はてなブックマーク巡りをしていて、上の記事が目に入った。全体的に楽しく読ませて頂いたが、女性参政権運動家:エメリン・パンクハーストについての記述だけ、違和感を感じてしまった。私は歴史には詳しくないが、差別の構造については少しばかり興味を持っているので、違った歴史の見方を提示できるかもしれない。
念のため、最初に言っておくけれど、これは投石や爆破や放火などを肯定するものではない。パンクハーストはじめサフラジェットたちの抵抗運動をどのように評価するかという話だ。
上の記事から、エメリン・パンクハーストに関する記述を引用させて頂く。
彼女をここにランクインさせるべきかは非常に悩ましいところである。
エメリン・パンクハーストは恐らく世界史で最も有名なフェミニストで、いい意味でも悪い意味でも現在のフェミニスト運動の先駆けとなった人物である。
彼女の手法はとにかく過激かつ非合法なもので、自説を主張するために自身を含めた運動家を逮捕させる行動を繰り返し世間の注目を集め続けた。彼女の組織したWSPUという女性の権利団体はひたすら窓ガラスを割り続け、国会の傍聴席に自分たちの身体を鎖でしばりつけたり、爆弾を使って郵便受けを爆破したりするなどもはやテロリズムと言っても良い手段で女性の地位向上を狙っていた。
特にイギリスの伝統あるエプソムダービーでゴールの前に飛び出して運動員が死亡するという事故を起こした際には世界中から顰蹙を買ったのだが、途中からハンガーストライキに訴えたり、一次大戦の際には運動を辞めて暴力的な戦術を停止するなどただの過激派ではない面もある。
彼女の過激なフェミニズムは海を渡ったアメリカでも受け入れられ、ウーマンリブのような過激な運動組織へと継承させていく。
彼女の与えた影響は悪い意味でも大きく、現在でもフェミニストが暴れやすい傾向にあるのはエメリン・パンクハーストにその源流を求めることができるだろう。
とはいえ彼女の尽力で1918年にイギリスで、1920年にアメリカで女性参政権が実現できたのも確かなので、エメリン・パンクハーストはやはり偉人なのである。
英米において女性の参政権が認められたのは1920年前後のことであり、そう言ったことを考えるとやり方や内容はともかくエメリン・パンクハーストの功績はやはり大きいと言えるだろう。ただ、暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった人物でもあるが…
歴史上、植民地支配や独裁体制、人種・民族・身分差別等により、参政権やその他の権利を奪われている人たちが抵抗する運動というのは、世界各地で起こってきた。現在では香港の状況がそれに当たるだろう。こういった抵抗運動においては、言論による抵抗に止まらず、投石や爆破といった事態になった例は珍しくなく、場合によっては紛争や戦争にまで発展してしまったものもある。
パンクハーストたちの運動は、これらの男性が参加してきた抵抗運動に比べて、ことさら「過激」なものなのだろうか。もし、男性が主体になっていた抵抗運動に比べて、女性参政権運動のそれのほうが過激に見えるとしたら、それはなぜだろうか。
既に支配と抑圧の歴史が終わり、新たな価値観と社会制度が確立された後の出来事においては、その歴史が語られる時、「当時はこういった支配体制があって、こういう抵抗運動があって、体制が変わりました」という語られ方をする。
一方、現在進行形の支配と抑圧については、抵抗する側の問題点に注目が集まるが、その一方、抑圧する側については、抵抗する側以上に無茶苦茶なことを言ったりやったりしていても、大して注目されないし記憶に残らない。なぜなら、その支配と抑圧のただ中にある人々は、生まれた時からそういう環境で過ごしているので、その環境が「普通」だと思っているからだ。そういう感覚の中では、抵抗する側は「異端者」として見られる。
差別に対する抵抗運動の流れには、ある種の類型がある。
まず、マイノリティは穏健に訴える。マジョリティはとことんそれを無視する。痺れを切らしたマイノリティの中から、「穏健に訴えていても埒が明かない!」と、明確に怒りを表明したり、実力行使に及ぶ者が出るようになる。それに対して、マジョリティは「過激派」というレッテルを貼る。マイノリティは過激派と穏健派に分断され、マジョリティは、過激派を「悪いマイノリティ」、穏健派を「良いマイノリティ」と評価し、後者を「模範的なマイノリティ」として持ち上げる。
つまり、マジョリティは、「過激派」に揺さぶりをかけられない限りは「穏健派」の言うことすら聞かないのだ。そして、大抵の場合、差別する側は差別される側よりも、ずっと過激で暴力的である。
こういったことは、差別運動の歴史において繰り返されてきた。
さて、当時の女性参政権運動の場合はどうだったのかというと…
1860年代には、既に様々な女性参政権運動が各地で行われ、集会の開催やチラシの配布、国会への嘆願書提出が行われていた。にもかかわらず女性参政権に関する法案は常に否決され、一般国民や政府にとって彼女らの運動は見慣れた行事のようなものでしかなかった。だが1905年に風向きが変わる。
WSPUのメンバー2人が、マンチェスターで開催された自由党の集会に出向き「政権を取ったら、女性に選挙権を与えるのか」などと大声で叫び妨害。取り押さえた警官に唾をはきかけるなどして逮捕・投獄された。各新聞はこの「女性らしからぬ」事件を大きく報道。地方の一団体でしかなかったWSPUと、進展の見込みのなかった女性参政権運動は一躍脚光を浴びた。選挙権がない女性が政治に対して意見を言う方法は、もはや直接行動のほかにないとWSPUは考えた。こうして彼女たちは次々に過激な運動を展開するようになる。
見事にこの類型に当てはまっていると言えるだろう。
2015年に公開された映画『サフラジェット』は、まさにパンクハーストらが中心になって行った運動をテーマにした歴史映画だったが、その映画の批評で適当なものがあったので、引用して紹介しておく。
