私は紆余曲折の中で、語る場を得て、語る相手によって自分の言葉が豊かになり、自由になっていくことも繰り返し経験した。それは、私の「語る能力」の問題ではなく、「語る場」の力の問題だった。だから、私は対話それ自体の価値ではなく、対話の成立する場に関心を持った。
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私は今、人前で語ることは苦ではなくなったし、少し圧のかかる場や、語りにくい場でも、語ることを成立させる技術が多少はある。それでも今でも私は、危険だと思う場や相手は避ける。そのことを「逃げた」と言われたことも何度もある。だが、私は自分が語ることを「選ぶ」ことを大事にしている。
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その結果、私の言葉が届かなくなっても、それは悪いことではない。多くの人に向かって語ることと、少ない人に向かって語ることとの価値は変わらない。1人でも耳を傾けてくれる人がいるなら、それで幸せだということもある。研究者の職に就いている以上、難しいことはあるが、私の基本はそうだ。
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それに、ある人が沈黙を破り、たった一言、秘めてきた言葉を口にしたときの、小さくて静かな衝撃を私は知っている。それは友人同士でも、研究会でも、授業でも、どこの語る場でも起き得る。それを待つためには、私たちは忍耐強く相手の言葉に耳を傾けなけらばならない。私にとって対話とはそういうもの
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本当は語ることより、聴くことはずっと難しい。何度も言われてきたことだけど、今さらそんな基本に戻ってしまう。語る技術より、聴くための構えを身につけたい。(私はすぐ語る側に傾くので、余計にそう思う)「あなたの言葉を聴きたい」ということを伝えられるかに、対話の成否はかかっている。
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