教育においては完全習得学習の理論というものがあって、一言でいうなら時間をかければ誰でも同じ水準に到達可能だという理論です。身体能力では同様の理論は支持されないでしょう。 それぞれの能力に本質的な違いがあるのかは微妙ですが、倫理的センサーはそういった思想から来るものだと思います。
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・両者とも「程度」の問題だが後者は感覚的に分かりにくい ・「程度」を加減する尺度として「頭が~」は適切でない の2つがあるのかとも。 「何故これができないんだ」など理屈でトコトン追い詰めれば、退職や自殺に追いこめ、「程度」の加減は要る。 ただ、その尺度は相手の精神状態等か。
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多分、「頭が悪い」を包括しすぎる表現に使うからかと。 学習障害的な問題で単純な説明では相手に理解できない(脳障害的理由)ものと、単純に小中学生レベルの読解力が身に付いていない勉強不足的なものの両方を「頭が悪い」の一言に纏めてしまっているのが問題かなぁ、と個人的には解釈してます。
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体力は誰でも弱かった時代があり、いずれ衰えるものですし、差があっても本質的には平等だという認識があるものですが、「頭が悪い」は未熟さや衰えも含まず、自分は該当しないという立場からの言葉で、相手を本質的に下に見ている態度なのではないでしょうか?
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体が弱いは侮辱にならなくて、 頭が弱いは侮辱になるから、 という想いがあるからかなぁ…。
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頭も体の一部だから本質的な違いはないはずだけど、、 先天的に体が弱いのと、 運動不足で体が弱いのは違う、 みたいなこと、、?
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しなければいけないことには配慮が必要かも知れないけど、自分で望んでやるのならそうでもないかと。
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ぼくはこれ茶化したりおちょくりに発展したり、よくできました、おわかりですか?ってあからさまに下にみる発言さえしなければ気にしなくて良いと思います。たまによくみる
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前者は対象者を対等な存在とした上で、困らないよう慮っています。 一方で、後者の「理屈で追い詰める」のはそもそも対象者を理論で潰す、返答に困窮させる目的です。それを手加減してあげて、というのは戦うのに格下である(見下している)ように見えるからではないかなと思いました。
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