叱られることも苦しむことも何もない。
 世話人は国の命令により世話させられている感覚ですから抵抗できない。
 抵抗したら刑罰を受けて人生台無しになるわけです。
 奴隷と言ってもいい。何を言っても世話してもらえる。
 社会で生きるのに苦悩している凡人の気持ちなど全く分からない、分からなくてもいい殿様。
 だが、自分にとってはこの仕組みは非常に邪魔なもの。
 この仕組みがあることによって色々妨げられている。
 何も言わず何もしないようにしていれば、
 何もできない言葉も分からないものと認定され、最重度の知的障害者ということになれる。
 誰でも、いつからでもそうすればそうなれるでしょう。
 自分が実証した。
 そして学校も行かなくて良ければ仕事もしなくていい、
 何もしなくても死ぬまで世話人に世話し続けてもらえるようになれるというww
 手帳を作られた例のあの時にて自分は人間から動物にさせられた感じ。
 動物ですから放っておくと危ない!見張っていないといけない!(他人はそう信じてやまない)
 こいつは突然暴れだすかもしれない!突然全裸になるかもしれない!物を落とすかもしれない!階段から落ちるかもしれない!
 死ぬようなことをして死んでしまうかもしれない!(例え10年そんなことがなくても人によってはそう信じてやまない)
 エサを与え続けなければいけない!逃がしてはいけない!粗末にしてはいけない!それが飼い主の役割。
 しかし、動物なのに命の重みが人間と同じと定義付けられている。たまったもんじゃない。
 役割を放棄したら逮捕!

・他人と会話をする △
 基本的なこと。
 知人でなければ話すことが可能。
 上記の通り、一応色々やった。
 熱心にやってはいない。
 よくよく思ってみると他人と話したからといって知人と話せるようにはなるとは考えにくい。
 でもかなり為になると思う。
 できれば感覚はつかんでおきたい。
 ちなみに他人も、ある程度交流すれば知人になるわけですが、知人になったらもうだめかというとそうではない。
 「知人を介して知り合った人ではない」なら、いつまでも本来を見せることが可能。

・他人と偽って知人と話す ○
 自分自身がその知人と話すことに慣れることができる。
 さらに、あとから自分だったと伝えれば、相手にも自分と話す感覚を感じてもらえる。
 (するとこちらとしても話しやすい感じになる)
 かなり勇気がいるが無理はない。何度もやれない。
 軽くこれを実行してみた。「自分で」できることは実行可能。
 具体的に言うと昔の知人のブログにコメントした。
 結果:返答がない。(たいていそうだろう)これでは何にもならない。
 と思いきや、返答を得られた。しかし、その次の返答はない。
 かつての恨み晴らしを兼ねてビビらせ要素を入れたのがだめだっか?
 まあそれでも少し会話した感覚を得られた。以上。
 自分だと打ち明けるのは厳しい。
 実際の知人の場合は家族に連絡される危険性がある。

・知人に他人と偽って会話してもらう △
 相手にも自分と話すことに慣れてもらえるので良い。
 これができたら物凄いこと。本当に気づかなければ可能。
 これはどうしてもだめな場合の会話手段でもある。

・他人に自分を装って知人に会ってもらう △
 で自分を装ったその人が知人の前で話したりする。
 これでその知人の反応を予め見ることができる。
 他人に予行練習させ、自分と接することに予め慣れてももらえる。
 すると自分本人?も気楽になり、平気だと思えてくる。
 わりと、いいかもしれない。
 大人になった姿を知らない昔の知人であればバレない確立が高い。
 姿を見せずに電話で自分を装うというのもあり。
 それなら今の知人でもいける。
 何せ誰も声を聞いたことがない(声を知らない)わけだ。
 自分の偽物に成り代わって本物になるようなこともできるようになり、
 本当にいけるようになるようなこともあるかもしれない。

・失踪を装って実は家にいる ○
 天井裏や天袋に隠れて、生き続ける人がいる。→詳細
 生きれる。
 これを自分の家でやる分には犯罪にならない。
 家の誰も来ない場所に住み着くなら、入念に考えて計画を練る必要もないが…結局家を出るのと同じ。
 大捜索され、大パニックが起こる。
 親がいなくなったら、まずこれをやるかもしれない。

