■8/25 第14回全国大会GS
■サークル名:夏野の石
■スペース:5号館チ-38a
「ガラスの向こうの君の手をとる」
ニオブン/全年齢/A4
夏の空だけ青さの種類が違うのはなぜだろう、そんなことを毎年思っているような気がする。
中学一年生の七月、一学期も終わりに差し掛かり、新入部員のメンバーももう大方固まって、月末には合宿がある。梅雨の時期のどんよりした空気を払拭するのに一役も二役も買っていた紫陽花は、すっかり色あせてしまい、まるで嘘のように存在感がない。たったの数歩歩くだけでもう汗が噴き出す、教室を通り抜ける風は熱風。いつも通りの夏だった。新入生は一年生になっていた。そわそわと浮き立つような、それでいてどこか落ち着かないような、そんな新生活の真新しさは夏の到来とともにとっくに消え去っていた。
夏らしく高く澄んでいる空を窓から見上げながら、丸井は松籟館と呼ばれる古い旧校舎の大講義室の隅に座って授業を受けていた。二人いた国語の先生の片方が産休を取るとかで、残った一人が二クラスずつ同時に授業を担当することになったのだが、普段丸井たちが使用している校舎の方には二クラス分の人数が同時に授業を受けられるだけのキャパシティがある教室はない。こういった緊急の場合や外部講師を招いた小規模の講演会が行われる場合などは、この大講義室を使うことになっていた。
二階建ての木造建築は、ゆうに築百年は経過しており、幾何学的な桟瓦屋根と下見板に覆われた外観は厳しく老獪な表情を見せている。校門が視界に入る張出窓は、長年生徒たちが腰掛けてそれぞれの思いに耽ってきたためか、ぴかぴかに黒光りして磨り減っている。ガラスも手製の香りが残る年代物だ。雨に叩かれているのかと一瞬錯覚するほど、表面がほんの少し波立っている。名前の由来どおり、外にはゆるやかな築山に目隠しとなっている松林。その一部である青い松葉が窓から覗いてた。
けれども丸井は松籟というものを聞いたことがなかった。そんな古めかしい優雅なもの、今時聞いたことのある奴がいるのだろうか?
俺は聞いたことがあるぜよ、丸井。
ふとその声が頭に浮かぶ。
そう言ったのが、仁王雅治という男である。
あの時のちょっとした空気の緊張を今でも覚えている。開け放した窓から爽やかな風が吹き込む五月の昼休み。その時なぜそんなものが話題になったのかは思い出せないが、あの男は随分と離れた席から突然言葉を投げてきたのだった。出身校が同じわけでもなく、同じクラスになってから特に口をきいたこともなかったのに。
挑戦的で、鋭い目つきで、どこかちょっとだけ笑っているような顔。
なあ、お前には聞こえんのじゃろ、丸井。
仁王は椅子の背に大きくもたれかかると、念を押すようにそう言った。
丸井と友人は最初あっけに取られた。しかし次にその言葉を侮辱と受け取った。どう反応すべきか、彼はほんの短い時間素早く考えた。一つ、余計なお世話だとつっぱねる。一つ、へえどんな音だよ教えてくれよと薄ら笑いをする。一つ、無視する。結局、丸井はどれでもない反応を示した。つまり、不思議そうな目で仁王の顔を見つめたあと、ちょっと肩をすくめて背を向けたのである。不穏な緊張状態を予感した友人を安心させ、自分がささいなことに取り合わない寛大な男であるということを示すにはまずまずの対応だった(と思っている)。
また、別の風景も浮かぶ。
高く澄んだ空の下、だだっぴろいグラウンドの隅っこに彼等は立っている。体育祭のクラス対抗リレーのための、放課後のバトンタッチの練習だ。丸井は第三走者、仁王はアンカーだった。
リレーなんて面倒じゃが負けるのも癪じゃしな。ぱしっと叩きつけてくれ、丸井。俺の掌に思いっきりな。
なぜか癪に触る奴だと感じていたのは、彼が何か言うたびにいちいち自分の名前を呼ぶせいだと気付いたのはその時である。
