[2-42] マグロ・サンダーボルト
キーリー伯爵領の領都エルタレフからテイラカイネまでは、普通に行けば3日ほどの旅程だった。
ただ、最短距離を行こうとするとどうしても王都を通過することになる。
それはどう考えても危険すぎるので、オズワルドは北回りのルートを取ることになった。途中でアラウェン侯爵、テューダー伯爵の居城にご厄介になり、意見交換などしながら6日間かけてテイラカイネへ向かう。
途中で会うふたりのみならず、オズワルドは諸侯のうち数人に事前に連絡を取っていた。それぞれに考えはあったが、ジスランの考えを図りかねて気に掛けている者は多かった。
皇太子に立候補するとされるジスランと会談し、その真意を探る。
オズワルドは反ヒルベルト派だった諸侯を代表してテイラカイネへ向かっているようなものだ。
――そうは思ってくれない者もいるようだがな……まったく。あの会議の一件でずいぶんと嫌われたようだ。
溜息をつく代わりに、オズワルドは宿の天井を睨み付けた。
ここはヘンズリー伯爵領、宿場町タルホ。数件の宿が並ぶ中で最も上等な所を貸し切っている。本当なら道すがらヘンズリー伯爵にも会いたかったのだが断られてしまった。
ヘンズリー伯爵はオズワルドと同じく反ヒルベルト派だった。だが、オズワルドがジスランに賛意を示したことで裏切り者と考えているようだ。
まあ、領内を通ることまで止められはしなかったが。
――これで本当に正しいのだろうか。
幾度となく、オズワルドは自問した。
心情的にはエドフェルト侯爵の押し立てるジスランになど協力しがたい。背後にはノアキュリオの影もちらついている。だが、あくまでもジスランは正統な手続きによって皇太子に、そして王になろうとしているのだ。どうしてそれを止められようか。
別の皇太子候補を擁立し、皇太子を決める諸侯会議に向けて多数派工作を仕掛けるというのは、それはそれで良いだろう。だがそれでジスランとエドフェルト侯爵を阻止できるかは別の話。ノアキュリオ王国と諸侯の大半を味方に付けたエドフェルト侯爵は、今シエル=テイラの政治的な力を一手に握っていると言ってもいいだろう。ゆえにオズワルドは、ジスランの即位を織り込んで動いているのだ。
――……その結果としてこの国はどうなる? 我らの立場は?
いや、どうもこうもあったものではないな。民無くば国あらず、国無くば民あらず。国を失ってしまった民に、新たなシエル=テイラを捧げねばならぬ!
その時、控えめに扉がノックされてオズワルドは思考の迷路から舞い戻った。
「失礼致します。アラウェン侯爵からの通信文が届いております」
「入れ」
帯同している従僕のひとりがやってきて、封がされた通信局の封筒を手渡す。
オズワルドはすぐにそれを開いた。
通信を書き写す通信局員に筒抜けにならないよう、簡易的に暗号化された通信文。
それは悪い報せとまでは言えなかったが、オズワルドが頭を抱えるに充分なものだった。
* * *
宿の食堂兼談話室にある暖炉の前に、伯爵一家が集まっていた。
オズワルドの他にはハドリー、スティーブ、プリシラ、キャサリン。
長男トレヴァーは領地でオズワルドの名代として留守を預かっている。
春の日の陽だまりを思わせる色の炎が揺れる暖炉。
可愛らしい絵皿とか、名も無き芸術家の風景画とか、落ち着いた雰囲気の調度品が並ぶ食堂は本来ならくつろぎと団欒の空間なのだろうが、踏み固められた雪のように空気は張り詰めていた。
「ノアキュリオ軍がやられたって?」
「ああ。今し方、報せが届いた。
本国からこちらに向かっていた補給部隊は壊滅。さらに昨日、テイラカイネに進駐していた前線部隊が奇襲を受け、兵員数十名が死傷。兵糧を焼き払われたそうだ」
「“怨獄の薔薇姫”か……
ざまぁ見ろノアキュリオ、と言いてえとこだが……何かあったのか?」
歯に衣着せぬスティーブの言い草に、ハドリーは眉をひそめていた。
“怨獄の薔薇姫”によるノアキュリオ軍への襲撃。ゲリラ的戦術で出血を強いて疲弊させるやり口からは、ひとかどの軍略家であることが見て取れる。オズワルドの想定以上の脅威と言えるだろう。だが本題はそこではない。
「ノアキュリオ軍は部隊の大部分を撤退させると決めたそうだ。
また、ベルガー侯爵が皇太子を擁立すべく準備に入った。既に連邦と連係すべく密約を取り付けているとの観測もある」
オズワルドは、連絡文の要点を一気に話した。
一同があっけにとられる中、最も早く事態を飲み込んだのはハドリーだった。
「父上。この国は……真っ二つに割れるのではありませんか」
青ざめた顔で、震える声でハドリーが言う。
「……ちい兄、どういうことか説明してくんねえかな?」
「少しは頭を使え、スティーブ。ベルガー侯爵はエドフェルト侯爵のやった事をそのまま叩き付けて返す気だ。
ノアキュリオ軍が撤退するなら、ジレシュハタールは何か適当に口実を作って、入れ替わるように軍を流し込んでくるだろう。避難民の支援や治安維持、そして魔物から人々を守る。シエル=テイラを軍事的に押さえるため。そして民の信頼を得、新たな皇太子の後ろ盾となるために。
やがては連邦寄りの王を即位させることで、シエル=テイラと関係を再構築する足がかりにするつもりだ」
「じゃあそれで万々歳じゃねえか」
「だがエドフェルト侯爵とジスラン殿下はもう後には退けない!