・自信をなくす △
 自信があるからこそ、こうなったわけで、なかったらこうなっていない。
 自信をつけるのではなくて、なくす。
 リアル知人←ならば「変なことを言ってる」と思うでしょうが、これは本当に有効です。
 ネットで自分の作ったものなどを見せ、全てをひたすら貶され酷評され続けたことで
 知人に見せるのも(たとえ本気が作ったものでも)わりと平気だと思えるようになった。
 凄くて驚かれるのではなく、「こんなのは逆に酷くて驚かれるようなものなんだ」
 「自分の本性(本来の姿)をもろに見せてしまっても色々酷くて低レベルで驚かれるだけなんだ」と胸を張って言えますから。
 「良い結果が出た」と言えるだろう。
 でもそう言えるというだけで、リアルだと(凄くて)驚かれてしまうことは確か。
 遠回しに言いますが、少なくとも身の回りにいる人達(知人)の能力などは
 もちろん分野によりますが色々な分野において自分よりかかなり○○。
 (サイトがどうこうではありません。以前はサイトなどありませんでした)
 認知力、把握能力、知識…
 何を言おうと↑違いない。
 自分の見えているもの、聞こえていることが確かな限り。
 もし知人の方が上だとすると、知人は自分の前で常に力を隠し、能力の低い人を演じている…
 または自分の見えている知人の姿や声、知人の残す形跡などは幻想ということになる。
 そんなことがありますか?ありえないでしょう。
 ネット上の人なら絶対知人の方が能力が上だと言うでしょうが、残念ながらそれは違う。
 残念ながらどう足掻いても知人を持ち上げることはできません。
 だから自信があるわけで、自信がある素振りなどしていません。断じてしていません。
 ネット上の人は「自信があるはずない」と思うようですが、これ↑が事実です。
 だから嘘ではありません。
 知人には1年かかっても分からない機械やゲームの仕組みを自分は1分足らずで把握できたり、
 知人には一生かかってもできないパズルや何か組み立てるものなどを自分は3分で完成させられたり、
 知人が把握できない地図を自分は瞬時に把握できたり、
 知人がどうあがいても描くことができない細かい絵や立体感のある絵を自分は意図も簡単に描けたり、
 (↑自分の絵は糞。そんなのおかしい嘘ではありません。
  知人は現に普通書けないような凄い絵だと散々言っていました。幻ではありません)
 知人にはできない(目視することすらできないような)細かい作業が自分にはできたり、
 知人が忘れていることを自分は正確に覚えていたり、
 知人がまず直せない壊れたものや不具合を自分は直せたり、
 知人が一言二言でしか書き表せないことを自分はその100倍のスケールで書き表せたり、知人が忘れていることを覚えていたり、
 知人には到底思いつかないようなことが自分には思い付き、良い様にできたり、
 知人がちゃんとできないことを自分はちゃんと(100%まで)できたり、
 知人の気づかないことに自分は気づいたり、知人の分からない原因が自分には即分かったり、
 知人は数字の意味が分からなかったり突発的に単純な計算ができなかったりするが自分はそんなことはなかったり、
 知人が20年見続けていても覚えていないことを、自分は20年前から覚えていたり、
 (↑そんなことはおかしい嘘ではありません。
  生き物の行動パターンや町の風景など毎日見ていてもいつまでも覚えていなかったりします)
 知人には原因や要因が分からず良し悪しの判断がつかないようなことを、自分は容易に判断できたり、
 知人はある類のことを覚えよう把握しようとして奮闘してもいつまでもそれができなかったりするが
 自分は覚えようとすらしなくても短期間でそのことを覚えて把握できていたり、
 知人は1つのことを覚えるのに1週間かかったりしますが自分は1日で10個以上のことを覚えられたり、
 知人が勉強したり研究したりしないとわからないことを自分はそんなことをするまでもなく即座にわかったり、
 知人は家具や物などをきっちり整えることができないが自分にはできたり、
 知人は完璧にできないのに自分は色々完璧にできたり、知人には到底作れないようなものを作れたり、
 知人が「知らない、分からない、できない」と言っていることを自分は恐ろしく詳しく知っていたり、分かったり、できたり、
 知人と違って色々幅広く、色々楽しめたり、自分は学習できたり、覚えられたり、
 何が良いか?何がだめか?判断がついて最善の形がとれたり、
 知人は嘘を言ったり各発言が結び付いていなかったり決めつけたり受け入れようとしなかったり
 知ったかぶったりまやかしたりするが自分はそういうことはしなかったり、
 知人は色々おかしなことになっていても、自分はそうでもなかったりetc.
 挙げていったら切りがありません。根本的に違う。身体的なことに関しても色々ある。
 1度そう思ったことがある←ではなくて、「知人といると四六時中そういうことを思う」。
 だのに知人は皆自身の方が上だと思い、上から目線の先生気取りでいるという…
 自分の方が劣っていると 感じる ことは、もうほぼない。
 とはいっても自分は超人とも思わない。
 何というか知人とは考え方や力の注ぎ方が違うだけ。
 超越した能力や特殊能力のようなものは何もない。
 各分野ごとにおいて自分よりできる人がこの世には大勢いるということは分かっています。
 「あらゆること」ではなくても、できる人は自分と同じような感覚で何かできたりする。
 ただできない人はできない。感覚の違い?
 自分の身近な場所にはできる類の人、自分のような把握力のある人がいない。
 言ってること、分かりませんか?
 分からない人は他人のことを良く見ていないか、同類の仲間としか関わらない人ではないですか?
 できる人はできる、できない人はできない。
 同じ人間でも信じられないほど差があるケースは良くあります。
 世代や性別によっても大きく違います。分かりませんか?
 良くあるのでおかしいことではありません。知的障害者とはなりません。
 おかしいと言うことの方がおかしいです。
 理解していないといけない。
 自分の知人の中には自分とは世代や性別の違う人が大勢います。
 もし身の回りに自分以上の(自分には敵わないと思えるような)人が現れたら、心境がかなり変わる。
 自分は馬鹿にされているので、「適当に根拠もなく何となく想像で自分は有能だと思っているのだろう」
 はたまた「何か1つの馬鹿げたことを根に持って自分は有能だと思っているのだろう」なんて思われますが、大間違いです。
 なぜか訳もなく自分は有能だと思うはずありません。そんなはずありません。
 繰り返し言います。そんなはずありません。
 知人と話したら、知人に様々なこと教え、知人を成長させることができるでしょう。(本気で言っています)
 知人を見ていれば見ているほど、自分が非常に有○だということを実感する。
 もう次元が違う。
 何も教えられず、力を抑えていないといけないのが本当に惜しい。
 どれだけ細かく説明しないといけないのか?
 (↑誰にも理解してもらえないので、
  何とかして理解させようとしてヒートアップしてまた若干危険なことを書くまでしてしまいました。
  人を貶す心のない糞人間確定?もはや人間ですらない?
  ↑とある個人に対して言っているわけではないので容赦範囲内だと思いますが。
  そんなことを言う人の方が心がないように思えます。
  他人を思いきり貶しているのは誰ですか?
  知人を擁護する正義にも見えません。
  もしそんな心が無の人間なら人のことなんて気にせず、人に見られていても動じず、こうなっていなかったでしょう。
  ネット上の人によく思われるような心のない人間なら、ある意味楽。
  密かに深刻な気持ちになってしまうようなこともないだろう。
  真実の自分は、誰しもが想い描く想像上の自分とは違う)
 こう言っても何を言ってもネット上の人は全部嘘だとし、知人の方が上ということにするのだろう。(ですね)
 自分が悪くなるようなことは一言で認められるのに、自分が優位になることはどうしたって認められない世界。
 それがネット。
 (おかしい嘘などと言う人、本当のことですから、自分だけでなく予期せず自ら知人に失礼なことを言ってしまっています。
  ネット上の人には「自分はおかしい、嘘を言う、自分の言ったことならかってな解釈をして思いきり貶していい」
  という固定概念があるように思いますが、そんな自分ではなく知人に言ってしまっている。
  そういうケースはわりと良くある)
 嘘を言う意味がない。
 嘘を言ったら意味がない。
 自分はこの事情によって色々なことを阻害されています。
 現状打破したらその阻害されるものがなくなり、今のように「変に」力を抑えたり行動を制限したりする必要がなくなって
 常に全力を出していられるようになり、素晴らしい世界が広がるでしょう。
 だからこそそうしたいと思うわけです。
 知人よりも上の境地に移行できる。
 能力が低い人は能力が低いことが分からず、自信満々でいるもの?
 本当に能力が低いがために自信なしの人(実際に能力の低いのに自信がない人)なども
 明らかに大勢いますが、ならそういう人との違いは何か?
 自信があることは即ちできないことになりますか?
 自分がそれなら、知人らは何なのか?
 色々疑問です。
 何かが「できなくて」叱られ、嫌になる…そういうことは普通必ずある、ありきたりなこと。
 ごく普通の、つまらないこと。
 だが自分の場合それはなく、その逆のような感じ。
 こんな人はいない…。

・中学校以前の知人に説教される △
 最も感情を揺さぶられる存在なのは中学校以前の知人。
 家でも話さなくなり(普通ではなくなり)、逆におかしくなっているということを知られたらたまらない。
 もし知られて何か言われたりでもしたら、正気でいられなくなって何か変わるかもしれない。
 親はそれ以前をかってに黒歴史のように見ている。中学校が終わったその時点からすでにそう。
 それ以降の方が黒歴史だと思うが。抹消したいのはそれ以降の方。
 心の問題なので、こういう形ではなくともともかく心を動かすようなことをされると、効果がありそう。
 有効なのは何というか動的な訓練ではありません。
 言葉などによって「心を動かすことをする」ことの方がまだ意味がある。

・催眠術により催眠状態にする ○?
 うまく意識を変えられたら、その間話したりすることができるかもしれない。
 寝言なら言える(自分で自分が喋ったことに気づかないので)のと同じ。
 程よい昏睡状態ならいいわけです。
 昏睡状態になる方法はほかにもありますが、そのほかは良くなさすぎる。
 今やより知恵もつき根深くなってしまったので、
 知人の前で本来の姿を見せるということははっきり「意識」がある限り、無理に近いほど難しい。
 催眠が溶けても、スムーズに溶ければ平気だという感覚が得られて
 (もしくはまだ催眠状態であるフリをして)しばらく本来のままでいれる可能性もある。
 (これは自分で思いついたことではない)
 (動画←で)体験してみましたが、結果:全く催眠術にかからない
 潜在意識を書き換えることもできそうにない。

