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【わがまちの偉人】加賀市 坂網猟を違法な銃猟から守る 村田安太郎(1879~1957年)

直談判 GHQ動かす

坂網猟が解禁され、網を構えてカモの飛来を待つ猟師たち=2018年11月15日、加賀市片野町で

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 夕暮れ時、カモの群れが頭上をかすめる一瞬を狙い、Y字形の網を放り投げる-。加賀市の片野鴨池周辺で、大聖寺藩の藩政期から脈々と続く「坂網猟(さかあみりょう)」。人と自然のほどよい関係の上に成り立つ伝統猟法は、終戦後まもなく、連合国軍の米司令官らが放った銃声によって存続が脅かされた。坂網猟師のまとめ役だった村田安太郎は、連合国軍総司令部(GHQ)に銃猟禁止を直訴し、鴨池と坂網猟を守り抜いた。(小室亜希子)

 「私らには神様みたいな人」。片野鴨池のほとりに立つ番小屋で、大聖寺捕鴨(ほこう)猟区協同組合前理事長で現役猟師の浜坂加寿夫(70)は畏敬の念を込めて語る。

 安太郎と銃猟事件を巡る物語は先輩猟師から若手へ語り継がれてきた。関係者の高齢化で事実が風化することを危ぶんだ地元関係者が調査に乗り出し、二〇〇八年出版の書籍「片野鴨池と村田安太郎」(市片野鴨池坂網猟保存会)で初めて全貌が明らかになった。

 数万羽の冬鳥が水面を埋め尽くす片野鴨池を、最初に銃声が襲ったのは一九四七年秋~翌四八年春の猟期だったとみられる。福井に駐屯する米軍人だった。四八年十二月には米第八軍第一軍団司令官のスイング少将、さらに翌四九年一月と二月には米第八軍司令官のウォーカー中将が銃猟に訪れ、勝手気ままにカモやガンを撃ち落とした。

 銃声におびえ、鴨池のカモは激減した。憤った安太郎は四九年一月から、GHQのマッカーサー最高司令官宛てに手紙を出すなど窮状を再三訴えた。同十月には東京のGHQ天然資源局に一人で乗り込み、野生生物課長だった鳥類学者のオースチン博士に銃猟禁止区域での違法な行為をやめさせるよう直談判した。

 「銃猟は鴨池にとって致命的」「われわれは三百年以上続いた歴史的な鴨池を失う」。近年の調査で発見された国立国会図書館蔵のGHQ文書には、安太郎の切実な訴えが記録されている。

 上京前には「今生の別れになるかもしれない」と家族や猟師仲間と水杯を交わした。決死の訴えはGHQ内部を動かし、少なくとも五〇~五一年の猟期以降、片野鴨池で銃猟が行われることはなくなった。

 「福井地震で揺れた時も火鉢の前にじっと座っていた」。孫の佳栄子(84)はもの静かで動じない、でも優しかった祖父の姿が記憶にある。

 坂網猟保存会長の現代美術家中村元風(がんぷう)(64)は安太郎が昭和初期の大火の際、自分の家より、貴重な書画や骨董(こっとう)を納めた隣家の土蔵を守るよう指示したエピソードに触れ、力を込める。

 「郷土の宝への歴史的、文化的な価値の理解、そして勇気。この二つがないと、なし得なかった。先人が命懸けで守った坂網猟を、何とかして残したい」 =敬称略

  ◇     ◇     ◇ 

 次回は、金沢市金石地区の町づくりに尽くした鶴山務(一九二七~二〇一七年)を紹介します。

=加賀市片野鴨池坂網猟保存会提供

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 むらた・やすたろう 加賀市塩屋町出身。旧江沼郡大聖寺町の助役を4期務める。1946年、坂網猟師でつくる江沼郡捕鴨組合(現大聖寺捕鴨猟区協同組合)の組合長に就いた。

 

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