『ネオ・エヌマ・エリシュ Eššu Enûma Eliš 』(マミー作)は約2600年前、新アッシリア帝国が全盛期を迎えつつある古代オリエント世界にタイムスリップした女子高生須藤英里を主人公にした歴史ファンタジー漫画です。月刊コミックガーデンで連載中。

簡単なあらすじ
カリスマ女子高生ギャル須藤英里(エリちゃん/エリ様)は姉のデートに付き合わされて博物館で見たバビロニアの創世神話「エヌマ・エリシュ」の原本とされる粘土板から聞こえる声に誘われて、気付くと紀元前669年の古代オリエント世界にタイムスリップしてしまいます。
バビロニアの最高神マルドゥクの使いという翼を持った白いライオンの姿を持つパズズの背からエリちゃんが落下した場所は新アッシリア帝国とクシュ・エジプト王国(エジプト第25王朝)が争う戦場。そこでアッシリアの皇子アッシュールバニパルと運命の出会いを果たします。パズズはアッシュールバニパル皇子の庇護下に入ったエリちゃんに、元の世界に戻るためには、七つに割れた「エヌマ・エリシュ」の原本を一つに集める必要があると語ります。
舞台となるアッシリア帝国の略史
最近ではセミラミスの名とセットで覚えている人も多いであろう、古代オリエント世界に君臨したアッシリア帝国ですが、その歴史は古く、紀元前2000年頃に遡ります。最後のシュメール王朝であるウル第3王朝に従属した都市国家アッシュールはウル第3王朝滅亡後の紀元前19世紀頃に勢力を拡大してメソポタミア北部を支配下とする強国「古アッシリア帝国」となりますが、古バビロニア王国を築くハンムラビ王らが独立して勢力を衰えさせ、長い雌伏の時代を迎えます。
紀元前13世紀頃、ヒッタイトやミタンニ、エジプト新王国らと争う大国の一つとして復調し、列強が次々滅亡する中で紀元前10世紀頃にかけて台頭して周辺を征服、「新アッシリア帝国」の基礎が築かれます。紀元前9世紀頃からは政治の混乱でまたも衰退期に入りますが、この衰退期に王妃として名前を残すサムラマト(前9世紀後半~前8世紀前半)という女性が後の伝説の女帝セミラミスのモデルとされています。

おそらく王朝の交替があり、新たに王になったティグラト・ピレセル3世(在位:前744~727年)やサルゴン2世(在位:前721~705)らが強いリーダーシップを発揮して周辺諸国を征服し新アッシリア帝国の王権を確立。作中で語られるようにセンナケリブ王(前704~681)がバビロニアを征服してバビロンを破壊しマルドゥク神像をアッシリアに持ち帰ってアッシリアの国家神アッシュールを最高神とするなど周辺諸国に君臨するようになります。
作中登場するアッシリア王エサルハドンは前王の行き過ぎた強硬策を改め、マルドゥク神像をバビロンに返還するなど融和策をとる一方で、シリア・パレスティナからナイル河下流にかけての中小諸王侯を支配下に置き、クシュ・エジプト王国を攻めて勢力を拡大するなど、強く聡明な王様だったようです。このあたりの、エサルハドン王に従属する諸国の君主たちや、苦杯をなめさせられたクシュ・エジプト王タハルカらが一巻の主要登場人物となっていますね。
激動の時代を描くための王道の魅力
激動の歴史ドラマ
本作の魅力として、まず、題材となった時代の面白さがあります。いよいよオリエント世界を制して覇権を確立する前七世紀の新アッシリア帝国と、その最盛期を築くアッシュールバニパル王が中心となっている作品は、これまで無かったように思われます。高校世界史でもニネヴェの図書館とセットで必ず習う知名度の高い人物ですが、日本語文献ではまとまった評伝すらありませんでした。定番である山川出版社の「世界史リブレット人」シリーズでも「ハンムラビ王」の次は(間に欠番がありますが)「ネブカドネザル2世」ですしね・・・
古代オリエント史はアッシュールバニパル王の登場を契機に、新アッシリア帝国の最盛期から瓦解、ネブカドネザル2世による新バビロニア帝国の建設、ペルシア帝国の侵攻、アレクサンドロス大王の征服、古代エジプト王朝の終焉、そしてローマ帝国による統一へと、怒涛の勢いで突き進みます。歴史が大きなうねりとなって人々を飲み込んでいく「激動の時代の幕開け」という“新たな天地開闢”がアッシュールバニパル王の時代であるわけですね。
作中では、父王エサルハドン、兄皇子シャマシュ・シェム・ウキンを始め諸侯や敵方まで古代の登場人物は皆歴史上実在した人物とのことで、巻末の30冊以上の参考文献一覧(ほかに海外論文や映像資料なども多数あるとのこと)からも、作中の描写の細かさからも綿密な歴史考証がされているように思われます。