・酔っぱらう ×
 経験がないので知りませんが正気を失い意識がなくなるなら、いける。
 話してしまえればその後も平気になる可能性が。
 これは催眠に近い。
 酔いが覚めれば元通りになるという常識があることが少し問題。
 でも現実的な厳しさは緩い。

・寝言を言う
 聞いた人に声に慣れてもらえるので多少良いかもしれないが、
 それ言う体質ではないし、聞かれたいとは思わないもの。
 無意識を装って何か言い、覚えていないことにすれば問題ないわけだが、
 一時的にではさほど意味がないし、問題ないとはいえ、なかなかできなることでない。

・テレパシーを通して会話する △
 心を読むことができる超能力を持つ人となら話すことができそう。(前々から思っていたこと)
 身近なところにそういう人がいたので(会ったことはないのでどの程度読めるのかわからなし、信じがたいが)、
 超能力は存在すると思っていた“ことが”あった。
 もし読めるなら通訳としても使える。
 話すことに慣れるために有効。

・本来の時の自分の姿を映した映像を知人に見せる ?
 このページの1番上のリンクの話にもあったが、それなら無理はないし、有効かもしれない。
 否定的な人が多いですが、自分はむしろやってもらいたかった。
 怖いがいいかもしれないと前々から思っていたこと。
 ちなみに、家にいる時の様子(自分の本来の姿)を盗撮して、
 それを密かにほかの人に見せているクラスメイトはいた。(小5の時のこと)
 当時はあるきっかけにより家でも一部の家族と話しにくい感じになりかけてきているころだったが、
 話しているところが写っていたようで、むしろ良かったと思った。
 話せない人とは思われたくなかった。
 もっと見せびらかしてくれても良かったの「かも」しれない。

・ネットで知り合った人に自分のリアル知人と交流してもらう △
 代行して何か言ってもらうようなことができたり…
 これは少々危険。

・学校で食べ物を食べる △
 もともと、現状打破を果たすためのキーはこれだった。
 「微々たる量」ではあるが食べてしまったことがあったが、その時は「普通になれるその時来た?」的な感覚になった。
 元の自分に戻れたような気がした。
 でも根深くなってしまったからか、話せるようにならなかった。
 そんな気がしただけであった。
 その時、もうこれではだめなんだと思ったが…
 “自ら”食べたとしたら、どうだったかはわからない。
 まだ症状の根の浅いころ、自らこれをやり、(現在まで続く今回のこの状態を)一瞬また克服しかけたことがありましたが
 その時!前にいた某クラスメイトが驚きの声をあげた。
 それで恥ずかしくなってだめになってしまった。。
 そういうのをやめてくれるよう伝えてくれていたら…今頃どうなっていたことか??
 その時はぎりぎりで口に入るところまでは至らず、誤魔化すことができてしまったので「食べた」とは言えない。

・1度喋る ○
 1度声を出してしまえば、1度自ら動いてしまえば、それ以降普通にやれる のではないかと思っていた。
 だが食べる件と同じ。
 そういうことが学校であったが、その時、元に戻れたような気がしただけ。
 根深くなってしまったからか、だめ。
 1度きり。
 しかも今となってはそうしたとすると、その後翌日になったら前日のことが恥ずかしくてたまらなくなることでしょう。
 少し時間が経ってから改めて思ってみた時のことを考えてみるとできない。

・厳しくされる ×
 そもそも厳しくされていたらこうはならなかったかもしれないわけです。
 家から追い出すくらいの感じになってくれたら変われるかもしれない。
 大人になってもそのままならそうなって変われるかと思っていたが、、いつまでもそうはならない。
 だがいずれさすがにそうなる時が来るかもしれない。(いや残念ながら来ないだろう)
 現代が何もできないフリをして何もせずに生きていられるような、甘い世の中であったことも裏目に出てこうなってしまった。

・障害者に話しかける ○
 理解力がなく、言葉を発することができないような人(赤子・動物も該当する)にならなんとか話しかけることができる。
 こういうことをしていれば話せるようになるか?的なことを思っていたが、
 いざやろうとしてみると「だから何?」と思うだけであった。

・激しいメール友達を作る △
 日に何回も何十回も一方的にコンタクトを取ろうとしてくる人を知っていますが、
 何か行動を起こす上でそういう人がいると良いと思う。
 「自らの意思で行動している感覚」をなくせると行動しやすい。
 (そうは見えないかもしれませんが)↑通話をしたことなどに関して書いた内容の中で言った通り、
 実は話すことが凄く怖いので、相手側から常に攻めてきてくれないと会話もできない。
 色々すれ違って誤解されて食い違って面倒なことにもなるだろうが、それでも話せる相手がいると違う。
 その存在は大きい。
 普通に仕事で稼いで生活するくらいになるためには、(激しくなくても良いのでともかく)話せる相手を作ることが必須。

・1人で独り言を言う ○
 誰もいない時に、あえて多めに言ったりしていると、人前でもうっかり何か言ってしまいそうになってまずい。
 それだけでした。

・1人の時、堂々とする ○
 誰も見ていなくとも、狭い場所などにいないと何か恥じらわしい感じがしてしまうのだが、
 そこで恥ずかしさを感じずにいれるようになれれば何か変わるか?とも思ったり。

・少し声を出す ○
 小5の時、道端で遭遇しただけの人や、話さなくなったことをあまり知らない人の前で
 何気なく声を出したりしてみたことがあったが、だから何という感じ。
 現実的に考えてみるとそうなって当然。
 もうできない。