お前さあ、なんでいちいち俺の名前最後に呼ぶんだ?そんな連呼しなくたって俺に言ってるって分かるよ。
仁王はちょっとだけ驚いた顔をした。そのあと、ニヤッと笑った。
そうか、そうじゃな。今まで気づかんかった。俺、お前の名前が好きなんかもな。
丸井はあっけにとられた。
変な奴。
いささか気味の悪そうな表情で離れる丸井を、仁王はにやにやしながら見送っていた。大きいトラックは四等分され、四人の少年がぽつんと立っている。始めるぞぉ、とスターターが遠くでバトンを振り上げ叫んだ。指定された自分の位置に戻りながら振り返ると、ふいと背を向けた彼の、思いがけぬ背中の広さが印象的だった。青い空の下の、白いシャツをはためかせた仁王の背中は、なぜかその瞬間永遠に思えた。
そして、彼の掌が大きく目の前に迫り、その真ん中にびしりとバトンを叩きつけた瞬間の、パズルのピースがきちんと嵌ったような満足感も——
「…い、丸井」
丸井はハッとした。
素晴らしい加速でみるみるうちに遠ざかっていった仁王の後ろ姿と、黒板の前で怪訝そうに丸井を見る担任の立ち姿が重なった。
「仁王が欠席しているようだが、何か知らないか」
またあいつサボってんのか、と思いながら答える。
「知らねッスよ。俺、アイツの行動いちいち把握してねーんで、そういうの聞かれても困るんすけど」
そうか、そうだなとばつが悪そうに言いながら、教師は持っていた出席簿に欠席と記す。
実際、仁王と丸井は仲が良い方ではあったが、特別な程ではなかった。だが、部活が同じでクラスが同じだったら深い仲のはずだと他人は思うらしい。仁王は騒がしいのは嫌いだとよく教室からフラッといなくなるのだが、そういう時仁王の居場所を探すのに、クラスメイトはよく丸井を頼ってきた。一度、居場所をいちいち俺に聞くなっての、と聞いてきたとあるクラスメイトに強めに言ったことがある。そうするとその聞いてきた奴は謝りながらこう言った。
「ごめんって、でも仁王ってすげー近寄りにくいじゃん」
「んなことねーだろ。まあ変な奴だけど、悪い奴じゃねーだろうし」
「そう思うのは仁王がお前のこと気に入ってるからだよ、きっと」
「嘘だろ。あいつ、俺のこといつも馬鹿にしてくるぜ」
丸井は思わず声をあげた。
「いや、この前さ、」
と、そいつは声をひそめながら言う。
「俺、たまたま落ちたプリントを拾おうと思って腰をかがめたんだけど、そうしたら仁王がふと顔を上げたんだ。その時、ほんとに偶然、あいつの本当の表情みたいなものを見ちゃったんだよ。特に顔を歪めていた訳でも憤怒の表情を受けべていた訳でもない。ほんのちょっと横目で視線を送っていたに過ぎないんだけどさ。」
氷のような軽蔑。彼は心臓を掴まれたように全身が硬直したと言う。
「俺、もし話しかけに行ってあんな目つきで仁王に正面から睨まれたら、死にたくなってしまうよ。」
普通に仁王と絡んでる奴なんてこのクラスじゃブン太くらいだって、とそいつは言った。
こんな田舎にあるけれど、立海大付属中学校は県下のみならず全国でも有数の進学校としてその名を知られる私立中学校だ。あきれるくらい金のかかった、とんでもない温室育ちの御曹司が紛れ込んでくることも多い(実際、金もかかる)。そんな中で、仁王は明らかに異彩を放っていた。広い肩の上に、気が強そうで、研いだナイフのような顔が乗っている。銀色に染めた短い髪に、少し猫背のひょろりとした長身。入学式の時から——仁王は丸井の前に並んでいた——新入生の中で一際目立つ奴だった。クラスの中でも浮いていて、多くの生徒からは、明らかに怖がられていた。だがそのいかにも不良のような外見に反して、彼は常に大人で冷静だった。自分からは表には立たないが、任された仕事は周到に計画を立て、なんでもきちんとやり遂げてしまう。そういった彼の仕事の出来の良さから、意外と堅実で真面目なタイプなのかと思わせられたが、出身や趣味、好きなものなど、そういった個人的な話になると、いつも狐につままれたようなでたらめな話をして相手を煙に巻いて楽しんでいた。学業の方はというと、理系の成績が抜群だった。予測不可能な彼の行動に手を焼いている教師たちも、彼の天才肌は認めている。数学科の教員室では、仁王は悩みの種である。彼のアプローチの仕方が全く違うため、彼等の常識ではもう採点が追いつかず、「お前はさっさとアメリカの大学へ行け」と嫌味を言うほどらしい。
