アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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「桜を見る会」の源流は天皇主催

2019年11月16日 | 天皇制と安倍政権

    
 

 安倍晋三首相が政府(首相)主催の公的行事である「桜を見る会」を自分の後援会活動に利用してきた問題は言語道断で、徹底追及しなければなりません。
 同時に、そもそも「桜を見る会」とはどういうものか、その歴史・本質にも目を向ける必要があります。

 「桜を見る会」は1952年に吉田茂首相(当時)によって始められたと言われていますが、それは正確ではありません。確かに今日のような政府主催になったのは1952年からですが、「桜を見る会」自体の歴史はさらにさかのぼります。第1回の「桜を見る会」(当時は「観桜会」)が行われたのは1881年(明治14年)4月です。

 「明治12年9月に外務卿に就任した井上馨は、日本が欧化して列強に安心感を与えることで条約改正を達成することを課題とした。…井上は、天皇皇后が出御し立食パーティーを行う観菊会・観桜会と、新年宴会・紀元節宴会・天長節宴会の三大節宴会に、外交官を招待することも企図した。明治13年11月18日に第1回の観菊会が赤坂離宮で、翌年4月26日に第1回の観桜会が吹上御苑で開催される」(西川誠著『天皇の歴史7 明治天皇の大日本帝国』講談社学術文庫)

 「菊」は皇室の紋章、「桜」は古来「大和心(魂)」を表すものとして天皇への忠臣と関連付けられてきました。「観桜会」は「観菊会」とともに、欧米列強に対抗するため天皇の権威を高める手段の1つとして始められたものです。

 それが戦争・敗戦によって中断し、1952年に吉田内閣の下で復活しました。1952年といえば日米安保条約が発効(4月28日)した年です。日米安保条約を強行した吉田は、同時に天皇制の復活に着手しました。
 天皇(裕仁)が国民体育大会(51年10月)、全国植樹祭(52年4月)に出席し始めるなど、天皇の権威を誇示する動きが相次ぎました。天皇が「各界の功労者」を招いて言葉をかける「園遊会」も53年11月に始まり、今日に続いています。

 「吉田の天皇制復活構想のねらいは、明治憲法下で天皇が持っていた民衆に対する絶大な権威のみを、天皇が持っていた政治権力と切り離して、戦後の政治制度の中に移し保持したい、ということであったと思われる。だからこそ、吉田は、民衆に対する権威の維持に役立つような、伝統的諸制度の復活に心がけたのである」(渡辺治著『戦後政治史の中の天皇制』青木書店)

 その一環として復活したのが「観桜会」でした。それを「桜を見る会」の名前にし、天皇主催から政府(首相)主催へ変えた詳しいいきさつは分かりませんが(私の勉強不足)、翌年から天皇主催の「園遊会」が春と秋の年2回開かれるようになったことと関係があるのかもしれません。

 それはともかく、「桜を見る会」(観桜会)がもともと、天皇の権威を高めるために始められたものであり、それを政府が引き取って、日米安保体制下で政府(国家)の権威をたかめるために再開されたという歴史を銘記する必要があります。
 それを政権幹部や自民党議員はこれまでも自分の支持基盤の維持・拡大に利用してきました。その点で、「桜を見る会」は同じく戦後復活した「叙勲」制度と同類・同根と言えるでしょう。

 安倍氏は来年の「見る会」は中止すると言明しましたが、廃止するとはいいません。それは上記のような天皇とかかわる歴史・経緯をもつからでもあるのではないでしょうか。逆に、だからこそ、「桜を見る会」は中止ではなく廃止すべきです。

 

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