広島・長崎だけじゃなかった。フランスが核兵器を戦場で使用したもう一つの戦争・ジェルボアーズ・ブルー

1960年、フランスはアルジェリア戦争において「核実験」を行った。それは、自国植民地における核実験というタテマエをとったものの、アルジェリアの独立戦争(アルジェリアとフランス本土)が始まって6年が経過していた戦場で行われた作戦だった。

更新日: 2019年02月05日

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英仏主導での中東紛争をよしとしなかったアメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領が干渉、ソ連のブルガーニン首相とも手を組み、停戦と英仏イスラエル軍の即時全面撤退を通告した。

この戦争で、フランスは膨大な支出をしたにも関わらず、利益を得ることがなかった。このことが、フランス国内にアメリカの影響力からの脱却を目指すドゴール主義を引き起こすことになりました。

シャルル・ド・ゴールによる第五共和制への移行

このような混迷の中でフランスは引退していた英雄に事態の収拾を求め、ド・ゴールが大統領に就任し、憲法を改正して第五共和政が成立した。

アルジェリア戦争が泥沼化、中東戦争への介入に失敗、本土へのクーデター未遂事件の発生というドロドロした状況の中で第二次世界大戦の英雄シャルル・ド・ゴールが大統領に選ばれたのです。しかしこれは、恐ろしい「核実験」への前進でもありました。

シャルル・ド・ゴールの対アフリカ政策は、フランスの強い影響力を残しながら、言うことの聞く政権を樹立し、植民地を形式上独立させようというものでした。これを、アルジェリアにも適用しようという考え方を採用したのです。

彼は、インドシナ・ベトナムでの経験から、植民地の民族自決を無視することはできないことを理解していました。そのため、フランスの権益を確保しながら、アフリカ諸国に独自の政権を持たせるという方向から、力を行使しようと考えたのです。

NATOからのフランス軍引き揚げ、米核ミサイルのフランス配備拒否、イギリスのヨーロッパ経済共同体(EEC)加盟反対、アメリカのベトナム介入反対など、それまでの対米追従外交を転換した。

ド・ゴールをはじめ、フランスの保守層は中東戦争でアメリカが邪魔をしたことに強く反発していました。ソ連への接近、中国承認など、社会主義圏との共存路線をとりはじめたのです。

シャルル・ド・ゴール:
『核兵器の使用が米ソ両国の破局をもたらす以上、ヨーロッパの防衛にアメリカが核を用いることはあり得ない。したがって、アメリカの核の傘でヨーロッパの防衛を確保するのは不可能』

シャルル・ド・ゴールは、自前の核兵器を強く主張しました。

ドゴールへの反発

軍は軍事拠点としてのアルジェリアの重要性を叫び、アルジェリア在住の100万人のコロンは「フランスのアルジェリア」をスローガンとし、独立に反対した

アルジェリアのフランス系住民は、ド・ゴールの政策に猛反発しました。現地の軍が反対運動を公然と行う事態に発展してしまいます。

アルジェリアの混乱が激化

ヨーロッパ系住民や軍部の極右派は秘密軍事組織(OAS)を結成してフランス当局やムスリムに対するテロを繰り広げた

ヨーロッパ系住民(コロン)は、植民地で圧倒的な特権階級にありました。アルジェリアの独立はその既得権益を失うことを意味したため、到底受け入れられなかったのです。彼らは、武力に訴えてでも自らの利益を守ろうとし始めました。

フランスは、当時アメリカの核機密情報に通じていたイスラエルと協力することで、情報面での遅れを取り戻そうとした。

この時期、米国はマクマホン法を成立させ、国外への核技術持ち出しを制限していました。

核兵器の独占をもくろんだ米国は、大戦中に協力して開発していたイギリスやフランスにさえアメリカは核技術輸出を認めなかったのです。このためイギリスは自力で原爆開発を行い、フランスも独自開発する必要がありました。

