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INSIGHT - 2019.11.16

「ポピュリズムとナショナリズムの時代における美術評論」はどうあるべきか? 第52回国際美術評論家連盟国際会議レポート

今年10月1日から7日にかけ、ドイツのケルンとベルリンで第52回国際美術評論家連盟国際会議が行われた。「ポピュリズムとナショナリズムの時代における美術評論」をテーマに、複数のセッションが行われたこの会議では何が話されたのか。美術評論家連盟会員でキュレーティング・批評を専門とする四方幸子のレポートをお届けする。

文=四方幸子

会場風景 撮影=筆者

 あいちトリエンナーレ2019で、9月25日に「表現の不自由展・その後」が再開される見通しが発表され、翌日文化庁が補助金交付中止決定を通告した。その直後から美術関係者をはじめ広く人々の発言、署名、デモが繰り広げられるなか、筆者はドイツに飛び、国際美術評論家連盟(AICA)国際会議のベルリンでのセッションを聴講した(10月3日〜5日)。主催はAICAドイツ、後援がドイツUNESCOコミッション、助成がドイツ連邦共和国文化財団である。

 AICAインターナショナル(国際美術評論家連盟)設立70周年の今年のテーマは、「ポピュリズムとナショナリズムの時代における美術評論」。世界各地で顕著になっている政治・社会における不寛容や他者排斥の傾向に対し、美術においては批評的な取り組みが多くのアーティストによって近年展開されてきた。本会議はその現状を、ドイツをはじめヨーロッパ、そして世界各地から登壇者を迎えて共有し、未来の展望を検討する場といえる。翌月(11月)にベルリンの壁崩壊から30周年を迎えつつあるドイツで、第二次世界大戦から冷戦を経て現在に至るこの国の変転した政治体制の下での美術や美術評論の歴史を振り返る意味も含まれている。

挨拶するフェリッケルス・ホルテンジア ドイツ連邦政府文化財団理事

 筆者がこの会議への参加を決めたのは、9月に入ってからだった。今年から来年にかけて複数のシンポジウムを準備しているなかで、今回のテーマを気にしていたが、決定的なトリガーとなったのは、あいちトリエンナーレ2019をめぐる状況である。グローバルな議論を確認したうえで、日本との差異や共通点について検討する必要性を感じ、急遽行くことにした。

 あいちトリエンナーレでは、以下が露呈したと認識している。
(1)本会議のテーマでもあるグローバルな問題、(2)日本の美術やそれを稼働させている構造、文化政策上の諸問題、社会の諸問題(経済的分断、美術関係者と人々との「文化的分断」)、(3)日本とグローバルな社会における政治・社会そして美術における違い、である。

 このような状況を、日本におけるかつてない「文化の地殻変動」(筆者)、つまり美術をはじめ文化全般が拠って立つ基盤自体を揺るがすプロセスととらえ、危機であると同時に、美術をめぐって人々が対話を始めることで、美術と社会の関係が次のフェーズへと展開する可能性を感じていた。 

いま「ポピュリズムとナショナリズム」を語る必要性

「ポピュリズムとナショナリズム」というテーマは、世界各地で生起しているこの問題が、統一から29年となるドイツでも顕在化していることを示している。会議の冊子でダニエレ・ペリエAICAドイツ会長兼本国際大会委員長は、「美術評論:その使命、その危機」と題して、アートが社会に根ざしつつも自由な表現形態をとること、21世紀になってアートシーンが、故クリストフ・シュリンゲンジーフの例にもあるように政治的なアクティビズムの場になってきたこと、本会議では、現在直面する諸問題を見据え自由な美術評論のための対話を開くと述べている。

 冊子の挨拶文でホルテンジア・フェリッケルスとアレクサンダー・ファーレンホルツ(いずれもドイツ連邦政府文化財団理事)は、現代がまさに「文化の気候変動」(ハンノ・ロイターベルク/美術・建築ジャーナリスト)の時代であり、ポジティブな可能性として「美術の知識が象牙の塔から降り、文化が社会を結合させていく重要な醸成」に貢献しうること、しかし反面「(新たな)境界が生まれ、最悪の場合検閲」につながりうるとも述べている。そのような時代において、「美術の自由が美術評論そして美術評論家の自由と深く関わる」ことを認識し、世界各地の美術評論家が状況を共有し対話を行う必要性が表明されている。以下、時系列で記していく。

会議前に行われたツアー

10月3日(会場:ハンブルガー・バーンホーフ美術館)

 この日はドイツの統一記念日と重なった。冒頭で挨拶をした5人中4人が女性であったこと(リスベス・レボロ・ゴンサルヴェスAICA インターナショナル総裁 、ペリエAICAドイツ会長兼本国際大会委員長、フェリッケルス ドイツ連邦政府文化財団理事、ガブリエレ・クナップシュタイン本美術館館長)に加え、唯一の男性ジャック・レーハート(ドイツ統一時のAICA西ドイツ会長)が、統一時の混乱のなか、東西AICA間の十分な対話がなされないまま、東が西に組み込まれてしまったと反省を込めて語ったことが印象的であった。

