[2-52] 分岐条件:あらかじめ【キャサリン】に【護符】を渡す
礼拝堂は貴族の住居に付きものの施設だ。
日々の祈りを捧げるため度々城を出て神殿へ向かうというのは合理的じゃないし、種々の宗教的式典を行うにしてもプライベートなスペースで誰憚ることなく執り行えるならその方が良い。何よりちゃんとした礼拝堂を持つのはステイタスシンボルであり、敬虔な神の使徒であることの証明でもあった。
シエル=テイラが小国と言えど、各地に封じられた領主たちは自らの城に立派な礼拝堂をこしらえる程度の力はある。ここエドフェルト侯爵居城も例外ではなく城主一家と城に勤める人々の祈りの場として礼拝堂が存在した。
静謐で神聖な祈りの場は、しかし今、不安げに囁き合う人々でごった返していた。
全体に小綺麗な服装の人々が多かった。“怨獄の薔薇姫”が動き出したことを受けて避難してきた、城下に住んでいる騎士の家族たちだ。あとは城の使用人も混じっている。さすがに一般市民はここには居ない。
「神よ、あなたの
硬く手を握り合わせた老婦人が祭壇に向かって祈りを捧げていた。
城の中は比較的安全だろうし、相手がアンデッドなのだから聖気に満ちた礼拝堂はさらに安全だろう……ということはみんなして考えるもので、特に指示を受けたわけでもないのだが人々は礼拝堂に集まっていた。
祈る者あり、不安に狼狽える者あり、貴族的行為に励む者あり。
「奥様ご存じ? 今、真珠を曳いた粉をお肌に塗る美容法が流行し始めているのですってよ。主人に無理を言って取り寄せさせたら、とても調子がよくて……」
「あら、私はめっきりフレスヴェルグの鉤爪ですわ。あのなんとかっていう成分がいいらしくて……調合師の先生に薬にしてもらって毎晩飲んでおりますの」
「あなたがた、お肌のことよりお召しになるもののことに気を付けてはいかがかしら。危急の折と言えど侯爵様のお招きですのよ? 私のこれは連邦の最新モードで……」
「それをおっしゃるのでしたら、なるべく価値あるものを身につけてくることこそ大切ではありませんの? いざという時にお金にできる、そう、実利というものですわ。戦いに勝つためには私どもの振る舞いも大切。ほら、私の首飾りなんて……」
清貧さを醸す長椅子に座り、見栄を張り合い鞘当てする貴婦人たち。
キャサリンはなんとなくそういう空気に近寄りたくなくて礼拝堂の隅に佇んでいた。
モヤモヤとしたキャサリンの気持ちに、大人の語彙で名前を付けるなら『隔意』。
この場に居てキャサリンは祈ることも不安になることもできなかった。ここに居る誰とも自分は違うのだと……キャサリンはそんな気がして、目立たない壁際でモヤモヤしていることしかできなかった。
それはもちろん、父や兄たちや姉のことは心配だし、自分のことだって心配だ。だけどキャサリンのその気持ちはきっと、どこか微妙にズレている。他の人とはズレている。
見ているものが違うから。見えている世界が違うから。
誰ひとり救われない悲劇の中に放り込まれているのだという想いがキャサリンの気持ちを暗くしていた。
――私は……今、何か……何も、できないのかしら……
迷いに誘われるように、ホールから一歩外れて倉庫らしき部屋が並ぶ廊下の方へ向かった、その時だった。
――なっ……!?
おぞましい感触が。
冷たく波打つ砂の塊みたいなものが、キャサリンの背中を裂いて身体の中に突っ込まれた、という気がした。
稲妻に撃たれたようにキャサリンは身体を震わせる。
甘美な死の予感がキャサリンの脳髄を揺さぶった。
目の奥にチカチカと闇が瞬き、黒い微笑みを見たような気がした。
そして、その奥から押し寄せてくる濁流のような……感情の嵐。
――あ、ああ、あ……! にくい、悲しい、痛い! こ、心が、やけてしまう……!
そして、キャサリンの中に入ってきたそれは、弾き出された。
「あっ!? ……ぷはっ! はぁっ……」
キャサリンに繋がっていた何かが、千切れる。
キャサリンは押し出されるようにたたらを踏み、逆にキャサリンに繋がっていた何かは反対に吹き飛ばされて空中でぐるりと一回転した。
息を切らせながらキャサリンは振り向いて……全身総毛立った。それが恐怖によるものか感動によるものか、もはやキャサリンには分からなかった。
暗がりの中に輝く銀色の月。銀髪銀目の少女の霊。キャサリンと同じように彼女もまた、驚いた顔をしていた。
霊体の表面にチリチリと光が弾ける。礼拝堂に満ちた聖気が邪悪な霊体にダメージを与えているのだ。
「あなた……ルネ!?」
『……っ!!』
キャサリンが名前を呼んだ瞬間、ルネは『とても怒っているのに泣き出しそう』としか言いようがない顔になった。
そして彼女は身を翻し、風より早く飛翔して消えてしまった。
「あ、待って!」
伸ばしたキャサリンの手は空を掴んだだけで、その代わり、何かが落ちてゴトリと音を立てた。
しゅうしゅうと白煙を立てる金属の板みたいなもの。それはキャサリンがバーティルから貰った護符だった。服の上から帯を付け、そこに挟んで持っていたものだ。
黄金に輝いていたはずの護符は、墨にでも浸したように八割方が黒ずみ、燃えさしの薪みたいに白煙を吹いていた。
「これは、いったい……」
ドキドキとうるさいくらい働いている心臓に手を当て、キャサリンは呼吸を整えていた。
キャサリンの中に流れ込んできた激情の残滓が、まだ胸の中で燃えているかのようだった。
* * *
「ゲイシャ!!」
「あっ!?」
踏み込みの体重を乗せた斬撃が見舞われる。
チャンシーはそれを躱しきれず、辛うじて籠手で受け流し、弾かれるように体勢を崩した。
それを見逃すウダノスケではない。
「ハラ!」
横切りが胴着を裂く!
