◆ニュース◆
人気ブログランキング応援クリックは
←こちらから。いつもありがとうございます。
八紘(はちこふ)を掩(おほ)ひて 宇(いえ)と為(な)さんこと 亦(また)可(よ)からずや 神武天皇のこの精神が、現代となってもなお燦然と輝きを放つのは、日本が災害列島であり、全国民が家族となって、互いに助け合っていかなければ、災害に対処できないという現実が、日本に存在しつづけるからなのです。 |

画像出所=https://blog.goo.ne.jp/horinosuke/e/9cac10dada0cda1668f7efcdbfd99b0e
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)奈良時代の『日向国風土記』によると、高千穂に迩々芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨されたとき、葦原中津国(あしはらのなかつくに)は暗闇に閉ざされていた。
そこで迩々芸命が高天原から持参された稲穂を抜いて、そのモミ(種)を四方にまいたところ、たちまち中津国は光に満ちたと書かれています。
そこでその地を「千穂(ちほ)の里」と名付けたといいます。
神話の時代のことを、古代よりも古い時代ということで、祖代(そだい)と呼びますが、その祖代において、火山の噴火や、台風による水害、巨大地震といった天然の災害は、そのまま食糧危機に直結したことでしょう。
人は、食料を得ることができる範囲内でしか生きることができません。
縄文時代の人口は日本全土で26万人、平均寿命は24〜5歳だったと言われています。
日本列島の環境からすれば、それ以上の人口も、あるいはもっと長生きすることも可能であったろうと思われるところ、それができなかった背景には、やはり天然の災害が大きな影響を及ぼしていたものと思われます。
日本は四方を海に囲まれた国ですから、漁さえできれば、ある程度の災害があっても、食料を得ることができそうなものですが、それができなかった理由は3つあります。
ひとつには食料が常温では長期の保管ができなかったこと。
もうひとつは、災害によって働き手となる男子を失うと、たちまち家族が飢えることになったであろうこと。
みっつめには、災害の後には、かならずといってよいほど、疫病が流行したことによります。
《新作続々》ご登録は↑のバナーをクリック↑『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |
特に病気は幼い命を奪いますし、幼い命の喪失は次世代の喪失を意味します。
つまり人口が増えないのです。
そうした祖代の人々に、稲は、唯一の常温による長期の保存を可能にする食物となりました。
そして日頃から稲作をすることによって、労働そのものは、狩猟生活よりもたいへんになるけれど、いざというときの備蓄食を確保することで生きながらえる可能性を増やして行ったであろうことは、容易に想像がつくことであろうと思います。
日本列島全体で人口が26万人ということは、天孫降臨のあった宮崎だけに絞ってみれば、人口は村々を合わせて千人に満たない。
各村の人口が仮に平均50人前後であったとするなら、どこかの村で始まった稲作が、20か村に広がったことを意味します。
もともと縄文時代に多く会ったのが陸稲で、自然生育したものを取得して食料にしていたところ、他の地域で水稲栽培が開発され、その技術を持った人が、ある日やってきて、その生育の指導をする。
これは老農(ろうのう)と呼ばれた明治の石川理紀之助(いしかわりきのすけ)や、ブータンで活躍したダショー西岡がそうであったように、人々に食料の増産をもたらし、たいへんに尊敬されるようになります。
ですからもしかすると、南九州一帯を大災害が襲い、その記憶がまだ新しいうちに、石川理紀之助やダショー西岡と同様に、水稲栽培を指導する人が、そこに水稲を持って現れたのかもしれません。
その人は、高天原(たかまがはら)と呼ばれるところからやってきた。
そしてニニギノミコトと呼ばれるようになります。