 セッションは、3日間にわたり10のパネル(各回2組のプレゼンテーションとディスカッション)を中心にトーク、上映やパフォーマンスも開催された。1日目はパネル1「Nuances of Populism: Political and Cultural Dimensions」、パネル2「The Humboldt Forum and its “Cultural Heritage”」が開催、両パネルのモデレーターを、ヨルグ・ヘイザー(この3日後の10月6日にあいちトリエンナーレの国際フォーラムにも登壇した)が務めた。

 パネル1の登壇者のひとり、オリバー・マルチャルト(ウィーン大学)は、ポピュリズムが政治において終始単純化の論理をとるのに対し、美術は複雑かつ曖昧で、動的な変化をともなうことで意味の複層性に開かれていると述べた。

 パネル2は、2020年9月にベルリンに誕生する施設「フンボルト・フォーラム」をめぐって、過去のドイツの植民地政策への省察を踏まえた展望が紹介された。アルレッテ=ルイーズ・ンダコゼ(リサーチャー・ジャーナリスト)の批評的で機知に富むリーディング・パフォーマンス、トーマス・シュミット(『Die Zeit』紙編集者)による植民地やナチスの時代に剥奪した事物の返却問題の提起に加え、サラ・ヒューゲンバルト(美術史・哲学)が、フンボルト・フォーラムがポピュリストの時代において「多様な視座や語り」の場となればと語った。

 

10月4日(会場:べルリンギャラリー)

 2日目は、パネル3「Art Criticism and Society」、パネル4「The Public and the Popular」、パネル5「Art Criticism and Gender」、パネル6「Arts and Politics between Avant-Garde and Propaganda」、パネル7「Art Criticism in Eastern Europe」、最後に検閲をテーマに「ラウンドテーブル」が開催された。

 パネル3でハリー・レーマン(美学・美術評論)は、敵・味方という分極化が進む現在だが、美術は左右のイデオロギーを超越するものであり、政治のディスコースに直接関わるのではなくむしろ政治に先立つ機能を持つこと、美術評論は美術の政治化を批評的に問うことで、分極化という問題に貢献しうると述べた。コリヤ・ライヒェルト(『フランクフルト・アルゲマイネ紙』日曜版編集者)は、「誰もがプロデューサーや評論家になりうる、シンギュラリティの世界における美術評論の可能性」を提起した。  

 パネル5では、ベリンダ・グレース・ガードナー(美術理論)が「re/writing art history」と題し、1980年代のゲリラ・ガールズを事例に挙げながら、当時展覧会で格段に女性が少なかったことを指摘、「#MeToo」のうねりが美術界にも波及することで、女性アーティストの再評価が起きていると述べた。

 パネル6、7では、ポーランドや中東欧におけるポピュリズムの躍進が語られ、共産主義時代のように政治の主導者が美術や美術評論の領域に直接介入する問題が報告された。

 ラウンドテーブル「政治的検閲とその美術や美術評論へのインパクト」には、香港や英国、南米やトルコからのジャーナリストや美術評論家、アーティストが登壇。なかでもヴィヴィアン・チョウ(香港のジャーナリスト)が、いままさに現地で起きている大規模デモへの弾圧について涙を混じえ語ったことが、会場に大きなインパクトをもたらした。

 筆者はラウンドテーブルが始まる直前に、連盟会員で上智大学教授・林道郎のTwitter発信を確認した。海外の日本研究者が「日本の芸術家、ジャーナリスト、学者を支持する声明」を発表(とくに文化庁に対して「あいちトリエンナーレ2019への支援中止の決定を撤回するよう要請」)したという内容である(古都薔 Kotoba) 。議論のテーマと合致することが日本でも起き、海外から声明が出た矢先であったため、ラウンドテーブル終了間際の質疑応答のタイミングで挙手をして、あいちトリエンナーレの状況説明と上記の声明がこの日発表されたことを手短に伝えると、会場からは応援の拍手が挙がった。 

 

10月5日(会場:べルリンギャラリー)

 3日目は、パネル8「Artistic and Critical Practices and their Public Voice」、パネル9「Art Criticism and Judgement」、パネル10「Art Criticism and Discrimination」、若手美術評論家賞受賞式、そしてConclusion Panelと続いた。

