高校生の娘の友人と恋愛関係になる寡夫の漫画が話題になっていたので少し読んでみた。こうしたありがちな大人向けラッキースケベシチュエーションに辟易とする気持ちはよくわかる。ここには使用人ホラーとよく似た差別の構造がある。
若くてかわいくエロい女の子やお姉さんやおばさまがなぜか迫ってくる話はエロ漫画に履いて捨てるほどあり、とくに目新しさはない。また問題の漫画はエロ漫画と違って迫られて浮かれていたおっさんが徐々に生活を脅かされていくサスペンス仕立てになっており、あまりラッキーな展開にはならなさそう。
しかしおっさんが追い詰められたらおっさんは被害者で、おっさんを追い込む女子高生は加害者なのだろうか。
使用人が主人を追い詰めるタイプの物語がある。
天使のように清らかで美しく聡明な使用人に主人とその家族はあつい信頼を寄せる。やがて一家のすべてをまかされた使用人は天才的な知能と邪悪な本性を徐々に明らかにする。ホラーなら使用人はこの世のものならざる者であることが明らかになる。使用人の笑顔の裏には主人とその家族を喰い尽くすための恐ろしい牙が隠されているのだ。
この種の物語は一見「天使だと思ったら悪魔だった」という意外性によって盛り上がっているように見える。
しかしこのような物語が持て囃されるのは強者が持つ弱者への不信感、言い換えると狡猾な手口で既得権益に挑戦してくる弱者への警戒心、飼い犬に手を噛まれることへの恐れによるのでないだろうか。
観客は主人に感情移入することもあるが、使用人によって主人とその家族の無邪気な傲慢さが崩壊していく様に快感を覚えることもある。上辺に騙されて家族でもない使用人をあそこまで信用なんて馬鹿だ、と。やっぱり使用人は使用人なのだ。いくらいい顔をされても油断してはならない。
さて、この使用人役を少女に置き換えるだけで古典的なホラーとサスペンスの筋書きになる。つまり天使のように美しく清らかで無邪気な少女が主人公とその家族の信頼をえた後、主人公を(または彼らを)恐怖のどん底に突き落とす物語だ。
古いところでは「ガラスの仮面」の劇中劇にもなった「カーミラ」などがいい例である。
旅の途中で倒れた貴族の少女をあずかった主人公一家は美しく淑やかな少女に熱狂するが、やがて不可解な事件に巻き込まれ、不気味な線と点が繋がっていく。
ここ数年の映画では「記憶探偵と鍵のかかった少女」「鑑定士と顔のない依頼人」などもこのジャンルだった。
SF界にはボーン・セクシー・イェスタデイと呼ばれるキャラクターがある。身体と知性は成熟した美しく若い女性の姿でありながら精神的には未熟であどけない子供のようなキャラクターのことだ。映画「エクスマキナ」は典型的なBSYによるサイコホラーといってもいいかもしれない。*1
成熟した、または大人になりつつある身体を持ち、知性は高いが知識は乏しく、世間知らずで精神的に未熟な女性が男性キャラクターによって導かれ、恋に落ちる。これが男性にとっていかに都合のいいものかは言うまでもない。このような物語は設定からしてラッキースケベを誘発する。
使用人ホラーに登場する主人にとって都合のいい使用人たちと、男性にとって都合のいいファムファタルたる乙女たちは同類である。天使にされるのも悪魔にされるのも、結局強者からみて対等な人間ではないという点で同じことだ。
これといった魅力も能力もない雇用者がなぜか労働者に持て囃され、ろくに給料も払わずやり甲斐搾取で成功する物語が経営者向けの雑誌で美談として描かれていたらどうだろう。
労働基準法なんて絵空事だと嘯く経営者にはウケるかもしれないが、まともな経営者と労働者からは当然批判される。
更に批判に対して「これは経営者向けの物語だ、労働者は労働者向けの物語を読め」などと答えれば炎上やむなしである。
「いや、あれはその後経営者が労働者に陥れられるサイコホラーなんだ」と聞かされたところで「なるほど、それなら経営者に都合のいい物語ではありませんね」と納得する人ばかりではない。
最終回で悪い労働者が成敗されることがハッピーエンドとして描かれていれば尚更だろう。
現実世界には雇用者に搾取され、人生を踏みにじられる労働者が数え切れないほどいる。同様に現実世界には成人から性的、精神的、肉体的に搾取される数え切れない子供たちがいる。
そうした子供たち、いや、かつて子供としてその地獄をみてきた大人たちにとって、成人にとってラッキー搾取設定の物語が腸煮えくり返るような苦々しいものであることは何も不思議ではない。
ナボコフの「ロリータ」が時代を超えて読み継がれる名作となったのは禁じられたロマンティックな恋物語だからではなく、非力な後ろ盾のない子供としてのドロレスと語り手であるハンバートハンバートの身勝手さ、悪質さがしっかりと描かれた物語だから、つまり現実の困難を反映した物語だからだ。
フィクションの世界に現実世界のモチーフを持ち込むなら、差別は差別として、悪は悪として扱うべきだ。差別や悪を美化する物語、搾取を合理化する物語、ラッキー搾取状態を楽しむ物語は意図していてもいなくても差別煽動のためのプロパガンダとして機能することを作り手は自覚する必要がある。
では何が差別で何が悪なのか。これを議論することには意味がある。物語への批判を不当だ、弾圧だと一蹴することは文化の成熟には繋がらない。
ともあれ天使のような悪魔として描かれる女子高生はなんら目新しさのない古典的なミソジニーホラーであることは議論の余地がない。
真に恐ろしく不気味なのは子供に幻想を抱きラッキー搾取に憧れる幼稚で卑劣な大人である。こうした古典的な設定で問題の核心までを描ききった「アメリカンビューティー」を撮ったスピルバーグはやはり偉大だと思うわ。