ちなみに「ニニギ」の「に」を訓読みに持つ漢字は「似煮熟燗」などがあり、いずれも煮炊きなどを示すもの、「き」は「気木生黄」などで、広がりを意味する漢字があります。
訓読みは、もともとの大和言葉の一字一音一義から来ているとするならば、大和言葉の「ニニギ」は、煮炊きを広げた・・・つまり「穀類の生産と調理法を広めた」といった意味になります。
それまでの狩猟採集生活から、いざというときのための水稲栽培を村々に広め、これによって人々の食生活に、美味しさと安心を広げたから「ににぎ」のみことと呼ばれるようになったのかもしれません。
こうして南九州一帯で稲作が広がっていったのち、今度は中四国地域から畿内にかけて、大災害が襲い、このときには南九州でニニギノミコトの血をひく神倭伊波礼毘古命(やまとの神と呼ばれた男)が同地域に農業指導をすることで、人口8万人に減った日本を、なんと67万人の人口を擁する国に育てて行きました。
さらに仁徳天皇は、税を減免することで、人々の煮炊きを盛んにし、舒明天皇は人々が豊かに暮らすことで、高い民度の国を目指され、それを息子の天智天皇、天武天皇が我が国のカタチとして育て上げ、さらに持統天皇がこれを我が国の形として固定し、こうすることで2千年余の豊かな国日本が形成されてきたのが、我が国の歴史であると思います。
日本の歴史は、西洋史や東洋史一般にあるような権力闘争を軸とした歴史観では語ることができないように思います。
むしろ日本の歴史は、災害との戦いで、人々や時の政府、あるいは天皇みずからがいかに災害と向き合ってきたか。
そのことによって人々が一体となる和の精神や、村や国を越えた相互扶助の精神、上に立つ人と民衆の関係、技術の革新や研鑽・発展、備蓄食糧の公正な分配のための公平性など、さまざまな日本的文化が築かれてきたのです。
神武天皇の建国の詔(みことのり)
「上(かみ)は則(すなわ)ち
乾霊(あまつかみ)の国を
授(さず)けたまいし
徳(うつくしび)に答え、
下(しも)は即(すなは)ち
皇孫(すめみま)の
正(ただしき)を養(やしな)ひたまひし
心を弘(ひろ)めむ。
然(しか)して後(のち)に
六合(りくごう)を兼(か)ねて
以(も)って都を開き
八紘(はちこふ)を掩(おほ)ひて
宇(いえ)と為(な)さんこと
亦(また)可(よ)からずや」
神武天皇のこの精神が、現代となってもなお燦然と輝きを放つのは、日本が災害列島であり、全国民が家族となって、互いに助け合っていかなければ、災害に対処できないという現実が、日本に存在しつづけるからなのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com《塾の日程》どなたでもご参加いただけます。 |
- 関連記事
-
« 第66回「倭塾」開催のお知らせ l ホーム l 土佐藩の郷士株と災害対策 »
そういう視点で生活振りを紹介するTV番組があります。
でも、映像を観ると農機具はあるし、軽トラも持ってるし、細く険しくても道はあるし、電気も通っています。
そもそも現金も必要だとか。
水の調達は自力だとしても、ライフラインは他人様の世話になりながらの自給自足?
やっぱり独りでは生きられないな~と思いながら観ています。
さて、普段は使いもしない訳の分からない難しい単語を並べて蘊蓄を語り、独りで悦に入ってるとしか思えない書き物が溢れています。
何度読み返しても、あちこち調べても、何が言いたいのか理解に苦しみます。
結局は特定個人に対する無責任な中傷だったりする訳です。
ねずブロでは、何でも実に分かり易く教えてもらえます。
何故分かり易いのでしょうか。
『掩八紘而為宇、不亦可乎』
難しい文言も登場します。
しかし、必ず平易な言葉での解説があります。
通じなければ意味が無い。
でも通じない人はいます。
ねずさんは「真珠のお話」のブログで仰いました。
---------------------------
努力して
努力して
努力して
それでも報われず
誹謗され
中傷され
それでも努力する
世の中を変える力というのは、そういうところから生まれるのかもしれません
---------------------------
ねずさんご自身の生きざま。
いつも感服しています。