 パネル8の前半では、ユリア・フォス(ロイファナ大学名誉教授)が、2016年の米国大統領選以降蔓延する金権政治の美術館への波及を指摘、「美術館の諮問メンバーと政治的資金の関係を検討する時期だ」というパフォーマンスアーティスト、アンドレア・フレイザーの言葉を引用しながら、今年になってメトロポリタン美術館やルーブル美術館、ニューヨーク近代美術館をはじめ、各地で顕著になっている兵器製造や麻薬などに関わる企業や個人の寄付を拒否する動きを紹介し、そこでの美術評論の役割を問いかけた。社会的に注視されはじめた、情報や物の来歴の透明化とエシカルな循環は(1990年代以降、植民地からの収奪という問題が博物館で問題となっていたが)、現代美術においても無視できないものとなっている。

パネル8で登壇したユリア・フォス

 同パネルの2組目では、近接するユダヤ博物館で「オープン・コール」で音源を募集し、人々の参加を促すプロジェクトを実施したミシャ・クバルと担当キュレーターのグレゴール・レルシュが、ポピュリズムに対抗するために博物館を多様な場として開く実践について語った。

 モデレーター(ノーマン・L・クレーブラット)は、ニューミュージアム(ニューヨーク)のマーシャ・タッカーが組織のフラット化を進めた事例を挙げ、会場からは米国で起きている美術館・博物館への倫理面での抗議と批評の重要性が指摘された。それに対しフォスは、要因のひとつに米国で1990年代に公的資金から私的資金主導になったことがあると述べた。

 パネル10の1組目、サベス・ブッフマン(美術史家・美術評論家)とイザベル・グラウ(編集者・美術評論家)は、「美術評論の評論」と題し、美術評論が絶滅の危機に瀕しているともされる現在、評論を社会的な差別に対する省察のメディウムと見なすことの重要性を述べた。誰でも発信可能なSNSが評論を中立化してしまったこと、同時に事実確認や内容が希薄になる懸念が示された。ディスカションでは、ブッフマンが「愛国的な時代において美術評論はいかに可能か?」と問いかけるとともに、美術評論の立ち位置がもはや絶対的な外部にはないことを指摘した。グラウは、ハンナ・アレントの言葉「評論なしでは、公共的にはなりえない」を引用し、公共性を保つうえで美術評論が果たすべき意義を語った。

 2組目のユリア・ペトラ・フェルドマン&アンティエ・シュタールは、「特権としてのアーティスティックな自由」において、「“アーティスティックな自由”とは西洋で培われた価値であり、それ自体の権利に加えて社会のオープンさや寛大さを先導する。この権利が脅かされる場合、美術評論家は怒りとともに反応する」と記している(冊子レジュメより)。それを前提に、シュタールは検閲の事例を紹介しながら「美術評論家は、いまこそマイノリティの声を聞くことが必要」と述べた。

 フェルドマンは、アクティビストが非合法的検閲や犠牲者からの「検閲」などにより作品を抑圧する力を持つことを指摘し、アクティビストに対する批評の重要性を提起した。彼女はまた「アーティストは、いかなるものでも制作し販売する自由を持つ。しかし“アーティスティックな自由”とは、全面的な自由を意味しない。政治・文化的状況がその自由を左右しうる」と言う。加えて、男女や人種などの平等は未だ幻想で現在も白人男性中心だと述べながら、『啓蒙の弁証法』(アドルノ、ホルクハイマー)に言及しつつ、ルールから逸脱する可能性が示唆された。

 会場からは「美術評論は自律的な場である」との意見が挙がり、ブッフマンはアーティストが自律的で多様であることが重要だと応えた。「いかに私たちは、リベラルな同意の価値と、複数主義や平等という左翼的価値を持つ個人の自由とを和解させられるのか?」(冊子レジュメより)という問いは、まさにあいちトリエンナーレをめぐって私たちが直面したものである。

クロージングに登場したダニエレ・ペリエAICAドイツ会長兼本国際大会委員長

問われる美術評論の可能性

 本会議で討論された諸問題──ポピュリズム、ナショナリズム、ジェンダー、検閲、デジタル化、そして美術評論自体など──は、美術や美術評論が現在内外で抱える危機の最前線であり、日本の状況と比較検討する貴重な機会となった。

 筆者は、あいちトリエンナーレを契機に、明治以降にこの国が近代システムのひとつとして受容し独自に形成してきた「美術」に内在していた諸問題がことごとく露呈したと認識している。

 それは美術、美術評論だけでなく日本社会の未来を左右する、危機と可能性を孕む「文化の地殻変動」である。グローバルで共有される政治の右傾化や格差の拡大、他者の排斥、そしてSNSによる瞬時の増幅。さらにはAIやVR、生命科学などに代表される科学技術の進展が、「人間とは何か」という問題をあらためて問いかけている時代において、美術や美術評論は、自由な想像力と創造性そして批評的視座によって社会に働きかけていく可能性の場と言っていい。