「キリ!」
縦切りが胴着を裂く!
「SMAAAAAAAAAASH!!」
渾身の袈裟斬り!
チェンシーと交差して駆け抜けたウダノスケは、弾けるような音を立ててカタナを鞘に収める。
「斬り捨て御免!」
そして。
近くに居た虎型聖獣が血飛沫と臓物を巻き上げてバラバラに吹き飛んだ。
「……ぬん!?」
「ハイ!!」
「ぬオっ!」
ウダノスケの後頭部にチェンシーの跳び蹴りが突き刺さった。ダメージを受けながらもウダノスケは自ら前方に飛び込んで受け身し、体を翻して構えなおす。
「あっぶな……死ぬかと思ったわ」
チェンシーは青ざめて引きつった顔をしていた。
自分の服から長いリボンのような房状の飾り紐を引きちぎり、ハラキリスマッシュで切り裂かれた胴着の胸元を上から縛り上げる。
道着の下から覗く、つるりと白い肌は無傷のまま。血の一滴たりも流れていなかった。
「面妖! なンたる
ウダノスケが理解に苦しむ悪態をついた。
チェンシーが本来受けるべきだったはずの傷は、近くに居た虎型の聖獣が全て引き受けていた。
聖獣にオプションとして付与された能力『サクリファイス』だ。近くに居る味方が受けるはずであったダメージを代わりに引き受ける。
この能力は、一騎当千の駒に補佐として帯同させれば最大限に活かされる。そう、例えば“零下の晶鎗”が十回殺されても死なないとしたら?
「……なるホド、どウやらソの聖獣ドもかラ片付けネばなラぬよウだ」
「そう上手くいくかな?」
「いくトも」
ウダノスケが酷薄な笑みを浮かべると同時。
激しく輝きつつ展開される魔方陣が虎型聖獣のうち一匹を包み込み、吹き出す血煙とともに、デタラメに継ぎ合わされた骨と筋肉の塊みたいなものに変えてしまった。
「なに!?」
ウダノスケが、カタナから片手を離していた。左手の指の間に挟まれているのは投擲用ナイフのような何かだ。
――今、何をした!?
あの投擲武器を投げた、のだろうか。
何らかの魔法が仕込まれたマジックアイテムらしいが、それにしたって一撃で聖獣を仕留めるのは信じがたい。
鳥型の聖獣が警戒するように一声鳴いて、それを合図にするように周囲の聖獣たちがウダノスケから距離を取った。
「させない!」
地を蹴って滑るように突進していくチェンシー。だが。
「うぎゃあああ!!」
後方から悲鳴が飛んで来て、チェンシーは急ブレーキを掛けた。
「後ろ!?」
「げほっ!」「ぎゃっ!」「た、たた助けあがあっ!」
立て続けの悲鳴を聞いて振り返ったときにはもう遅い。
“零下の晶鎗”に続いて突撃し、アンデッド兵たちと戦っていた下級冒険者たち。それが、麦の穂を刈り倒すように乱雑に殺されていた。
ほんの数秒で半分ほどが死んでいた。残りは見えない壁に押されるように後ずさり、“零下の晶鎗”のところまで逃げてくる。
血の海、死体の山を踏み越えて姿を現したのは二匹のアンデッド。
片方は赤い竜鱗の鎧を着た
「なんだなんだ、全く手応えがねぇぞ」
「ソこの五人はイくラカ面白そウだ。獲物を奪っテもよロシいか? ウダノスケ殿」
血塗れの剣を携えて、二匹のアンデッドがやってくる。
家の近所を散歩するような気安さで、しかし油断なく。
「遅参にゴザルぞ、コクソン殿。ダが助太刀は歓迎ダ」
――伏兵……! このサムライと同等のアンデッドが……さらに二体か? くそっ!
後方から現れたのもエース級の札だ。まさかこれだけの戦力をまだ伏せているとは思わなかった。
挟み撃ちだった。アンデッド兵の陣に斬り込んだはずの冒険者たちはいつの間にか包囲されていた。冒険者たちと聖獣たちの前後に三体の強大なアンデッド。そして周囲にはアンデッドの雑兵たち。
さらに奥に控えているのは屍の巨人。
膝と手を突いて身体を安定させた巨人の肩に、また、鈴生りに魔方陣が展開された。
ズポン! と独特の滑腔音を立て、推進力を与えられた岩塊が魔動力射石砲から飛び出す。うち数発は城壁上に控える術師が魔法で着弾前に破壊したが、残りは街壁を突き崩していく。
「くっ……!」
進退窮するとはこのことだ。
しかも付いてきてくれた冒険者たちをだいぶ死なせてしまった。これだけの死人が一気に出たらまず蘇生が追いつかない。
――いや、後悔している場合じゃない。今はまず巨人に手傷を負わせることだ。それさえできれば、我々に勝ち目が……!
しかし状況は厳しい。
ただでさえ敵は強い。おまけに切り札だったはずの聖獣に特攻武器を用意している。
対して、生き残りの冒険者たちは狼狽しきってもはやまともに戦える状態ではない。聖獣たちまで動揺しているのか、チラチラと辺りを見回すような仕草を見せている。
「聖獣が……動揺している? いや……」
ゼフトは自分の情緒的な考えを否定した。
――なんだ? 何が起こった?
聖獣たちはしきりに街の方を気にして、何かをゼフトに訴えるように低く鳴き交わしていた。今すぐにでも向こうへ飛んで行きたそうに。