入学から数ヶ月が経ってもなお、仁王が一体何者なのか、誰にもわからなかった。彼の何を考えているのかさっぱりわからない、その本心の見えないところが、向き合う相手に警戒心を起こさせてしまう。放課後や週末は、わざわざ電車を乗り継いで渋谷まで行き、そこで知り合った仲間と遊んでいる、年上の彼女がいるらしいなどという、無責任な噂さえ飛んでいた。
「…まあ、仁王の心の底がどうであろうと、少なくとも俺にとってはそういうの、あいつと絡む上でなんの関係もないから」
「…ブン太ってなんかさ、「寛大」だよな」
「は?」
丸井は怪訝そうにクラスメイトの顔を見た。
「ブン太の話を聞く度に、それを言い表す言葉がずっと見つからなかったけど、今の話聞いて、それが「寛大さ」だってことがやっとわかったよ。」
「いや意味わかんねえ。どういう意味?」
彼の言葉は、解説なしでは理解不能だった。
「みんな、ギラギラしてるからな。俺たちは内心びくびくしながら同時にギラギラしてる。これから世界のものを手に入れなきゃいけない一方で、自分の持っているものを取られたくない。だから、怯えつつも獰猛になってる。でもブン太は、ギラギラもびくびくもしてないんだよな」
丸井は苦笑した。
「それって、最初から諦めてるって意味か?」
「違う。なんていうか、ブン太は許してる感じ。他人から何かをもぎとろうなんて思ってないし、逆に自分から何か取られても別に構わねえよってスタンスなんだ。だからかな、お前って人と関わる上でレベルの高い低いとか利害の一致とか、そういうのが存在しなくて、あるのはそれぞれが誰かということだけじゃん。人の嗜好とか、価値とか、自然にちゃんと認めてくれるだろ? そういうの、当たり前にできることじゃないと思うよ」
丸井は苦笑した。
「買い被りすぎだろぃ」
「そうかな。とりあえず、仁王みたいな奴にはお前しか普通に関われないんだよ」
海の写真一枚。
「お前、今日学校は?」という丸井のメッセージに対し、仁王から送られてきたのはそれだけだった。一限目の出席確認が行われてから十五分くらいが経っていた。
「これどこの海だ……?」
どんなに拡大してみても建物は見えず、スマートフォンの画面いっぱいに見える水面とそのきらめきと、空。
『海にいんの?』
先生が板書してるのをちらりと顔をあげて確認してからそう送ると、すぐさま既読がついた。
『ああ』
『湘南の?』
すぐにあらわれる既読の二文字。あらわれない次の白い吹き出し。
画面を見つめていても、次の返信はなかなかあらわれなかった。仁王はスマホを見ているときはそれなりのテンポで返事をくれるが、一度見なくなると次に見るまではぱったりと反応がなくなる。
返ってこないということは、既読だけつけて彼はラインを閉じてしまったのだろう。まあいいや、と思いながら一度画面の電気を落として黒板に書かれた内容を手元のプリントに書き写す。そのうち、気が向いたら返事をくれるはずだ。
眠気を誘う教師の声とざわざわした話し声、ななめうしろの席にいる男子生徒の静かで気持ちよさそうな寝息。遅刻ギリギリで教室に入ってきた生徒が、うちわのように下敷きでパタパタとあおいでいる。
教師がこちらを向いていたので、スマートフォンをズボンのポケットにしまい、丸井は授業に注意を戻した。