 本会議の冊子には、AICAが「美術評論のみならず、現代社会のオープンな討議の場である。AICAの行動、決定や討議は、多大な倫理的インパクトを文化のみならずグローバル社会に持ちうる」と書かれている。 AICAは第二次大戦後にUNESCOが設立を促した数々の国際組織のひとつで、近代的な背景から出発しているが、自らの存在意義を問い続けながらアクチュアルに活動を更新している。

 日本でAICAの国際会議が開催されたのは1998年、それから21年が経つ。それ以後の日本の美術の展開、そして現在直面する「文化の地殻変動」を切り抜けて、いつか遠くない日に日本において二度目の国際会議が開催されることを期待したい。

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INSIGHT - 2019.11.8

スーパーオーガニズムは、電気仕掛けの人間の夢を見るか? 石谷治寛評「岡山芸術交流2019『IF THE SNAKE もし蛇が』」

岡山市内各所を舞台に開催される芸術祭「岡山芸術交流2019」。2016年に続く第2回となる今回は、アーティストのピエール・ユイグをアーティスティックディレクターに迎え、「超個体(スーパーオーガニズム)」というテーマのもと、アーティスト同士、作品同士が関係しあう展覧会が試みられた。「IF THE SNAKE もし蛇が」という意味深なタイトルが冠せられた本展のコンセプトと展示の実践について、石谷治寛が論じる。

石谷治寛=文

旧内山下小学校での展示風景。手前のプールが、パメラ・ローゼンクランツ《皮膜のプール(オロモム)》(2019) Photo by Ola Rindal Courtesy of the artist, Karma International, Miguel Abreu Gallery and Sprüth Magers

アーティストたちが協働で立ち上げる
エコシステムとトポロジー

 第2回となる岡山芸術交流は、ピエール・ユイグがアーティスティックディレクターを務め、「超個体(スーパーオーガニズム)」をテーマに掲げる(*1)。超個体とは、異種の個体がひとつの有機体のように協調行動をとる集合体である。ハチがコロニーを築く集団行動はこうした超個体の代表的な例であるが、岡山芸術交流は人工知能やバイオテクノロジーをも組み込みながら、アーティストたちの協働でひとつの有機的組織を夢想する試みである。タイトルの「蛇」は顕在的なモチーフでもあると同時に、知恵、誕生、再生、癒しの神話的象徴、蛇行の身振りや形態(Serpentine)、プログラミング言語(Python)として表現の潜在的な要素でもあろう。目につきにくい部分にも繊細に考えが込められた芸術展になっており、いったいどのようなエコシステム(生態系)やトポロジー(空間的位相)が演出されているか、過去の展示からの連続性も踏まえて、本稿では検証してみたい。

パメラ・ローゼンクランツ 癒すもの(水域) 2019
Photo by Ola Rindal  Courtesy of the artist, Karma International, Miguel Abreu Gallery and Sprüth Magers 

4936年の漂流教室

 コンセプトの核となる会場は旧内山下小学校。そこから外縁の展示空間へと超個体の環世界が広げられる。カタログには展示内容を通覧するユイグ本人によるSF風のエッセイがまとめられている。廃校となった旧内山下小学校は、会期前に制作されたSFドラマの舞台でもある。

ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ
反転資本(1971年〜4936年)、無人、シーズン2、エピソード2 2019
Photo by Ola Rindal Courtesy of the artists

 小学校の薄暗い校舎で展開するファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ《反転資本(1971〜4936年)、無人、シーズン2、エピソード2》は、今回、岡山の住民とともに撮影された映像とその舞台装置からなるインスタレーションを通して、資本主義の歴史を科学的寓話として描く。ニクソン米大統領がベトナム撤退、米中接近、金本位体制終了を進めた1971年の並行世界。彼のテレビ演説の映像には子供の声が被せられる。不死の人類の人口増加のせいで、死を伴う人類はほかの惑星への移住を余儀なくされており、地球に残りたい人々は、岡山の小学校で不死の子供を人質にとったのだった。それから3000年後、彼らの子孫たちが小学校に暮らしていた。観客が訪れると、校舎には破壊された日用品や酸素ボンベが放置され、中庭にはテレビ演説の背景となったアメリカ国旗と青い布や木のテーブルが打ち捨てられ、多様な生物が繁殖している。

ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ 非ずの形式(幼年期)、無人、シーズン32019 撮影=石谷治寛

 こうした世界観とも連動して構成された小学校をみよう。プール、グラウンド、裏庭、校舎、体育館は、フランケンシュタイン博士による怪物の培養のための実験室のような様相を呈している。グラウンドには土が盛られ、中央にはロダンの《考える人》の複製から身体部分がくり抜かれたエティエンヌ・シャンボーによる台座が据えられる。不在となった人間像の代わりに思考を繰り広げているのはAIのアルゴリズムであり、生物、人、物の見かけを溶解させながら無限にメタモルフォーゼを繰り返し続けるイメージが、巨大なディスプレイに映し出される。このユイグの作品は、イメージを見せられて連想中の被験者の脳内活動をfMRIでスキャンして、ディープラーニングによって再構成したイメージを素材にしているのだ。