・何もしないようにしてもらう ×
 知人に見られていなけば本来の状態なわけですから、
 知人に構われず見られていない時をほとんどにするば、ほとんどの時間本来の状態でいれる。
 現状打破に近い。
 序々に手を出さない(自分に何もしない)ようにしていく形で
 欠かせないことにも手を出さないようにしていけば多少知人が不安になりにくいかもしれない。
 欠かせないことを本人に任せるというのは知人的にNGに近いか。
 いないものとみて、何もしないなら別の家にいることとある意味同じです。
 固定された長い本来の状態の間にするべきことをする…という案もある。
 世話をされることは迷惑です。
 相手(知人)にとってもそうでしょう。
 つまり互いに迷惑。いいことなし。
 でも世話をしないと犯罪で(そう見ている)、何もしないようにしてもらうということはできない模様。
 迷惑なら何もしない(構わない)でいてくれればいい。
 だがそうしてこないのが現実。
 自分は何もしていないし、何も要求していません。
 (家族を始めとした)知人は自ら迷惑することを作っている?だけです。
 人に何も望まず、関わってこないでほしいと思っている人はその対象の人に関わられる。
 人に何かを望んでいる人はその対象の人から嫌がられ、関われるのを避けられる。
 そういうものなのか?
 誰にも利点がない。色々なことが台無しになる。
 金を稼いでいないのだから、食べる資格も電気を使う資格も何もない。
 人間なら普通そう。不平等。
 (だから極力食べたくも使いたくもない〈なのにそうはさせてもらえないという〉)
 こんなやつは早く縁を切って追い出せばいい。
 自分は反則的な人間。
 こんな風に生きていたら、普通に働いて生きている普通の人に悪い。
 「家族は自分が家族であること(親は自分を産んでしまったこと)を屈辱的なことだと思っている?家族は自分のためではなく、
  家族自身の身のために自分を世話し続けている?本当はこんなやつ見捨てたい?」
 家族自身の身のために自分を世話し続けている←これはあるだろう。
 それが自分を見捨てることができない大きな要因かと思う。
 それは自分が障害者にされたから。
 (障害者を見捨てたら逮捕。障害者は自らの意思で家を出ても形式上そうはならず保護者が出したということになる)
 家族は自ら自分を障害者にしておきながら、それによって自身も危険に晒され、世話をし続けないといけないハメになっている。
 障害者を支援する人達との関わりをなくした上で障害者の肩書きをなくせば見捨てても家族は捕まらない…
 なら、そうすればいいことだと思う。(見放すことは絶対無理とは言えない)
 本当の重度障害者やその保護者は、いつか見放され放棄されてしまわないかと
 将来のことを心配したりすることがあるようだが、全くそんな必要はない。
 自分はいつまでも見放してもらえないことに不満を持っている。
 見放されること、呆れられること、嫌われることなどは全く怖くない。
 何せ見放されること、呆れられること、嫌われることなどを逆に望んでいますから。
 (本気で嫌われ嫌がられれば「こんなやつ消えていい」と思われ
  〈↑「最初からそう思われているだろう」とそうネット上の人なら思うことだろうがそれは違う〉追い出してもらえるかもしれない)
 保護者が逝くことも同様に怖くない。
 逝ったら現状打破して輝く世界が開けますから。(開けなくなくありません。しっかり考えた上でそう言っています)
 人を頼らないと言うと頼れと言われる。頼ろうとすると頼るなと言われる。
 人には「絶対そうするべきではない、そうは思わない、お前にそんなことはできない(かってな解釈)」などと言われ、
 根本的に全否定されて誰も乗ってくれたりはしないのでどうにもならない。
 どうせそういうもの。
 人に何も求めない。誰にも期待しない。1人で何とかする。
 そう考える。
 理解者は0。
 人がどうしてくれること、どうなってくれることを強く願い、
 その願い通りになってくれることが自身の幸せだというような人がいますが、それでは厳しい人生になるだろう。
 夢も能力も考え方も人それぞれ違うのだから、人は人、自分は自分として生きるのが良いと個人的には思う。
 ネット上の人には理解しがたいかもしれないが、自分が家族に見放してもらえない理由のうちの1つとしてこれがある。

・○○ ○
 成人した時から本格的にやり出して120時間を越しているがどうもなっていないのが現状。
 逆効果だと思えるようなことがほとんどだがそうでもないと思えるようなことも。
 本当に逆効果ならその逆もありえるということなのでむしろ希望が芽生える。
 心は理論で成り立っている。そういう人の場合、どうなのか?
 「何かに対する想い」というのは、最初からずっと同じ(不変)ではなく、そのものと関わっていく上で変化します。
 色々な行いや結果などによって色々と感情を揺さぶられますから、それによって変化する。
 言っておきますが、普通にしています。
 普通人のように普通にやらなければしたことにはしません。
 そうでないと自分を許せません。
 かってに変なふうに思わないでください。普通の人と思ってください。

・ネットの掲示板で会話する ○
 電話とゲーム機を繋いで見知らぬ人と会話できると聞いたのは98年頃のこと。
 それならできそう。本当ならやってみたいと思った。
 違う形ではあるが、その見知らぬ人との会話は2004年の時点できた。
 これができていなかったらどうなっていたことか?(できない方が良かった?それはないです)
 ネットがあるから現実で会話をしないわけではありません。
 ネットをなくしたからといって現実で会話はできません。
 自分はずっとネットのない世界で生きていました。
 あと言っておきますが「掲示板でネットで世の中を変えられるから現状打破しない」なんて馬鹿げたことは考えておりません。
 自分のためだけの人生では生きた意味がない。
 ただ生きるだけなら生きなくていい。

・特に考えず、いきなり現状打破する ○
 それができないから色々な案を出したわけだ。
 これは原点回帰案。
 いきなり戻った上で、今日からどうするか話し合う。
 各場面に応じて、各知人に対してどうするか?どう説明しどう過ごすか?今や考えれば考えるほどもうマズイことだらけ。
 困惑が絶えないだろうが、成り行きに任せる。
 今やあまりにも恐ろしい現状打破方。
 だが頼みの綱である○○○○はこうすることを推し進めているとしか思えない。
 どう意気込んでもこれは厳しい。ボケない限り。
 それでもこれで行くとしたら、↑↓の現状打破方を熱心にやる形になる。
 これは、これまでずっと望まれてきたことでもある。
 どういうわけで自分がこういう状態でいるのか?相手は何も分からない。
 そうなるとやはり「今いきなり話せ」と言われます。それを望まれます。自然なこと。
 これで通すなら結局はその形を何も変えないということに。
 それでは何も変わらず終い。
 このページを作った意味もあまりなかったということに。

・その他
 このほかに良いと思う方法はありません。
 良いと思ったらここに入れているので当然です。
 理論を無視して何かするのは理論上、無意味路線へ走るとしか考えられない。
 だが知人がしたがることはその「その他」。
 厳しい。
 「~だと思う」だからだめなどと言い張り、他人の意思を無視して行動し続けたりする…それも良くない。
 実際にやってみたり、やめてみたりして結果を出してみないと、別の考えを持っている人達から永遠と不満を持たれたまま。
 自らもその人達に対して不満を持っているまま。
 自分に有効なことは↑これでけある。
 “「どこか遠くで1人で暮らす」がだめな場合、どうしたらいいのかわからない”ではありません。
 間違えないでください。
 ただそれ以外の場合、改善できる保証はない。


- 現状打破できるかもしれないシチュエーション -

・自分が大病を患う
 上記の通り()、話さないままでは人生を終えられません。
 死の寸前くらいになればいくらなんでも話してしまえる。
 前々から思っていたこと。
 何かきっかけが必要なわけです。
 そういうことでもあればイケるので、
 大人になる前にはこういうようなことがあって現状打破でき、普通に人生を歩めるものかと思ったりしていた。
 ○○しているので○○ようになると思っていた。
 だがそうならなかった。
 でももはや1度話せたからといって
 その後ずっと誰とでも話せるわけではかもしれないことがわかってきたし、これももはやどうなのかと思う。
 聴力を失えば自分の声が聞こえなくなるのでイケるのではないかとも思ったり。
 視力を失えば何かを伝える手段は口しかなくなるのでイケるのではないかと思ったり。
 (伏字の部分は全て当然ですが、知られてしまうとよくないので伏せているわけです。
  メールかSkypeでなら教えられるかもしれない)

・正気を失う
 正気を失えば喋ってしまえたりもするかもしれないが、どうしても正気を失わないし、1度話せたからといってその後etc.
 大病を患えば正気を失うかもしれない。

・知人が大病を患う
 絶対に話さないまま終わりにしたくないわけです。
 もう今しかないような状況になって良い感じの場が作られれば話してしまえる。
 でも1度話せたからといってその後etc.そのことがわかってきたので現状打破の厳しさもわかってきた。
 厳しい。。

・拉致被害者のように拉致される
 おそらく生活する上での自由度が低く、厳しくされる…現状打破する上で最高の形かもしれない。
 そう前々から思っていた。
 なので誘拐されそうになっても拒否りたくならない。
 自由度が高いと自分の個性が見えてしまうので、やりくりしにくい。
 こういうことを装った芝居をしてもらうというのもあり。
 芝居なんて壮大なことをしようとする人はいないし、バレないようにすることは難しいのであれ。