「真実?どこにそんなものがあるのでしょうか。真実。その言葉を口にしたとたん、その言葉が持つ虚構の猛毒で、舌が腐り始めてしまうことをあたしは知っています。あたしたちは、自分が見たものしか信じられない。いえ、自分が見たいものしか信じられないのです。真実とは、あたしたちが見たいと思っているもののことなのですわ」
当てられた生徒が、教科書の一節を朗読している。
俺は許してなんかいない。
突然、そんなことを考えた。
寛大なんてとんでもない。小さい頃から弟の面倒を見ているせいで、空気を読むとかが得意なだけだ。相手が何をしてな人を言ってほしいのかすぐわかった。だから、その通りに動いた。でもそこに俺の誠意とか懇意とかは一切ない。
普段の学校生活でも、微妙なバランスの中で生きている。俺だけじゃない、皆そうだ。向き合う相手やその場の雰囲気を読み合う、計算された会話。学校生活はバランス感覚が全てだ。いったんそのコミュニティ内における互いに割り振られたキャラクターを了承しあってしまえば、あとは約束された毎日を過ごしていける。必要以上に他人に踏み込むこともなく、己自身を開示することもなく、要領よく暮らしていく。お互いに、ラベリングを貼る事で人物を単純化し、相手を理解したような気になって、「理想の」学校生活を送っている。逆に、そうでもしなければ学校なんて閉鎖空間の中での人間関係なんて、うまくいくはずもないだろう。
だけど、仁王は違った。複数もの要素を曝け出し、謎を散りばめて簡単にラベリングを張らせようとしない。異端者だった。仁王は進んでさっさと「外」へ出ることを選び、俺は「内」で平和に暮らすことを選んでいた。俺たちは開いたドアの内と外で向かい合って立っているようなものだ。
そんなことを考えていると、手元に伏せておいていたスマートフォンが震えた。そっと左手でひっくり返すと、あらわれたポップアップには『ナイショ』とだけ書いてあった。
ナイショ、ってなんだよ!
ふざけんな!
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。空想に埋没したまま、五十分が終わってしまった。一限目が終わって、次の移動教室へみんなががやがやと向かっていた。一人大講義室に残って、授業中と同じ姿で、椅子にもたれたままだった丸井は、ふと立ち上がり、教室に戻って少しの小銭とスマホだけ持つと、たった一人で学校を出た。毎日放課後そうしているように、玄関で靴を履き替え、人気のない中庭をつっきって裏門から出た。そしていきなり走り出した。誰かが、思いきり背中を押したような感じだった。
帰り道の住宅街を無我夢中で走った。昼下がりの道路に人影はなく、目の前にまっすぐ続く坂が白く長く光っていた。家々の合間にある濃い緑はせみの声を隠すようにゆっくりと揺れていた。ただ一つ動き続ける丸井の影は、白い道に濃く映えた。ずっと走り続けたおかげでブラウスはべったりと背中にはりつき、顔といい首といい、滲み出る汗でべたべたした。棒切れみたいになった足を半ば惰性で前へ前へ送り出しながら、自分を取り巻く夏を憎んだ。
坂を下りきったところからしばらく並木道が続く。丸井は並木道に入ったあたりからふと足を止めた。乱れた呼吸を耳元に感じ、うなじにはりつく髪に不快感を覚えた。
あいつに聞いてやる。聞いてやるんだ。何を? 一体何を聞くんだ?
丸井はそう頭の中で繰り返しながら、緑の闇の底を、足早に歩いていった。
桜にしてはかなりの巨木が続く並木道は、空が遠く、木漏れ日も遠い。朝学校に来た時は熱の漣のようであった光は、今やひんやりとした青い斑点となって、夏服の白い袖や、剝き出しの腕の上を走っていた。呼吸が整ってくるころ、さっきまで彼の背中を押していた手はいつの間にか力をゆるめていた。
風の音がする。さわさわと何かの音がする。
俺は聞いたことがあるぜよ、丸井。
仁王の声がする。
なあ、お前には聞こえんのじゃろ。