ピエール・ユイグ タイトル未定 2019〜
Photo by Ola Rindal  Courtesy of the artist, TARO NASU, Marian Goodman Gallery and Houser and Wirth (c)Kamitani Lab / Kyoto 

 その隣には偶然か、巨大な石碑がモノリスのように据えられているのも目を惹く。この場所は、17世紀に岡山藩主として街づくり、儒教教育、神仏分離を推進した池田光政の隠居所跡でもあった。AIがビッグデータから合成するイメージと神道の霊性とが対置され、観客が徘徊しているグラウンド全体が、奇妙な儀式の場に見立てられるかのようだ。カラスの鳴き声が普段より大きく聞こえる盛り土のあいだでは、数人の男女が座って瞑想や会話、歌を口ずさんでいることに気づく。5〜6人の集団は立ち上がって、おもむろに石碑の裏側にある屋根のついた土俵のまわりに集まり、人工の蛇をその真ん中に奉納する。ティノ・セーガルからパフォーマンスの指示を受けたインタープリタ(演技者)は、ユイグが造園した廃墟の中で、精霊のように現実の観客とは無関心に活動している。

シーン・ラスペット ノアサガオ:IRBIiライトブルー✕IRBIiシルバーブルー
2019 撮影=石谷治寛

 グラウンドからプールを隔てる軒には放射能照射によって変異した朝顔が咲き、その奥にある地元のローカル放送局RSKの壁面に据えられたもうひとつのディスプレイには、地球の軌道を周回する蛙の映像が優雅に展開している。18世紀末に電池の発明につながったルイージ・ガルヴァーニによる蛙の生体電気実験の挿絵と、1992年のエンデバー号で宇宙遊泳をする蛙に両手が差し出される動画から着想を得て、ジョン・ジェラードが3Dで合成した映像である。近代の電気の発見から通信衛星までの200年の歴史が科学者の両手の中に委ねられているかのような鮮烈なイメージが、放送局の建物に重ねられる。さらに化粧品の色で満たされピンクになった水面が、ディスプレイの蛙の姿を反映する。

奥の映像がジョン・ジェラード《アフリカツメガエル(宇宙実験室)》(2017)、
手前のプールがパメラ・ローゼンクランツ《皮膜のプール(オロモム)》(2019)
Photo by Ola Rindal Courtesy of the artist, Thomas Dane Gallery and Simon Preston Gallery/Courtesy of the artist, Karma International, Miguel Abreu Gallery and Sprüth Magers

 この宙舞う蛙と人肌色の組み合わせは飛躍した連想をも誘う。魔法にかけられて蛙の姿にされた人間というのは多くの寓話の題材だ。著者が訪れたのが晴れた土曜日ということもあって、小学生の集団が先生に連れられて、この奇妙な光景を楽しんでいた。プールサイドで歌うインタープリタに釣られて、子供たちも合唱をはじめる。こうしたイメージの連鎖は、学校での解剖実験、水辺から聞こえる生物の鳴き声といった幼年期のノスタルジーをも喚起させる。こうして、未来のAIの思考が投影された長方形のディスプレイと、過去のノスタルジーが心理的に投影される長方形のプールの水面とが、対比されているようでもあった。このように、景観を協働でつくり出すユイグの芸術の方法を簡潔に要約するなら、生物や人工物がもとの環境から切り離され、人工的な培養液や培地へと移行され、新たな生育環境を再創造することにあると言えるだろう。

展示風景より、左がマシュー・バーニー&ピエール・ユイグによる新作(タイトル未定)、
右がマシュー・バーニー《安全圏の陰極》(2019)
Photo by Ola Rindal Courtesy of the artist and Gladstone Gallery, Marian Goodman Gallery

 水槽のように閉じた環境が構築されるいっぽうで、偶発性を招き入れる開かれた環境として廃墟が造園される。やどかりが自らの住処の殻を移し替えるように、新たな生息環境が創造されるのだ。小学校の教室2階に展示されるマシュー・バーニーとのコラボレーションはそうしたユイグの特異な芸術の方法論を要約している。展覧会の会期中、水槽と海洋生物が描かれたバーニーによる銅板が、金属イオンを含む電解液に浸漬され、電気めっきが施されていく。それは展覧会後にユイグの水槽に入れられてふたりの共作は完成する。他方で、この教室の窓は開かれ、観客も含めた異種の要素からなる風景を、タブララサ(空白の書板)上の生けるドローイングのように描き出す。この風景からは敷地内部の史跡だけでなく外部の現在の風景もが、廃墟の庭園の借景として取り込まれているようで、いっそう面白味を加えている。建設中のクレーン、アイサワ工業の旧事務所ビル、円筒形のシンフォニービルなどがパノラマに広がり、岡山の過去・現在・未来が展望される(*2)。