・独房で監禁される
 そんなことがあれば、いきなり知人の元から離れられるのでいけるのではないかと思ったり。

・ネットで知り合った人の家と、自分の家とを行き来できるようになる
 上記の通り。
 人前で本来の状態でいる時間を作れる…だがハードルが高め。

・無能になる
 認知症になって(ボケて)無能に(本当の障害者のように)なったとしたら、
 自発的に何かしたりしてしまう(よって色々なことをやれるようになる)可能性がある。
 そうなると今の人格は失われ、自分が自分ではなくなるかもしれない。
 色々な意味で悲しくもある。
 そんなでは意味がないかもしれない。
 「戻らないから無能だ」的なことを言われたりしたが、逆です。
 無能だったら戻っています。
 「記憶にないほど昔から症状があるなら最初からと同じ」みたいなことを言われたこともあるが、
 記憶にないというのは明らかに間違いな上、そんな昔ではない。
 記憶力がないほど無能ならこうなっていません。
 思考が働いてしまうからこそ、元に戻れなくなり、環境の変化に応じて良くも悪くも変わりながらより重度化した感じ。
 本来ではない時は頭が働いていない?的なことを言われたこともありますが、全くもってそんなこともありません。
 頭が働いていなかったら、逆に誤って普通にしてしまいます。
 関係ないことを考えていて前が見えていないとうっかり普通に動いてしまいそうになる。やってしまった例もある。
 自分がこうなっているのは頭が悪いからではない。
 頭が悪くなったら(ボケたら)逆に普通になるわけですから。
 間違えないでほしい。

・大人になる
 上記の通り。
 大人になれば焦って障害者をやってられなくなり、やれなくなる…
 容姿が変化し、人に見られるのも平気になる…
 と思いきや、大人の領域は異次元ではなく、そうはなりませんでした。

・地元で大災害or戦災が起こる
 で知人が全滅すれば(自分は生き残る)確実に現状打破できる。
 家族だけでも全滅すればなんとかなるかもしれない。親がいなくなれば割とこっちのもの。
 だがそうなってほしいとも思わない。(それは嘘で、本当は皆死んでほしい ではありません)
 親は先に逝くなんて言いますが、その逝く時は子供もたいてい還暦前後のほぼ終わった人。
 “ずっと生きてる、いなくなることはない”そう思ってもいい。
 もし本当にこういうようなシチュエーションがあったりで、親がいなくなったとしたらその場合、親の後継者は絶対に入りません。
 常に気にされ、何かしようとしてくるのは親だけ。
 その存在がなくなれば、どうあれかなり違う。
 親さえいなくなれば多少姿を消しても気にされたり、騒がれたりしない。
 その時は、一時的に親代わりになって処理しようとする人達(一部の知人)に捕まらないようにすることが鍵。
 何とかできる自信がある。
 本当に親代わりになるような人はまあいないでしょう。だから(だめなのではなくて)良いわけです。
 保護されることはむしろ危険。
 誰もいなければもし何かあっても自分で行動して何とかできますが、知人の監視下にいたら行動できないわけです。
 動物のような存在でもないですから色々隠し、耐えるわけです。
 実際に保護したら、知人はそのことを分かってくるものかとは思う。
 保護して生かそうとする人に捕まったら逆に死ぬ。
 それでも形式上保護されないといけないとされる。
 自分を捕まえようとしてくる。
 家族から離れれば必ず誰の世話にもならず有意義に生きれるというのに、
 国の法律上?保護して監禁した上で無駄に世話させられ、解放させることが現状では不可能という…
 非常に馬鹿げてる。
 自分が親を恐れていることも馬鹿げているような気がしますが、それもそれと同等に馬鹿げてる。
 親に情報がいってしまうことを懸念してできないことが多いですが、いなくなるとそれがなくなる。そこも大きなポイント。
 根本的に根本的に言うと「親に情報がいってしまうこと」それを恐れて何もできない感じ。
 知人に情報がいくと知人から家族に親に情報がいってしまう。だから知人もだめ。
 知人がいなくなると困惑することもありますが、最初だけ。
 その時点で“絶対無理の壁”がなくなりますから、もう自由に動ける。
 生活のことは生活しながら覚える。
 知人0の状態から(人生)やり直すとしたら、もう過去の二の舞にはなりません。
 「家族がいなくなるといい」とは言っていますが、「環境を変えるといい」とはここまで一言も言っていません。
 なぜそれをそれに置き換えてしまう人がいるのか?よく分からない。
 両者は全く違います。
 家族との繋がりを持ったままなら環境を変えたとしても何にもならないですし、
 家族との繋がりをなくせば環境を変える必要はありません。
 家族との繋がりを持ったままの環境の変化なら、これまですでに数え切れないほど経験済みです。

・科学が発達する
 容姿を変える、別の人に一時的に乗り移ってもらう、別の人に乗り移る。そんなことができたら…
 自分の意志で動かすことができ、自分の変わりに動いてくれるロボットがあったり、
 無免許で運転できる運転手の姿があまり見えない乗り物があったりしたら…
 長期間何も取り込まず(食べず)に生きれる生物になることができれば…法律や金の概念のない時代へ行けたら…
 現状打破可能。
 科学ではなくても、そんなことができる「超能力者」が本当にいたとしたら、その力によりかなりの高確率で現状打破可能。
 ネットで会話ができたりする時代になってくれてありがたい。でもまだです。
 もっと進んだ時代になってくれると尚更ありがたい。
 自分に関することの記憶を知人から消すことができれば、いなくなったのと同じことになる。

全部に言えることだが、根の浅いうちならそれで改善できたかもしれなかったが、
今となってはこれらを実践してもたいして進展ない可能性が高いわけだ。
現実として、本当にそうした(そうなった)時のことを考えて(シュミレーションして)みたら、
もはや進展することはないだろう。という結論に至ったことがほとんど。(全部ではない)
「今」となっては、「この状況」となっては、もう本当に厳しい。
でも↑こうすれば変われるのではないか?と多少でも思っているから、停滞状態になっているわけでもある。
色々試してみてあまり進展(変化)がなくても、その進展がない(ほとんど無意味だ)ということがわかって道が見えなくなれば、
それにより動揺して気が変わってきて違うことを模索するようになり、新たな現状打破への道が見えてくるような可能性がある。
いままで実際にされてきた色々な訓練のようなものは、この中のどれにも該当しない。
本当に意味のないようなこと。
元に戻る方法はない。祈る以外にない。←そんなことはありません。これだけあるわけです。
自分でこれならできると思うことこそができることだと思いますが、違いますか?
信頼、理解を得られ尚且つ、
自身のこれらの考えが何か1つでもいいと思ってもらえ了承を得られないと協力をしてもらえないので、そこもまた難しいところ。
△×の実行は厳しいものがある。
今現在の時点で「現実的に可能なもの」ではない(夢物語のような)案は
シチュエーション全般と「テレパシーを通して会話する」くらいです。
くれぐれもそれが馬鹿らしいからといって、ほか29案含む全部を貶したりはしないでほしい。
しかし実行に移して良いかどうか悩んでしまうものばかり。
「恐れずに何でもやってみることが必要」だということはわかってはいますが。。
(自分の意思で気安く実行できるもの〈○の多く〉は実行済み)
「どこか遠くで1人で暮らす」の「2度と戻らない」しか方法がないとは書いておりません。
一応これらの現状打破方法全てが現状打破方法です。
もしほぼ無意味だとしても可能なものは一通り試してみたい。
何の過程も踏まずに今すぐに完全に現状打破できたりはしなかったとしても多少は意味がある。
具体的にどうするかを示すことが重要。
現状打破は諦めるべき?
無理と認定してそれを諦める意味もない。
諦める必要もない。