王道エンタメ設定
次に、このような歴史ドラマを描くために、わかりやすい王道の設定を上手く取り入れている点です。例えば、女子高生主人公のタイムスリップ、分散した七つの破片を集めることで願いが叶うといった設定は、多くの作品で幾度も使われてきた定番の設定ですが、これがわかりやすい導入であると同時に主人公の目的でありメインストーリーとして生かされています。主人公エリちゃんは現代世界へ戻れるのか、七つの破片を集めるためにどのような困難が待ち受けているのか、そもそも、その目的を提示する怪物的な外見のパズズとは何者なのか。
余談ですが、古代オリエントにタイムスリップと言えば『天は赤い河のほとり』だよなぁと連想していたら、『(略)そうすればチグリスは赤い河となる』(158頁)というセリフが出てきてにやりとさせられましたね。
異文化交流と価値観の衝突
そしてタイムスリップや異世界転生・転移ものにはお馴染みの現代と訪れた先の世界との価値観の衝突、目新しい文化や社会の相違と発見などが次々と魅力的かつ印象的に描いてくれるので、一気に古代オリエント世界へ惹き込まれます。古代エジプト飯、実に美味しそう。本書が参考文献の一つに挙げている遠藤雅司 著『英雄たちの食卓』によればモロヘイヤのスープはクレオパトラの饗宴で出されたそう。古代エジプトの豊かな食文化はつとに有名ですが、作中、美味しそうに食べるエリちゃんとともにヴィジュアルで見せてくれます。
美味しい食事だけではなく、主人公に対する登場キャラクターたちの態度から見える当時の社会の女性観や、捕虜への残虐な刑罰から見える現代の人道的な観点とは大きく乖離した価値観などがドラマティックに描かれ、大きな盛り上がりを見せていきます。そして、ただ流されるだけではなく、置かれた立場できちんと考え、決断して、エリちゃん改めエリ様と言いたくなるかっこいい主人公力を発揮していくことになり、歴史大河作品の開幕としてはとても満足いく読後感の一冊でした。
気になる登場人物たち
登場人物としては主人公エリ様、アッシュールバニパル皇子がバディとしてどう関係性を築いていくかは勿論ですが、皇太子シャマシュ・シェム・ウキンのスマートな顔の裏側に潜んでそうな「何か」にもゾクゾクさせられます。そしてサブキャラたち、特に明らかに知恵が回りそうなエジプト人諸侯ネコ王の子ナブー・シェージバニは、古代エジプト史に燦然と輝くあの・・・(以下ネタバレ自重)。
そして海の国(カルデア)のヤナキことナブー・ベール・シャマティ、おそらく後の不屈の闘士っぷりを見せるまではストーリー進まないと思いますが、同時代人物の中では気になる人物の一人だったので、すでにシャマシュ・シェム・ウキンへの忠義MAXですが、今後の活躍楽しみです。パズズはまぁほら、その名前も色々有名なので、どう物語を動かしてくれるか、彼の挙動にドキドキしながら読んでいきたいですね。
他、知らない人物も多く、あきらかにアレなイナロスの父バクエンレネフ三世はエジプト第24王朝のファラオ・バクエンレネフの縁者だろうか、とか、当時の歴史を知るきっかけとしてとても興味深いです。
作者の「好き」が詰まった作品への期待
作者マミーさんのアッシリア愛がふんだんに詰まった作品で、歴史漫画好きとしてはこういう著者の「好き」を煮詰めた作品は本当に大歓迎で読ませてもらえるだけで嬉しい。「好き」を作品として世に送るためには、その過程で多大な努力と工夫が必要で、その過程が作品のオンリーワンな魅力を生んでいくのではないかと思います。
歴史漫画はまだまだ厳しい時代が続くと思いますが、作者自身の推しの時代や人を描いた物語が、つまり歴史への愛を作品へと昇華させた歴史漫画がもっともっと増えていくことを願ってやみません。
参考文献
・大貫良夫,前川 和也,渡辺和子,屋形禎亮 著『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント(中公文庫)』(中央公論新社,2000年,原著1998年)
・小川英雄,山本由美子 著『世界の歴史4 – オリエント世界の発展 (中公文庫)』(中央公論新社,2009年,原著1997年)
・遠藤雅司 著『英雄たちの食卓』(2018年,宝島社)
・エイダン・ドドソン/ディアン・ヒルトン 著(池田裕 訳)『全系図付エジプト歴代王朝史』(2012年,東洋書林)