タレク・アトウィ ワイルドなシンセ 2019
Photo by Ola Rindal Courtesy of the artist and Galerie Chantal Crousel 

 体育館に設置されたタレク・アトウィのサウンド・インスタレーションでは、都市の工事現場の喧騒の代わりに、金属を打つ、石を擦る、弦が弾む、筒に扇風機で空気が吹き込まれるなど、楽器の部品が組み合わされて機械仕掛けの音楽が奏でられる。人間不在の響きから、宇宙と超個体への想像力が膨らむ。

スーパーオーガニズムの夢

 本展の想像力を言い表すならば、本稿タイトルのように言えるかもしれない。飛行機のフライト中に眠る乗客たちの姿を3Dスキャンしたエヴァ・ロエストのVR画像には、遠い未来の眼鏡を通して、現代人の夢を覗き込んでいるような不思議な感覚がある。この画像について、ユイグはカタログで「デジタル版ポンペイ遺跡」だと述べるが、同じくチリのチュキカマタ銅山で1899年に発見された炭鉱夫のミイラ(紀元550年の事故で亡くなったと推定される)にも関わるだろう(*3)。ユイグはチリの世界最大の銅山を調査したことがあり、砂漠化によって過去の風景が砂塵の中に溶解していく地質学的な時間にも感銘を受けたという。この電子的ミイラからは次のような問いが浮かぶ。現代の人間の姿を新種の生命体が夢見るとするならば、その姿はどのようになるだろうかと。

ミカ・タジマの展示風景。上が《 フォース・タッチ》(2019)、
下が《 ニュー・ヒューマンズ》(2019)
Photo by Ola Rindal  Courtesy of the artists and TARO NASU /Courtesy of the artist, Ishikawa Foundation, Okayama and TARO NASU 

 この観点から市内の各所で展示されている作品を想像してみよう。ミカ・タジマやメリッサ・ダヴィン&アーロン・ダヴィッドソンらによる作品群は従来の彫刻の枠を超えたものだ。生体データを変換して、熱、空気、磁力、水を制御することで育まれる環境や人工生命が、動的なメカニズムとして可視化される。オリエント美術館近辺には、砂漠のように極度乾燥化し、ウィルスによる熱暴走によって、個体の恒常性が壊れ、エントロピーが増大し、骨粉となって分散していく環境とともに、磁性流体のプールに現れる人工生命体が育まれる(未来へ加速された時間)。それに対して旭川周辺の水辺の地域では、微生物が繁殖され、負のエントロピーを保つ冷却システムの回路を通して、個体の恒常性が維持され、翼のようなひれを広げた人工マンタが活動する(遅延された時間)。また、SNS上の岡山市民の感情の揺れ動きは、煙や蒸気の映像として市民会館の壁に夜間投影される。こうした熱の入出力をコンピュターで自己制御する超個体の新陳代謝を通して、微生物やウイルスの乗り物としての人間の身体性が逆照射される。映画館では、人間によって資本として活用された動物の生態が赤外線撮影された映像として上映されており、その生物の夜行性の眼差しが、うたた寝する観客に向けられる。反転資本のダークエコロジーだ。

ピエール・ユイグの映像作品《2分、時を離れて》(2000)に登場する
キャラクター、アン・リー 撮影=石谷治寛

 林原美術館にはCGアニメのキャラクターであるアン・リーの映像《2分、時を離れて》(2000)が、ガラスケースの内側に映写されている。ほぼ等身大で投影された映像は、ガラスに反射する観客自身の姿に重なってみえる。アン・リーは日本のコミックマーケットでアーティストが著作権を買ったキャラクターで、このキャラクターがいかにして自由を獲得できるかという思弁的な問いに応じて、様々なアーティストたちが作品を制作するプロジェクトである。前回の岡山芸術交流ではドミニク・ゴンザレス=フォースターによる過去のバージョンも映画館で上映されたが、今回はセーガルが新たなライブワークで応じた。人間の姿を借りたアン・リーは日本語で自己紹介しながら観客にいくつかの質問を投げかける。「仕事で忙し過ぎるのと暇過ぎるのと、あなたはどっちがいい?」(いくつか異なるバージョンがあるようだ)。人的資源として労働市場に組み入れられ、そこから逃れられない観客の心を映す鏡のような存在が、アン・リーというキャラクターである。「幽霊なきただの殻(NO GHOST JUST A SHELL)」としてのアン・リーには、今回はその魂や宿主として、アルゴリズムが生成する人工生命体BOBも寄生する。イアン・チェンによる自己生成するCGがそれで、蛇のような人工生命体がかたちを変えながら巨大なディスプレイ上を飛び跳ねている。