↑は今の現状打破方

- 小1前半の頃の現状打破方 -
ただ普通に話し出せばいい。それだけだった。
給食を食べればおそらくいけた。
そうはいかない状況になると、克服が厳しくなる。

- 小5の冬以前までの頃の現状打破方 -
当時はあまり深くは考えなかった。
克服できる時が来るとしたら、また「給食を食べて、突然…」みたいなふうに思っていた。
よくよく思ってみると、それでは困惑する。
現実的に考えみると、勉強の遅れを取り戻すこと、皆がこれまでやったことを全部やれるようになることを予めする必要があった。
実際にやってみてわかったが、それはそこまで難しいことではなかったので、現実的にできたこと。
まだ小5なら早々と取り返せた。
取り返したら、その後は実際の授業中に、皆と同じように動いて授業を受ける感覚を思い描いていく。
その暁には、安心感を得られ、学期の始めなど何か途中参加になることがない場面を狙って克服できた…可能性があった。
もし厳しかった場合、そこで転校すれば良かった。
しかし、当時の時点でも転校の意思を示すことはまずできなかった。
しかもある意味転校など絶対にしたくなかった。
あの環境が好きだったし、それに皆に手間をかけさせていたというのに、ここで逃げてはいけない。
まず「自分の心」が自分を許せない。
転校しないといけない、したい、でもしたくない…そういう微妙な心境に。
転校するくらいなら…と、目覚ましい勇気が湧き上がり、それを考えることでいける…ということも考えられた。
…惜しくも当時はここまで頭が働かなかった。

- 中学校前後の頃の現状打破方 -
この頃になると「家族と繋がりがある」限りどこへ行ってもだめに。。
繋がりをなくせば良いわけです。
一人立ちする(家族との繋がりをなくす)ことが許される年齢になるまで待つ感じになったか?
実際にはその年齢になっても↑で説明したようになかなか厳しいものだった。
ずっと「今以上の年齢にはならない」としていたので(時間は止められないためそんなことできるはずないが)、
先のことは考えたくなく、あえてあまり考えなかった。。
即ちこういうこともあまり考えなかった。

自分が自分の親なら、自分?を現状打破させることができます。
今の状態からでも間違いなくできる。そういう自信があります。
なので同様な子供がいたとしても、何も怖くありません。
どうすれば良いかの答えは↑
口先だけではなくて実践する。
知人がいなければ、なんでもないわけです。
知人の前で何かできるようにするのは理論上困難。良くなる傾向になったことはありません。
だからできる場面でできることをするようにする。それで多少何とかできる。
縁を切るのは最終手段か。そうせずとも思いきったことをしてまでしと最善を尽くせば結構な確率で行ける。
失敗しなければ何も学ばない。
つまり失敗しないようにしていたら学ばない、気付かない、分からない。
かといってあえて失敗する?のも難。
失敗を恐れないことが大事。
失敗しないようならそれでいい。

重度障害者の歩む人生は、通常とは全く違う人生。
動物の人生?が人間と違うのと同じ。
自分は重度障害者の特殊な人生を「体験」してしまった。
通常の人生とそちらの人生、どちらが良いと思いますか?
…こんな人間は他にいない。
自分のような経験をしている人は0ですから、共感してもらえる人も0。
説得力を持って何か言える人もいない。自信を持ってアドバイスできるような人も普通いない。
重度障害者は、普通の人のいる舞台とはそもそも別の舞台上にいる感じで、普通の人に通用することが通用しない。
生きる世界が違う。
ほんの少しでも変化を起こしてしまったりすると、保護者を始めとした自分の関係者達に報告が行き渡る。
恐れ入る。何もできない。
本当に囚われの身になっている感じ。
ほとんど自分を自分のものにできない。
それが重度障害者。
一生涯人の操り人形。不公平。
本当に重度障害者で何もできないなら(重度障害者本人にとっては)良いシステムなのだが。
本当の重度知的障害者は、馬鹿げたことも馬鹿げたことだとは分からない、悪いことも悪いことだとは分からない。
何でも良いと思えて幸せ。
自分の身の回りには(本当に)自分より能力が下の人しかいないので(普通の意味で。独自的な意味でではありません)、
自分から見ると馬鹿げたことだらけ。
なのに何も伝えられず不満だらけ。
だからある意味「不幸」。
分かりますか?
現状維持していたらいつまでもそのまま。打破できたらより幸福になる。
知人からすると思いもよらないようなことだろう。
信じられず、信じないだろう。
逐一、もっと良くできるのに、なぜそうなのか?みたいに思う。
親が○供に操作された上で何も言えないような、師○が弟子に操作された上で何も言えないような、そういう感じ。
身体障害者で体が動かない等ならそういう不幸は多少はしかたないかと思えるかもしれませんが、
自分は本来、凄く動けますし疲れもしない衰えた要素も全くないので、しかたないとも思えず不幸。
重度知的障害者は自分でやるよりも人にやってもらった方が良くできる。
人にやってもらうことでより良いようになるのだから、良い。幸福。
「できないからやってもらえる→幸福」「できるのにやられる(「下手に」やられる)→不幸」
重度知的障害者は前者。自分は後者。

ちなみにこのこと(事情)は公にしていません。
このページ以外の場所でこのことが分かってしまうようなことは書きません。
なのである場面で自分は何もできず、見ていただけ聞いていただけでも具体的にそうは書きません。
そういう場合は「○○した」ではなくて「○○していた」などと微妙に抽象的に書いていたりします。
自分が←とはどこにも書いていません。
「誰が」かは分からないようにしたりしている形。
そんなで嘘にもなっていません。
作り話をしまくり人を騙し続け人をあざ笑う地獄に落ちるべし極悪人ではありません。
複数の人生を持つ人間?でもありません。