将軍達の反乱が発生、アルジェリア駐留軍から空挺部隊が決起し、OASも参加して1958年5月の危機と同じく内戦の寸前の事態にまで陥った

アルジェリアのヨーロッパ系住民と、フランス政府との戦いに発展します。アルジェリア人による独立戦争のはずが、いつの間にかヨーロッパ人同士の争いのほうが目立つようになってきます。

「核実験」

ド・ゴール大統領は強硬な態度で対応、そして「核実験」

このようなドロドロの混乱の中、「核実験」が実施されることになります。それは、政府が本気を出すと、アルジェリアなどなんとでもなるという圧倒的な力による威圧でした。

1960年2月から1961年4月にかけて、フランスはアルジェリアのレガーヌ実験場で4回のジェルボアーズ実験を実施した。

1960年、作戦名ジェルボアーズ・ブルー(青いトビネズミ)が実施されました。ジェルボアーズ・ブルーはTNT換算70キロトンのエネルギーを放出し、これは当時最初の核実験としては最大の出力でした。

アメリカのトリニティ実験(20kt)、ソ連のRDS-1(22kt)、イギリスのハリケーン(25kt)であり、これら各国の最初の原爆実験の合計よりも大きい大規模なものだったのです。

フランス政府は2006年、「あのあたりに人は住んでいなかった」と、砂漠の奥深くに生きる人々を事実上、黙殺しているが、実際は、軍人を含む3万人がサハラで被曝したと見られている。

サハラ砂漠での核実験では、約2万人の被害者が出たとの報告がされています。この被害者は、特に、当該実験に関係した軍人及び文民であるとされている。しかし、砂漠での実験とはいえ、その周辺地域に居住する住民にも被害が出ていました。

被害を受けた住民の数を推計するのは困難ですが、例えば、フランスが当初核実験に使用していたレガーヌ地方(Reggane)周辺には、当該実験の際に4万人が居住しており、実験場から10キロ圏内には500人が居住していました。

また、低い高度で行われた地上核実験は膨大な土砂を巻き上げ周辺諸国を含む広範囲を汚染しました。

第二次大戦後最も紛争解決に「役に立った」「核実験」となった

核実験以降、ALNの軍事行動は激減し、フランス軍の平定作戦は小康状態となり軍内部の粛清とOASとの戦いに注力した。

ドゴールはFLNに「和平交渉」を呼びかけ、1962年3月、レマン湖畔・エヴィアン=レ=バンでエビアン協定を締結しました。しかし、それは和平を交渉するなどというやさしいものではありませんでした。核兵器の圧倒的威力を見せつけ、相手を黙らていたのです。

フランス本国で行われた国民投票では、大多数の国民が戦争の終結を望み、90%以上がアルジェリア独立を支持しました。核兵器の実践はかくして成功したのです。

核兵器による犠牲者を伴う威圧が行われた。

戦後、OASはフランス政府に敵対するテロ組織としてフランス本土でドゴール暗殺とクーデターを試み続けました。しかし失敗し続け衰退していきました。

たしかに、核実験一発で、テロ組織を崩壊させることに成功したのです。

アルジェリアに残ったフランス系住民はわずかにとどまり、フランス側に味方して戦った25万のアルジェリア人(アルキ、harki)に対してはFLNなどによる報復が行われ続けました。多くが殺され多くがフランスへ亡命することとなりました。しかし、もう、フランス系住民の反対運動は大きくなることはありませんでした。民主主義のタテマエは、核兵器の脅威の下に沈黙したのです。

忘却政策

フランス政府は忘却政策を行いアルジェリア戦争に関する報道を規制して過去の汚点として忘れ去ろうとした

しかし、1990年代に入ると記憶の義務運動が起こり、アルジェリア戦争の記録がマスメディアで報道されるようになりました。

拷問やテロなど非人道的な問題が頻繁に取り上げられ、これにピエ・ノワール(アルジェリアからの引揚者達)による抗議活動が活発化しました。

2005年2月には「フランスの植民地支配を肯定する法律」を成立させアルジェリアの支配を正当化しようとしましたが、猛反発を招き一年後には廃止されています。