イアン・チェン BOB(信念の容れ物) 2018-19 Photo by Ola Rindal 
Courtesy of the artist, Pilar Corrias and Gladstone Gallery 

ガラスケースの中のメタモルフォーゼ

 林原美術館は小学校とともに本展のもうひとつの核だろう。というのも前回の岡山芸術交流でもユイグの3作品が展示され、2017年11月に行われた本展のプレイベントの会場にもなり、過去作の展示は連続性のなかでもとらえられるからである(*4)。

2017年のプレイベントでのパフォーマンス「Swarm(蜜蜂の群れ)」の様子
撮影=石谷治寛

 プレイベントでは、ガラスケースに囲まれた展示室に入ると、LEDの仮面を被った無数のパフォーマーが、首を傾げたり、座ったり、壁に背をもたれたりしながら一定のパターンで徘徊していた(*5)。真っ暗な部屋は、最初は不気味な印象を受けたが、だんだんその場に慣れてくると、LEDの仮面で照らされる空間にも親しみが湧いてくる。あたかも観客のパーティーでの振る舞いを先取りするかのような動きに気づく。このパフォーマンスは「Swarm(蜜蜂の群れ)」と題されており、第1回で林原美術館の庭に設置された頭部を蜂の巣で覆ったユイグの彫刻《未耕作地》(2012)にも関連づけられていることがわかる(*6)。蜂の振る舞いが、仮面をつけた市民によって演じ直されているかのようだ。

2017年のプレイベントでのパフォーマンス「Swarm(蜜蜂の群れ)」の様子
撮影=石谷治寛

 さらにパフォーマーはガラスケースを覗き込む。LEDの仮面が照らす先には能面が置かれている。前回この展示室には、3.11から3年後の2014年に、福島の避難地域にある廃屋と化した居酒屋内で、能面をつけた猿が動き回る《無題(ヒューマン・マスク)》(2014)も上映されていた。ユイグによる頭部や仮面というモチーフは、ブランクーシ《眠れるミューズ》の縮小レプリカを水槽に設置し、それを海洋生物が住処にする《ズードラム4》(2011)にも共通している。そもそも前川國男設計による林原美術館が中庭をガラスで囲み、空間全体が巨大な水槽のようにも感じられた。

林原美術館の中庭の様子(2016年に撮影) 撮影=石谷治寛

 このようにユイグは、類似する要素を反復して、映像・パフォーマンス・環境として媒体を組み替えながら再演や再現を繰り返すことで、現実から少しずれた並行世界(IF)を実現する。今回の旧内山下小学校の景観全体は、林原美術館での過去の展示要素が、小学校の開かれた環境へと移行されたものだと考えられる。たとえばセーガルのインタープリタが地面に座る姿勢は、頭部が蜂の彫刻のポーズを思わせる時があるし、原発事故後の廃墟の街並みと本展のSF的世界観は通底している(*7)。

 今回の林原美術館で、能面は、アン・リーというアニメのキャラクターに置き換えられ、水槽は、アルゴリズムで生成される人工生命体のディスプレイに変わり、小学校2階の教室に水槽が移行される。このように林原美術館での過去のユイグ作品の連続性を想起すれば、水様生物から、ミツバチ、能面、猿、眠れるミューズ、横たわる裸婦、LED、アニメ、人間まで様々な生命体や人工物が、ガラスケースを媒体にしてメタモルフォーゼを繰り広げてきたのだ。人間のテクノロジーは環境を制御して生命を飼い慣らそうとするが、生命はその拘束から逃れて脱皮して変態を遂げる。ユイグの作品では、生命体は別の宿主に寄生しながら、別様な存在として共進化する可能性として肯定されるだろう。

メリッサ・ダビン&アーロン・ダヴィッドソン 遅延線   2019
Photo by Ola Rindal  Courtesy of the artists 

もし蛇が、、、

 岡山城のまわりの暗い土蔵の中に投影される映像は、魂の牢獄としての肉体の拘束感とともにそこからの解放を幻想するものに思える。サイボーグのように銀色にボディペイントしたリリー・レイノー=ドゥヴァールは、各展示会場を中心とした市内各所を蛇行の動きで横断し、身体性を力強く誇示するものだった。

リリー・レイノー=ドゥヴァール 以上すべてが太陽ならいいのに(もし蛇が) 2019
 Photo by Victor Zebo  Courtesy of the artist