女性たちは全くの二級市民であり、税金だけはとられて権利は無い存在なのだ。序盤でモードは一度議会で労働条件についての証言を行うが、選挙権の無い女性たちの証言は無視されてしまう。このあたりの描き方は、「平和的な運動」という概念じたいが実は既得権者の有利に働くことがあり得るということを鋭くついていると思った。いくら平和的に頼んでも彼女たちにはそもそも議論のテーブルに上がる権利すら認められていないので、議会に影響力を及ぼすことができず、抹殺されるだけなのである。このため、モードやその仲間たちは注目されるため、脅威になるために先鋭化し、破壊活動をするようになる。
二級市民には意見を伝える手段すらない〜『サフラジェット』(『未来を花束にして』) - Commentarius Saevus
エメリン・パンクハーストのモットーは「言葉より行動を」だが、彼女たちのこうした過激さは、裏返せば、いかに当時の社会が女性たちの「言葉」に耳を傾けなかったかということを表しており、彼女たちはその社会状況を映し出す「鏡」として見るのが適当だろう。
上記のサイトには、当時の女性参政権運動家たちが受けた嫌がらせの例が載っている。驚くべきは、当時、彼女たちが受けた嫌がらせと、現代の「フェミニスト」と言われる女性たちが受けている嫌がらせの内容が、全く変わっていないことだ。
殺害予告にヘイト・メール……醜く描かれた女性の顔の下に「We Want the Vote」と文字を入れた画像があるが、これはまさに、現代でもアンチ・フェミニストがよく言う「フェミニストはブスのババア」そのものである。
エメリン・パンクハーストの評価については、「暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった」というよりは、むしろその時代が「暴れでもしなければどうにもならなかった」社会だったというふうに見たほうがいいだろう。
最初に書いたとおり、歴史上、抵抗運動で「暴れる」展開になるのは、特に珍しくはない。それら男性が参加していた抵抗運動についても「暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった」という評価をするのなら、それはある意味公平と言えるが、そうでないのなら、ニュートラルな評価とは言えないだろう。
そして、現在においても、パンクハーストの評価がニュートラルになされていないということは、現在においても、女性差別という「悪習」が色濃く残っているということの表れであり、まさにこれこそが、「現在でもフェミニストが暴れやすい」理由とは言えないだろうか。
もっとも、現代のフェミニストは、滅多なことでは投石や爆破や放火はしないし、行動すると言ってもせいぜいデモくらいなものなので、特に暴れている様子は見受けられない(一方、女性嫌悪から銃を乱射する男はいるが……*1)。これは、女性が参政権を獲得した影響があるのではないだろうか。
私はあまり歴史には詳しくないのだが、参政権がある層の抗議活動は、言論や集会の範囲に留まることが多いが、参政権がなく、言論を封殺されている層の抗議活動は、暴力行為にまで発展してしまうことが多いように思う。
私が、こういった差別抵抗運動の例を見るたびに思うことは、「マイノリティが穏健に言っているうちに、耳を傾けておけば良かったのに…」ということだ。しかし、差別への抵抗運動の流れが、ほぼ決まった類型を辿りがちなあたり、それは現実にはなかなか難しいことなのかもしれない。
ただ、歴史から学べるとすれば、マジョリティがマイノリティに対して思いがちな「なんでそんな攻撃的な方法を取るんだ。もっと穏健にわかるように言えば、受け入れられやすいのに」というのは、楽観に過ぎる場合があるということだ。現実には、差別する側というのは、モラル・ハラッサーや毒親のようなもので、抑圧されている側が言葉を選んで優しく訴えているうちは、居心地の良いポジションから動こうとしないものなのである。
女性参政権論争における黎明期は、フランス革命期における、ニコラ・ド・コンドルセの『女性の市民権の承認について』やオランプ・ド・グージュの『女性および女性市民の権利宣言』がある。『女性および女性市民の権利宣言』が書かれたのは、フランス人権宣言が、結局のところ男性に限定されたものだったからだ。
アメリカにおいては、1848年に行われた、アメリカ女性運動の出発点と言われるセネカ・フォールズ会議がキーワードだ。この会議は、奴隷制度廃止運動の中で、女性だという理由で公の場で演説することを批難されたり、会議から締め出されたりした女性たちが中心になって行われた。*2
日本においては、平塚らいてうや市川房枝が有名だが、彼女たちが活躍した時代は、それまでの制限選挙制から納税要件を撤廃し、満25歳以上の内地に居住する日本人男性に選挙権が拡大された、大正デモクラシーの流れの中にある。
こういった歴史を見ていると、何かしら世の中に権利拡大の動きがあった時に、女性参政権の論争が勃発している傾向がある。日本における女性学のパイオニアである上野千鶴子氏は、学生運動内部における女性差別を目の当たりにしたそうだが、歴史を振り返ってみても、自由や平等や権利について考えているはずの男性たちが、女性の自由や平等や権利については、同じようには考えていないのだということを痛感した女性たちが、フェミニストになっていくケースが見受けられる。
さて、現代を生きる私たちは、歴史上の女性の参政権獲得のための運動を、男性の参政権獲得のための運動と、同じように考えることができているだろうか。もし、できていない人が多くいるようであれば、私たちは、まだ性差別による支配と抑圧と抵抗の時代の中にいるということになるのだろう。
“我に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ”
――パトリック・ヘンリー――
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