不朽の名作『バンド・オブ・ザ・ナイト』で描かれた酩酊の世界

コッケ_バンドオブザナイト

酩酊を言語化した言葉の濁流

『バンド・オブ・ザ・ナイト』はクスリが大好きなジャンキー達の物語で、物語の語り手であるラムも例に漏れずヤク中である。そのため、物語の中では時々「ラリっている」シーンがある。時々といっても全部で7回、計130ページくらいラリっている。そしてそのラリっている状態は、『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中では言葉の羅列という形で表現される。百聞は一見にしかずだ。引用しよう。

いくつかの言葉が嵐のように脳裡を過ぎ去っていく。

その言葉は誰のものでもない言葉。砂の王国の市を行きかう言葉。日照りの灼熱の下でひからびていく言葉。

そしてその言語が囲繞できる猫の額ほどの土地とショウジョウバエで真っ黒になったミルクティのコップと、未だ名づけられないさまざまの感情と包茎の先のピアスと誰に言うでもないさようなら、大事なセリフを吹き飛ばされて子供みたいに吹き飛ぶT字路、そうお前の匂いのする街でとてもシラフじゃいられない、マラリアにかかった赤い月、呪言、水のような下痢、カルカッタの乞食、未封のメンソレータム、”あっ”と”それで?”「私がいつ」と「時間よとまれ」と「いつの日にかね」が交差するスクランブル・エリア、……

中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』講談社、2000年

そう、訳がわからないのである。しかし、実は全てがでたらめに訳がわからないと言うわけでもなく、わかりやすい部分もあるのだ。例えば首狩りママだ。首狩りママについて述べている部分は文章の体をなしていて、とても読みやすい。

首狩りママは考える。なぜ世界は牛の糞でできているのか。なぜ排水溝は小便で一杯でときどき胎児が流れてくるのか。なぜ影は実態の一部であることを主張しないのか。なぜ人々はアイデンティティという幻想に憑かれるのか、なぜ猫は愛情の過多のためにカーペットの上でゲロを吐くのか、なぜ女はタマネギを刻むときにだけ本当の涙を流すのか。
(中略)
首狩りママは考える。彼女の脳は胡桃くらいの大きさしかない。それでも首狩りママは考える。…

中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』講談社、2000年

この言葉の濁流は、ある種この世界への挑戦なのではないかと思う。多くの人は『バンド・オブ・ザ・ナイト』を読んでいて、この言葉の濁流に直面した時、眉をしかめるだろう。それはこの言葉の濁流が我々の認識できる範囲を超えていて、「意味がない」もしくは「意味がわからない」と感じるからだ。ナンセンスであることは悪だろうか?

仕事、勉強、恋愛、バリュー、クリエイティブ……我々は普段「意味のある」日常を生きているため、一見「意味がない」「意味がわからない」ことに対して耐性がないし、そうしたものを嫌う。一方、『バンド・オブ・ザ・ナイト』ではこうした言葉の濁流と、ジャンキー達の「意味のない」行動の連続で物語が進む。「意味がないものアレルギー」な我々に、中島らもは「意味あることが正しいのだろうか。本当にそうだろうか」と疑問を投げかけていたのかもしれない。

そもそも、この言葉の濁流の意味を解釈することを彼は求めていないように思う。その証拠に、『バンド・オブ・ザ・ナイト』はこんな引用から始まっている。

歌詞なんて聞き取れる必要はないんだよ。

ロックの場合はね。

ルー・リード

中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』講談社、2000年

「ロックの英語歌詞なんて聞き取れる必要はない」というのは中島らもが様々な著作で述べていることだが、ここでの意味合いは少し違う。歌詞とは言葉の濁流、ロックとは『バンド・オブ・ザ・ナイト』そのもののことではないだろうか。

意味なんて考えず、黙って感じろ。と言われている気がする。

『バンド・オブ・ザ・ナイト』から世界を見直す

『バンド・オブ・ザ・ナイト』にはラリっている描写がたくさんあることは先ほど述べた通りだが、そもそもラリるとはどういうことだろう。

ラリるとは、我々が素面で生きている世界を「理性の世界」としたときに、真逆の原始的な「感覚の世界」に一時的にトぶことだと思う。体は「理性の世界」から離れることができないが、意識だけは「感覚の世界」へトぶことができる。「感覚の世界」では、五感で感じたままにしか動けず、行動に頭脳は介在しない。本能としてしたいことをただするのである。

時々、人間はそれでいいんじゃないかと思う時がある。一度「感覚の世界」を知ってしまうと、きれいさっぱり忘れ去ることはできない。「感覚の世界」を一度知ってしまった意識は、「理性の世界」でしか生きれない体にはうまく馴染めない。

『バンド・オブ・ザ・ナイト』は、そんな「理性の世界」に馴染めなくなったヤツらの物語だ。ガド君の訃報が届いたシーンに、それを象徴する一節がある。

エスはうちにきてクスリをがりがりかじりながら言った。

「ガド君はね、この世に向いてない人だったんだよ。そう思わないか」

そう思う、とおれは答えた。

中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』講談社、2000年

「理性の世界」が当たり前のようになってしまっているけれど、「理性の世界」は実はとっても不自然で、本当はそんなものに縛られず気ままに生きた方がいいのかもしれない。そんなことを考えさせられる。

町田康が付け足す後味

『バンド・オブ・ザ・ナイト』は本編だけでなく、解説までを含めてひとつの作品だと言える。それは、本の最後にある町田康の解説があまりにも的確で、情緒があり素晴らしいからだ。本編を読んで、一息ついた後はぜひ解説も読んでみてほしい。もう一度読み返したくなるハズだ。

最後に、そんな素晴らしい解説からの一文で締めようと思う。

私は世界にはここに書いてあること以外なにもないし、ここに書いてあること以外、なにも必要ないと思った。

中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』講談社、2000年

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