 ポール・チャンのアニメーションでは、欲望のおもむくままに共同体を育み、軍隊による村の破壊や殺戮の後も、野を駆ける少女たちの集団的振る舞い(シャルル・フーリエのユートピア主義とヘンリー・ダーガーに基づく)が空想される。ある場面では花が映し出されて、そのまわりにはミツバチがブンブンと唸り、ミツバチと少女たちの姿とが重ね合わされているように思える。 芸術展の観客の行動もまたこうした羽虫の生態に似ている。地図やスマートフォンを片手に、ところどころに設置されたシーン・ラスペットの人工香料の匂いを嗅ぎながら、会場をせわしなく歩き回っているからだ。変異しうるミツバチ、蛾、ウィルスの視点から、電機仕掛けの人間を新しく想像し直してみること。3ヶ所に設置された蛍光灯に羽虫が接触すると電気が消えるフェルナンド・オルテガの装置とともに、電波で方向感覚を喪失し、ブルーライトに誘われる自らの死後(ポストヒューマン)のエコノミーをも予感しながら(*8)。

ポール・チャン 幸福が(ついに)35,000年にわたる文明化の末に(ヘンリー・ダーガーとシャルル・フーリエにちなんで) 2000-03
撮影=石谷治寛

 動物寓話のような想像力とアルゴリズムが生成するCG画像のメタモルフォーゼを通して、科学と生命、地域と労働、資本主義と教育の過去と未来を思考するための開かれた実験場が、今回の岡山芸術交流だろう。グラスビードによるエッセイやワークショップとともに、地域住民参加による映像制作やパブリックプログラムの充実は、開かれた芸術展の役割を補っている。

 「もし蛇が」という本展のタイトルは、続く文章が、将来の可能性に開かれた想像力の余白として残されている。アーティスティックディレクターは仮のエッセイを綴っているが、将来、別の物語がAIによって書かれるかもしれないし、また本展を目撃した人々の数だけ新しい物語が紡がれるはずだ。

*1──https://bijutsutecho.com/magazine/interview/14256(最終閲覧2019年10月22日)
*2──アイサワ工業は、シンフォニービルや岡山城など旭川周辺地域の建築物を施工し、加計学園獣医学部今治キャンパスも受注するなど、岡山や近隣地域の都市開発やインフラ整備を担い、「日本の明日を切り拓く」企業だ。
*3──ユイグは2014年にNYのハンターカレッジが運営するアーティスト・インスティテュートの企画に参加した。
http://theartistsinstitute.org/archives/pierre-huyghe/ (最終閲覧2019年10月22日)
それに合わせて制作された雑誌にチュキカマタ銅山の調査やコッパーマンに関する話題も収録されている。この雑誌に本展参加作家の多くが寄稿しており、「もし蛇が」はこの続編だと捉えることもできよう。
Pierre’s, The Artists Institute, 2016, p. 124. 
*4──前回の林原美術館では、レイチェル・ローズによるアニメーションも含む映像作品も上演された。彼女の作品で扱われた要素も今回のテーマに影響を与えているかもしれない。ちなみにイアン・チェンは彼女の夫でもある。
*5── LEDの仮面は、東京のエスパス・ルイヴィトンでも上映された2時間の傑作《ホスト・アンド・クラウド》(2009-10)でも使われている。ユイグにとって動物の仮面を用いた住民参加の祭りの催しは《Streamside Day》(2003)以来、形を変えて継続されているように思われる。
*6──ミツバチは、経済や社会の隠喩としても語られてきた。18世紀にはバーナード・デ・マンデヴィルが経済的自由主義を論じるために蜂の寓話を用い、20世記初頭にはモーリス・メーテルリンクがミツバチの行動を分業や社会性の寓話として語った。近年は、生物行動学の分野で、直接民主主義的な集団的意思決定のモデルとしても観察され、分子遺伝学の水準で、昆虫の脳の働きに関する研究も進められている。ユイグの《未耕作地》は、脳の神経系の働きを暗示すると同時に、頭部をCapital=資本や首都と読み替えるならば、都市に集住する現代資本主義を形象化したイメージとも解釈できる。ドクメンタ13では公園のコンポスト(堆肥場)に設置されて、生命の循環の中に置かれた。そして林原美術館ではガラス越しの芝生に置き換えられ、単なる観賞用の箱庭に転換された。現在は同じ芝生にはヤン・ヴォーによるNYの自由の女神像のレプリカ・パーツが設置されている。
*7──この観点から、岡山が事故後の被災者の移住地として西日本最大だったことも連想される。
*8──2016年の岡山芸術交流では、フィリップ・パレーノによるホタルのドローイングを映すLEDディスプレイが岡山県立図書館前に設置された。羽虫の生死と人工光のテーマがオルテガとも共通する。ユイグ《無題(ヒューマンマスク)》にも蛍光灯に群がる蛾の映像が挿入されている。またロンドンのサーペンタインギャラリーのユイグの個展(2018)では、ディープラーニングの映像を表示するディスプレイが展示されたギャラリーには、2週間の寿命のブルー・バタフライが放たれた。