[2-51] 一匹見れば五十匹
「ひえええええ……」
「神様……」
ズンと辺りが揺れて、何かが壊れ石が崩れるような音が遠くから聞こえて、不安げなざわめきが起こる。
集会場のホールは人でごった返していた。聴衆のために用意された長椅子は病人や老人のためのベッドにされ、残りの者は石の床に毛布一枚敷いて寝床を作っているような状態だ。各々自分の縄張りの上で窮屈そうにしていた人々が、今は怯える草食動物のように身を縮めていた。ロウソクみたいに頼りない魔力灯の光だけが、辛うじて闇を払っていた。
「なんだ、今の音は……?」
アルボーは無骨なアーチを描く石の天井を見上げて呟いた。埃か何かがパラパラと落ちてくる。
アルボーは農民である。テイラカイネ近くの農村に暮らしていたが、穏やかな冬ごもりの日々は唐突に終わりを告げた。突如として現れた恐ろしいアンデッドの群れが村に火を放ったのだ。“怨獄の薔薇姫”の軍勢だ。
着の身着のまま荷物も持てず、命からがら村を逃げ出し、他の村人と連れだってテイラカイネまで逃げてきた。領主様ならばきっと助けてくれる……かどうかは判然としなかったが、他に頼れるものもない。
ひとまず屋根と壁のある場所で寝られそうだし、薄いスープで腹の虫を黙らせることもできた。だけど、これからどうなるのだろうか。
“怨獄の薔薇姫”はテイラカイネにも攻めてくるのだろうか。今の音は?
「お父さん……」
小さく柔らかなものが手に触れて、アルボーは我に返った。
娘のソリアが不安げにアルボーを見上げ、縋り付くように手を繋いでいた。
「大丈夫。大丈夫だ、ソリア。お前のことは絶対に守ってやる」
何が大丈夫なのか分からないがアルボーは娘を抱きしめた。土の匂いがした。
失えるものは全て失ってしまったような状態だ。
それでもアルボーの下にはまだ家族が居る。妻が、息子が、娘が居る。凡百の農民と自認するアルボーにとって、家族は唯一、自分が生きた証と思える存在だった。
「≪
「え?」
ソリアが突然、よく分からないことを言った。
闇が迫った。
窓という窓が黒く埋め尽くされていった。
雲を透かしてわずかに差し込んでいた月の光が消え失せていく。
まるで粘土でも伸ばすように壁の石が引き延ばされ、窓を埋めているのだ。
何が起こったのか分からなかった。
唖然としていたアルボーだが、繋いでいたソリアの手が急に体温を失って冷たくなっていくような気がしてすぐ隣を見た。
「……え?」
銀色の少女が牙を剥き、アルボーの首筋目がけて飛びかかってきた。
* * *
テイラカイネの街の中にいくつか存在する『避難所』。
街へ逃げてきた人々が詰め込まれた建物が次々と、出入り口をことごとく塞いだ石棺と化していった。
その様子に外から気がついた者はごく僅か。奇妙な事件に気がついたとしても、これが何なのか、そしてどうすれば良いのかなど分かりはしない。
もし石の箱に注意深く近寄ってみたならば、内側から響く数十数百の悲鳴に気付いたかも知れない。
逃げ場のない閉じた箱の中で、増え続けるブラッドサッカーから逃げ惑う犠牲者たちの叫喚に。
街中に配置された聖獣たちも、騎士団の魔術師も気がつきはしなかった。
なにしろ、避難所を取り囲むように気配遮断のためのマジックアイテム『隔絶の楔』が
* * *
閉ざされた箱の中で人を襲う銀色の少女吸血鬼。
血を吸われた者は、干からびた身体と虚ろな目をした劣等種の吸血鬼・ブラッドサッカーとなり、自らもブラッドサッカーを生み出すべく周囲の者に襲いかかっていく。
避難所は、ブラッドサッカーを大量に調達するための苗床だった。
「確定か」
バーティルは水晶玉越しに惨劇を見ていた。
キャサリンの推測、二度のノアキュリオ軍襲撃における戦い方……そして『隔絶の楔』を使うよう命じられた時、この展開にはおおよそ察しが付いていた。後は答え合わせだ。
バーティルは『隔絶の楔』を仕掛けた避難所の中に、同時に遠見のためのマジックアイテムを仕掛けておいた。それを通じて内部を覗き見ているのだ。
水晶玉の中で暴れに暴れていた銀色の吸血鬼が突然、垢抜けない少女の死体となって崩れ落ちる。
すると直後、別の水晶玉の中……平穏だったはずの別の避難所に彼女は現れた。魔法で逃げ道を塞ぐと逃げ惑う人々に食らい付き、ブラッドサッカーを増やし始める。
「人……10歳前後の少女だけに憑依。吸血鬼化し、感染を広げ……用済みになった身体は捨てて魂で移動する。憑依が解けた身体は人のものに戻る……が、死んでいる。
憑依先が少女ばかりなのは好みの問題か? あるいは、少女でなくば憑依できないのか……
移動は一瞬だな。転移か? それともこの速度で飛べるのか?」
バーティルは、並んだ水晶玉の中の惨劇をじっと観察していた。
「やれやれ。どうやら俺は『民の命を差し出して犠牲にした下衆野郎』になるだけで済んだな。……得るものはあった」
ただルネの言う通りにしてみすみす勝ち逃げさせるのでは芸が無い。もったいない。
今もって秘密のヴェールに包まれているルネの能力をほんの少しでも見ることができたなら、きっと、いつかはルネを倒すことに繋がる。数え切れないほどの屍を積み上げた果てにしかルネを倒す道筋は見えないのだろうとバーティルは予感していた。
――しかし、もしルネちゃんが心を読むってのが本当なら……知っててよかった。
下手したら近くに隠れて自分で様子見しようとしてたとこだよ。そしたら多分見つかっちまったろうな。
まあ避難所内に仕掛けたマジックアイテムを発見される可能性もあるのだが、その時はその時だ。
水晶玉の向こうに見える光景は、憔悴しきった様子の人々から蠢くアンデッドの群れへと変じていく。
この街はもう、終わりだ。
充分に手駒が増えたところでルネは石棺を開封して回るだろう。一体一体は大したことなくても、これだけの数が揃えばテイラカイネは瞬く間に食い尽くされる。
マークスはどうする気だろうかとバーティルは考える。自分だけ生き残ったとしても、自分の街を失えば死に体になってしまう。となるとブラッドサッカーの駆除に戦力を割かねばならないところだが、それはおそらくルネの思うつぼだ。市民を守ろうとする動きがあれば確実にその隙を突いてくる。
では、手元の戦力を殿にしてジスランとふたりで脱出するのだろうか。仮にそれで逃げ切れるとしてもそれは街の防衛を放棄するということで。
そう、つまり、あらためてバーティルは思う。終わりだ。
「……さて、生き延びるとするか。生きて伝えにゃなるまいて」
バーティルは並べていた水晶玉と
そしてそれをポーチや鞄に収めると剣を抜き、夜天に身を躍らせた。
連休明けくらいまで更新間隔乱れるかも知れません