今言えることは以上。
身内や本人でないとわかりにくいことだと思います。
誰が読んでもそれなりにわかるよう、不明確な点がないよう、嘘だと思われないよう、
解釈し間違いされること、質問を必要とすることがないよう、徹底して説明したつもり。
必ず“説明不足だった”と思うとこになるが今の時点ではそう。
少しずつ書き足していっていたら、文章の構成に統一感がなくなってしまった。
なぜこうなったのか?なぜこのままなのか?というと、こういうわけです。
念に念を押して言いますがこういう理屈です。
緊張によるものでもなければ正気を失うわけでもなく、自信がないわけでもありません。
1つ間違われると全くもって的外れな思考をされてしまう。
「緊張しない」というとそれは間違いになる。
「緊張するからこうなるわけではない」と表現するのが正しい。
ここで言ったことは「この通りの意味」です。
意味を変えて自己流に解釈しないでほしい。
それをやられていたら間違っていることを言われ続けるだけになります。
この通りの意味なので同じことを他者が言いさらに推すという意味深な行動をする意味もありません。
逆のことを言うわけもありません。真実です。
そうしたということは、それがいいと思い、そうすることにしたからそうしたわけです。あまりにも当然。
↓何か思ったこと、意見などありましたらどうぞ。
どう捉えられるか?どう思われるか?どういう意味だと思われるか?どう考えられるか?未知数なわけですが、
その未知数である皆さんの考えを教えてもらえると、考えられることの幅が広がり、新たに気付くことがあるかもしれない。
でもこの通り、考えられることを考えきった上で現状を形作っているので、
他人の意見を聞いて“なるほど”と思うようなことがほとんどない(即ち人の言葉が役立つことがない)のが現状。
(子供の頃は当然ありましたが〈人の言葉が役立つこと〉、世の中のことをある程度知り尽くし考え尽くしてしまったために、
 そういうことがほとんどなくなってしまった〈何も考えず、役立たないものと思い込むということはありません。
 役立たなかったという形にこじつけているでもありません。嘘でもありません。
 言われたことに対して聞く耳持たず聞にせず、何を言われたかわからないがために、
 何を言われても「知らなかった、なるほど」とはならず、何でも知っているつもりでい続けているでもありません。
 何ですかそれは?いい加減にしてほしい〉)
逆にこちらの意見に対して相手が肯定的な反応を示すことも一切なし。
非難するような意見(ここでもそれしかない)は相手の大きな勘違いによるもの。
否定される身からすると、否定は自分の認識が間違っているかもしれないことを眼中に入れた上でするべきだと思う。
凄く失礼なことになりかねない。
(非難されることしかないため、コメントが来た場合
 「不満を持たれたor何か悪く思われたor馬鹿と見られたor怒りや憎しみを抱かれた」ものと認識します。内容を見なくてもわかる)
でもそういう意見でもあると、より認識しやすい文章に直すことができるので収穫がないわけではない。
否定合戦になるだけで、得られるものが少ない。
絡んでくるのは一部の同じ人のように思えるし、リアルの場合は全く違う。
ほぼ全ての人間がそういう反応なのかどうかは今のところまだ定かでない。
ほとんどのことを間違われ、間違われっぱなし。
「正しいはずのことを無意識に脳内変換して間違いにしてる」どう考えてもそんなではありません。単純なことです。
すでに知ってること考えたとのあることしか言われないとナメられているような気しかしない。
それもこれもすでに考えた上でこうしているわけですから、受け入れることにはならない。
もし矛盾がある…と思うことがまだあったとしたら、それはこちらの説明が足りていないからです。
「個人的に矛盾してる思うこと=100%嘘」とするのは間違っています。
まず信じてもらえないのではどうしようもない。
自分がそうだと他人もそうだと思うもの。
それで自分の中で定義ができる。
その定義は他人には当てはまらないことがある。
それで矛盾が生じて対立し憎む。
自分にとっては絶対なことも、他人にとっては絶対ではない場合があります。
自分が「それとこれとは絶対結び付く」と思っても他人の理論的にはとても結び付くようなことではなかったりします。
思いもよらないことだったりします。
決めつける前によく考えてください。厄介になる。
自分がそうだからといって他人もそうとは限らない。
同じ人と言えよ、脳の作りが全く違うこともあります。
何に価値を感じるか?何をしたいか?どう考えるか?どう見るか?どういう願望があるか?
どう思いたいか?何が理解できるか?何が理解できないか?何が苦か?人それぞれ。
何をどうするのが良いかも人によって違う。
了承を得ずに相手のことを他人が決めるのはいけない。
人は自分の思い通りには動かないもの。思い通りに動かすことを望んでいては幸福になれない。
「自分は嫌な人達とは違って良い行いをしてる」ほぼ誰しもそう思っているが、それは違う。
どんな人でも、誰かから見ると違う。
分かってないのに分かっているフリなどもしていません。事実です。
していると言ったらそれこそ嘘を言ったことになります。
自分の考えたことがない何か、なるほどと思えるような何かを教えてくれていたら最高です。
それがないからナメられているような気がするばかりなわけです。
分かると思い込んでいるだけではありません。
分からなければ“分からない”となるし、分かれば“分かる”となります。
当然です。意味が分かりません。
同様に、できないのに“できる”と思い込んでもいません。
“全て意識とは違い、無意識に別のことを感じている、
無意識に逆のことを思っている”そんなこともありません。そんなことがありますか??
このページの文章に関しては頻繁にあちこちに何か書き足していっている感じなので支離滅裂になってるかもしれませんが、
「どんな事を言ったり書いたりしても支離滅裂」ということもおそらくありません。
1つ1つの行が同じ時に書いたものではなかったりするので、一貫性がなくなってもしかたないでしょう。
「悲劇の人物」を演じて、ネットの中の有名人になるべく作り上げた「嘘」(本当は凡人)でもありません。
自分が馬鹿で嘘つきだから世間で生きていくことができないということを(障害者の状態ではなく、この本来の状態を見て)察し、
家族が「障害者」にしてあえて自立できないようにした。
これも(100%以上)ありえません。
(これでも分からないかもしれませんが)なんとか理解してもらえるように説明しています。
理解を得られるまで書き足し続けます。
「理解を得られない=説明不足=書き足すことがある」ですから。
(「適当に少し」書き足し続け、書き足し続けていることにしているではありません。そんなに貶したいですか?)
理解してもらえたら長文にはならない。
伝えることというのは難しいこと。
言葉が分からないから長文だ?無知だ?
当初は短文でした。
誤解ばかりで伝わらないので補足していき長文化していった経緯があります。
「理解してもらえないことによって」長文になっています。
短く書く文章力がなくて(このようにしか書けなくて)こうなったわけではありません。
言葉が分からなかったら書けることも少しですから逆に短文で簡潔になっているでしょう。
意味がわかりません。
にしてもこのように色々なことを驚異的に長々と一まとめにして書く人はほかに存在しない。だから常識知らずの馬鹿だ?
“存在しない”“常識外れ”だということは最初から分かっています。
だがそればかりは、変えるつもりはありません。
リアルでは誰にも何も言えないわけです。誤解されたこと、思ったことをここにでも書いていかないと気が済みません。
これが自分のやり方。独自のやり方。
常識知らずではなくても、常識外れなことをあえてすることがあります。
疑わしい?信じられない?理解しがたい?この話が本当だという証拠がない?
証拠がないので事実かどうか誰も分からず、どうもならない?
「本当」と言っても分かってもらえない世界。言葉は何のために存在するのか?
…もし作り話ならこんなにも熱心に(必死に)書かないでしょう。
「小説を熱心に書くのと同じ。熱心に書いていてるからといって真実とは思えない?」
ともかく嘘の可能性は視野に入れないでください。
自分はこのような、ほかに例を見ない常識外の人間。
常識外のことなど誰も信じないもの。
人は普通しか受けれないもの。
常識外、想定外、規格外、例外…そういものは基本、「ない」ものと見なされる。
だからこの話は本当に誰しもが「嘘」としか思わないのだろうか?
なら、哀れだ。
自分のことをよく理解している人はいません。
1人すら、いません。
もしもここで人生が終わったとしたら、そのことが屈辱になる。
全く同じ1つの言葉でも人によって真逆の意味に捉え合ったりする。
そうしていると見たりそうしていないものと見たり、
信じているものと見られることがあれば信じていないものと見られることもあったり…
人は「こうであるべき」という持論に反することに敏感で、そこに意識を強く向けることで悪い方向に持っていってしまうのか?
本当に人間は難しい。
同じ言葉で言い表す「感覚」でも何をもってその感覚を感じているかが違ったりもする。
人間と絡むと、思っていた展開とは全く違う展開になる。
聞きたいこと:「どう思うか?」「どうするのが良いと思うか?」
「↑の現状打破方法についてそれぞれどう思うか?」「他にアイディアはあるか?」「貴方が家族だったらどうするか?
(自分の本来のことや想い〈このページに書いてあることなど〉をある程度知っているという前提で)」etc.
あとは「今の世界でなるべく人と会わず尚且つ何かした形跡を残さずに生き続ける良い方法」それを教えてほしい。
“家族に”何もしていないと思わせられる形ならとりあえず良し。
ずっとそういう状態で生き続けるようなことはありませんが、そうやって生きる過程は踏んでおきたい。
個人的にもそうだし、何より家族を納得させるためにはそうして生きる必要がある。(それは最初の数日間だけかもしれない)
生活する上での具体的なこと(電気、ガス、水、契約、サービス、銀行などに関して)、それが唯一あまり分からない。
(だから常識知らずの知的障害者だ?それなら自立したことがない人は皆そうなってしまいます。
 〈学生以下なんかは皆そう〉おかしくないですか?
 それらの存在を全く知らなかったということはありません。〈普通ならそんなはずありません〉
 詳しいことや家の経済状況を知らないから、やたらと使っているということはありません。
 知らないからこそ、常に気になっていました。「普通気にしないような年齢」のころからそうでした)
なので家族に秘密で生きる?確実な方法をなかなか見出せない。
(それを見出すために)自らお金を管理している大人に詳しいことを聞きたい。
通帳というものは厄介。履歴が載ってしまう。
ホームレスとして生きるのも森で生きるのも海外で生きるのもおそらく容易くない。
簡単に言うと、「お金を使ったことが家族にわからなければいい」それだけ。
「絶対わからないように」とまでは言わない。わかり難ければ良い。
でもその方法がなかなか出てこない。
裕福な生活は望んでいません。
どんな状況下だろうととりあえず生きれれば良い。
収入は1日300円(1月9000円)で構わない。何とかすればそれで生きれますから。
“100万円”あれば9年間生き延びることができます。
9年分のライフと見てとれる。(1万円以上の初期費用が出る可能性あり)
(調査しておいてあれだが、今頭にあるのは自分の家の敷地内の気付かれない場所や
 テント・寝袋などに住み着き、コンビニなどに通って生きる形)
〈↑部屋を借りる、ネットをやる、とは書いていません。よく見てください。「とりあえず生きれれば良い」とも書いています。
 部屋を借りる、ネットをやるのに1月9000円生活とかおかしなことを言ってる=重度知的障害者ではありません。
 外食をすることにはなりません。よく考えてください。それはしません。
 ↓まで読んでください。誤解しないでください〉
十分すぎるほどのライフ。
いつか尽きるものはだめ…かと思いきや、よくよく考えてみるとそうとも言えなかった。
現金を“貯めておく”のもいい。
3年生き延びられるなら十分安心なので100万ある場合、日に1000円近く使っても一応平気。
だが口座がないと現状では全く稼ぐことができない。。(稼がなければ貯めれない)
口座さえあれば何とかなる。
逃亡してもほぼ確実に(安心して)生き延びれるようになる。
「とりあえず(念のため)当面生きていられる形」を作って、
そこから自分で少しずつまともな暮らしができるようにして社会に足を踏み入れていこうと考えています。誤解しないでください。
「もしも」のことは一々考えません。ずっとその生活のままということはないですし、それを考えていたらそもそも何もできない。
「現状打破」はおそらく自分の人生至上最高に大きなこと。
それのためなら命をかけてもいいくらいの、そういう次元。
多少の期間その生活というのは、命がけでもない。
軽いもの。
命をかけてもいいくらいの次元。
怖い、心配などと言って止め続けていたらどうしようもない。
全ての生物は常にいつ死ぬか分からないもの。
絶対安全な状態などない。
絶対安全を求めてもきりがない。
調査しましたが↓果たしてこれで合っているのか?