エドフェルト侯爵がディレッタと連絡を取っているという情報を忘れたか。
ノアキュリオもグラセルムを諦めてはいないだろう。軍を一旦退くとしてもエドフェルト侯爵への支援は続けるはず。
本来ならばジスラン殿下が次期皇太子として大本命で、他の候補が立とうとも徒花に過ぎなかったはずだ。……そのバランスがひっくり返るなら良い。このままでは拮抗しかねないぞ!
たとえ諸侯会議で皇太子が決まろうと、ギリギリの多数決で決まったのではまず収まりが付かない。下手をすれば諸侯が、すなわち国がふたつに割れる。場合によっては……」
ハドリーは寸の間、言いよどむ。口に出した瞬間、それが未来の確定事項になってしまうのではないかと危惧しているかのように。
「内戦にもなりうる。ジレシュハタールとノアキュリオ・ディレッタがそれぞれに付いてな」
「……嘘だろ」
「あくまでもこれは最悪の想定だ。一度はジスラン殿下に付いた諸侯が一斉に手の平を返し、ノアキュリオも手の付けようがなくなるという可能性もある」
「どうする、親父? 今からでも帰るか?」
実際、オズワルドもそれを考えた。だが帰ったところでどうにかなるわけでもない。狩人に追われ、巣穴に頭を突っ込んで逃げた気になっている獣ではないのだ。
「いいや。このような時だからこそ、ますますジスラン殿下のお考えを伺わねばなるまい。
どちらに与するが正しいか見極めねばならないだろうし、皆を説得する材料になるかも知れない」
この国はどちらへ向かうべきなのか。
何が民にとっての最善となるのか。
それを見極めなければならないのだ。
「それと私としては、今テイラカイネに居る第二騎士団長バーティル・ラーゲルベック氏には是非とも会いたいと思っている。
……向こうもキャサリンの話が聞きたいと言っていたことだしな」
相変わらずプリシラの膝に座らされているキャサリンが、頷く。
キャサリンが同行したいと言った時、当然ながらオズワルドは猛反対した。
と言うか、その場に居た全員が反対した。魔物、盗賊、“怨獄の薔薇姫”の軍勢、何に襲われるか分からない道行きだ。
だが、『領地に残るよりお父様について行った方が安全ですわ!』というキャサリンの言葉にも一理あった。
堅牢な城の守りも、領地を守る騎士たちも……“怨獄の薔薇姫”が相手となれば万全ではない。彼女は王都テイラルアーレさえ陥落せしめたのだ。
実際、ヒルベルトに与した領主たちはひとりひとり順番に潰されていっている。もし“怨獄の薔薇姫”がその気になればキーリー伯爵領など明日にでも吹き飛んでしまうだろう。
さらに、オズワルドがテイラカイネのバーティルに通信を入れて話をした時、キャサリンがついて行きたがっているという話をぽろっと漏らしたところ、バーティルはキャサリンの話が聞きたいと言い出したのだ。
これがキャサリンの背中を押したと言うか、止めきれなくなって同行を許したという状況だった。
「私も第二騎士団長閣下から、あの日のことを伺いたいと思っています。
……誰がいつ死ぬか分からないですもの。機会は逃したくありませんわ」
真面目くさった顔でキャサリンがそんなことを言うのを見ていて、オズワルドは首を締め上げられているような心地だった。
あの日からキャサリンは“怨獄の薔薇姫”について調べ続けている。
避難民から話を聞いたりする傍ら、冒険者ギルドの資料庫に通い、オズワルドの書斎からも本を持ち出して。
その姿には何か鬼気迫るものがあった。
ある種の魚は、泳ぎ続けていないと窒息して死ぬのだと学者から聞いた覚えがある。今のキャサリンからはそんな風な、行動することを止めたら魂が死ぬのだとでも言うような緊張感が漂っていた。
しかし不穏に思いながらもオズワルドは、キャサリンを止めようとは思わなかった。
王都で“怨獄の薔薇姫”に捕らえられ、解放されて逃げ延びた娘たちの中には、心を壊して普通の生活が送れなくなった者もあると言う。それに比べればキャサリンは無事なようだし、やりたいことがあるのならやらせておけば気が紛れるだろうとオズワルドは考えていた。
「伯爵様、よろしいでしょうか」
「今度は何だ」
従僕が扉の向こうから声を掛けた。困惑した顔色が浮かぶような声だった。
「……その、第二騎士団を名乗る方が突然現れて、お取り次ぎを、と……」
「第二騎士団……?」
ハドリーは訝しむ調子でオウム返しにする。
第二騎士団は僅かな生き残りが団長バーティルと共にテイラカイネへ逃れたという話だ。
それが何故、このような場所に。
オズワルドはハドリーとスティーブに素早く目配せした。
怪しい者であったら対処しろという意味だ。
「通せ」
「はっ」
従僕が応えてほぼ間無く、食堂の入り口にひとりの騎士が姿を現す。
全身鎧からパーツをいくつか外した軽武装状態だ。胸甲や兜の他はタイツのようなチェインメイル姿で、魔物が出没する危険地帯を行軍するときなど、騎士は動きやすさと戦闘力の折衷でこのような格好をすることがある。おそらく、この上から防寒具を纏ってここまで来たのだろう。
軽装鎧の騎士は、鞭を思わせる細くしなやかな体躯だった。
「お初にお目に掛かります、キーリー伯爵」
フルフェイスの兜の隙間から、ハスキーな女の声が響いた。
「シエル=テイラ王宮騎士団、第二騎士団所属カーヤ・ランナー。
第二騎士団長バーティル・ラーゲルベックの命を受け、これよりテイラカイネの街まで皆様の護衛を務めさせていただきます」
猟犬のような目つきと鞭のような体つきをした女騎士は、兜の面覆いを指先で持ち上げて完全無欠の敬礼をした。