広島・長崎だけじゃなかった。フランスが核兵器を戦場で使用したもう一つの戦争・ジェルボアーズ・ブルー

1960年、フランスはアルジェリア戦争において「核実験」を行った。それは、自国植民地における核実験というタテマエをとったものの、アルジェリアの独立戦争(アルジェリアとフランス本土)が始まって6年が経過していた戦場で行われた作戦だった。

更新日: 2019年02月05日

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palezioさん

戦場で行なわれた「核実験」

実戦下で行われた核実験

1960年、フランスはアルジェリア戦争において「核実験」を行いました。自国植民地における核実験という建前をとったものの、アルジェリアの独立戦争が始まって6年が経過していた、いわば戦場でのできごとでした。

この「核実験」によって2万人以上が被害にあったと言われています。

核実験と称して、対立する勢力の土地で、核兵器を使った

核兵器による威嚇または行使の結果、膨大な被害者が発生し、その実効性はとても強力でした。

フランスの原子力開発

マンハッタン計画に参加していたフランス

フランスは第二次世界大戦勃発直後すでに、ノルウェーから重水を調達し、核兵器開発を開始していました。ドイツ軍の進攻とそれに伴う占領で計画は中断されていたのです。そしてナチス・ドイツやヴィシー政権の支配から亡命してきた多数のフランス人科学者がイギリス、カナダの原子爆弾開発計画やアメリカのマンハッタン計画に参加していました。

アメリカ主導で進められた極秘核兵器開発

第二次世界大戦直後、終戦直後、1945年には政府内に原子力委員会とフランス原子力庁が創設された

第二次世界大戦中亡命政府を維持し、終戦直後に政権に就いたシャルル・ド・ゴールは、すぐに原子力政策の始動を指示しました。

フランスは終戦直後の1945年には原子力開発を開始。戦後ただちに商業・軍事の両方の開発を目指していました。

最初の主要最高顧問は、フレデリック・ジョリオ=キュリーでした。キュリー夫妻の娘婿であり、本人もノーベル賞を受賞している人物です。

植民地政策、ベトナムでの失敗

第二次大戦中、ドイツ軍の侵攻を受けてフランス国内の和平派が樹立した親ドイツ政権(ヴィシー政権)は、日本軍にインドシナ(現在のベトナム)への駐留を認めていました。しかし、終戦と同時に、連合国に与した政権が樹立すると、植民地管理を取り戻そうとします。

フランスは、第二次世界大戦後、ベトナムの独立運動を阻止することに失敗した。

戦況が悪化した日本は、終戦間際にベトナムに政権を明け渡し、ベトナム人の政府の樹立を進めました。第二次世界大戦後、フランスはこの動きを認めずフランス植民地として奪還しようと企てますが、その独立運動を阻止することに失敗します。

交渉による解決に失敗したフランスは武力に訴えました。インドシナ戦争に突入します。しかし、第二次世界大戦に疲弊していたフランスは、敗退してしまいます。

1954年にフランスのピエール・マンデス・フランス首相がジュネーヴ休戦協定が結んで、ベトナム国などの独立を承認することになりました。

しばらくして、西側支配からのベトナムの脱却を認めない米国の介入によってベトナム戦争へと進んでいくことになります。

アフリカ植民地の混乱

フランスは本土復興のために、植民地から莫大な利益を吸い上げることを求めた

フランスは、本土復興のために、植民地からの莫大な利益を必要としていました。ベトナムをはじめインドシナ半島での権益を失ったフランスは、アフリカ植民地へと矛先を向けました。

アフリカの植民地に巨大投資を実施、たしかに資源生産量は大幅に増加しました。しかし、膨大な投資は植民地の都市化を招くことになります。

都市化によって生じた新しいアフリカの知識層は、やがて独立心を高め、政党や反フランス組織を設立させていくことになりました。

1954年アルジェリア戦争のはじまり

地下資源、特に化石燃料の採掘は非常に重要な産業である。他の植民地が「保護領」という扱いだったのと異なり、フランスの一部という扱いだった。

1954年、フランスからの独立を主張するアルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織され、アルジェリアとフランス本土でゲリラ活動を展開しはじめました。

北アフリカ植民地のうちチュニジアとモロッコは1956年3月に独立を果たしました。チュニジアとモロッコは、「フランス保護領」という扱いであり、もともと、それぞれの君主が維持されていました。そのため、フランスは傀儡君主を立てて独立させることで影響力を温存しながらこれらの国を独立させることができたのです。

多くのヨーロッパ系市民を抱えていたためフランス世論は独立に反対、政府も独立を認めなかった。

アルジェリアはフランスの一部であり、フランス政府が直接統治するという扱いを受けていたのでフランスは簡単に手放すことができませんでした。そうなれば立場を失うことが明白だった少数派であるヨーロッパ系市民は反発しました。また、フランスも短期間にアルジェリアに親フランス政権を樹立することは困難であることを理解していました。

アラブ世界各国からのアルジェリア独立の支援が始まる。

1957年にはアルジェの戦いでフランス陸軍の空挺部隊が独立派を大弾圧し、「フランスのアルジェリア」政策の維持を図りました。

大打撃を受けたFLNは拠点をモロッコやチュニジアに移し、1958年にはエジプトのナセル政権の協力でエジプトのカイロにアルジェリア臨時政府を樹立しました。

対立構造の複雑化

対立構造は、複雑化しました。現地のイスラム教徒(アンディジェーヌ)、ヨーロッパ系移民(コロン)そして本土のフランス人が互いに対立するようになったのです。

フランス政府はアルジェリアのムスリムにフランス人としての完全な市民権を付与することで懐柔をはかろうとするが、特権を維持することを望むコロンたちの反発を買った。アルジェリア在留のフランス軍空挺部隊はコルシカ島を占領し、クーデターを起こそうとした。

1958年5月13日、「フランスのアルジェリア」を支持する現地軍人やコロンたちの暴動は、済し崩し的にクーデターに発展しました。

アルジェリアの軍部隊が、コルシカ島を占領、フランス本土でのクーデターを狙いました。

フランス本土侵攻の脅威によって第四共和政政府は有効な解決策を出せずに危機に追い込まれ、崩壊状態となりました。

フランスの第二次中東戦争

アルジェリアにおいて、エジプトがアルジェリア民族解放戦線に援助をしているとみなしたフランスは、当時ナセルがスエズ運河を国有化宣言したことに反発していたイギリスと協調し、イスラエルへの武器提供を積極的に行いました。アルジェリア戦争での戦況回復のために、イスラエルに武器支援しエジプトのナセル政権を崩壊させようと意図したのです。

1956年10月29日、イスラエル軍の落下傘部隊395人が、国境を越えて、シナイ半島のスエズ運河から72kmの地点のミトラ峠に降下し、侵攻を開始しました。

英仏軍によるエジプト領内への爆撃も行われました。