電気契約はない。ある 使うと使った家に請求書が届く。 請求金額を払わないと電気会社の人が(使った家に)来て差し押さえられるor電気が使えなくなる可能性がある。 お金はATMで支払う。 ATMへ行けない場合、電気を使ってはいけない。人に会うことになるかもしれない。 誰かが支払ってくれている場合、多少なら使ってもわからない。
水道契約はない。ある 使うと使った家に請求書が届く。 請求金額を払わないと水道会社の人が(使った家に)来るor水が出なくなる可能性がある。 お金はATMで支払う。 ATMへ行けない場合、水を出してはいけない。人に会うことになるかもしれない。 誰かが支払ってくれている場合、多少なら使ってもわからない。 ガスはなくともさほど不自由しない。
契約家は購入した際に様々な契約がされる。 契約を守らないと人が来たりする。 購入後も、ATMへ行けないor契約内容を知らない場合、その家で暮らすことはできない。 人は生きる際に様々な契約がされる。 契約を守らないと人が来たりする。 ATMへ行けないor契約内容を知らない場合、生きることはできない。 保証人というものも指定する必要がある。 これが厄介かもしれない。保証代理人というものを利用すれば知人を指定しなくても良い。 形式上、家にならないもの(車、倉庫、テントなど)を家にすれば、手続きも契約も料金も不要。(テント生活← 車生活←) 発電機が役立つかもしれない。
保険 国により強制的に加入させられるようなものではない。 加入するかどうかは個人の自由。 加入しなくても人間として生きられる。 (加入した場合、定期的にお金を払い続けることになってしまう)
お金無くなると死ぬことになる。 ゲームでいうライフゲージのようなもの。 銀行へ行けば借金できる。 借金を返済しないと人が来る。
飲まず食わずだと死ぬ。(生物は面倒) 悪事を働くもの。
口座銀行で人と接することをすれば作れる。 ネットで作ることもできるがその際、家に人が来る。 (まず口座というものは作っておきたい。それを作っとおくことが1つの鍵になる。  お金を稼いだり引き出したりしてそのことを示せば、知人により「一人で生きれそうだ」と思ってもらえる。  そうするためにはまず自分の(管理下にある)口座がないと何も始められない)
通帳口座からお金を引き出したり預けたりするとそのことが記される。 (記されないようにする方法をどうにかして見出したい。それができればしばらくは口座を作らなくても良くなる)
終いに原点回帰して各問いに一言で(=簡潔に)答える↓ 常識 知っている 知人の前で本来の状態を見せること できない 他人の前で本来の状態を見せること できる 家族に要求していること なし(強いて言うと何もしてこないでほしい〈見捨ててほしい〉) 他人に要求していること あり(反応〈できれば「聞きたいこと」の返答〉) 自信 ある。こう見た感じ誰しも自信があることをおかしく思うようようですが、、あらゆることにおいて非常に自信にがある。 教育 通常通り受けている(ものと同じ) 嘘 言っていない 今するべき最も大事なこと 口座を持つこと 知人さえいなくなれば問題なしになる。 ある程度現金さえがあれば逃亡して現状打破できる。(ただし知人〈特に親〉がいる限りとんでもない騒ぎが起こってしまう) ↓ が一押し。もし↓の連絡方法が全部引くとしたら、どういう連絡方法なら良いか教えてほしい。 引く理由も教えて欲しい。こだわりか何かか? それとも侮辱しているところを他人に見られるのが怖い?自分の嫌がってくれるだろうから避ける?

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