「はー疲れた疲れた」
夏頃の夜はとても暑い。ライブの帰りとなると尚更だ。
喉はカラカラで、体はビキビキ痛い。頭は余韻でクラクラしていたりと、久々に満身創痍になっている気がする。こんなの、初めてボス曲をクリアした時以来だ。
疲弊している体を何とか引きずり、ゾンビのように歩みながら、何とか自室のドアを開ける。そしてそのまま、ベッドの上に転げ落ちた。
けだるげな声を上げながら、これまでのことを思い起こす。
■
アイアンフリルの全国ツアーは、まずは東京で行われることになった。
震の家からはとても近く、それでいてAIが唄うのだから、震は当然ながら参加しようとした。トップアイドルのライブチケットなんて、そう簡単には手に入るはずが――入った。むこう数年分の運は使い果たしたと思う。
翌日。
バスを降り、日差しに苦しみながらもライブ会場へ足を踏み入れた瞬間――空気が、暑さから熱さへと変わった。
そうとしか言いようがなかった。空き席なんてどこにもなかったし、年齢性別なんてとにかくバラバラ。そして、右を向いても左を向いてもアイアンフリルの話題だらけ。
センターである水野愛についてはもちろん、他のメンバーに対する評価、魅力、逸話などが隙間なく飛び交うあたり、アイアンフリルが、水野愛がトップアイドルであることを実感させられる。
――なるほどな。こりゃあ、変装も必要になるよな。
寂しい、とは思わない。誰もがアイアンフリルを、愛を求めている姿を見て、達成感すら覚える。
そして、苦笑いが漏れた。
自分は、プロのダンサーになるとAIへ誓った。あわよくば、AIの隣へ立てるような男になりたいと、そう思っていた。
けれどその願望は、あまりにも無謀であるということを痛感する。やっぱり妥協しようかなと、そう考えていたフシがあったのだが、
――あなたがこれまでに攻略した全てのボス曲を、私の手でぜんぶ上書きできたら――
そうだな。AIも、無謀な願望を抱えているんだったな。
それなら、自分もやらねばなるまい。愛の為に無茶をするのは、男どもの専売特許だ。
そして、時間が来た。
会場内の照明が、ふっと落ちる。客のざわめきが、嘘みたいに消えた。
永遠の闇が訪れようとした時、ステージには一筋の青い光が、一人の女の子が、堂々とそこに居た。
間もなくして赤、黄、桃、白のスポットライトに点火し、四人のメンバーたちが映し出される。
アイアンフリルだ。
みんな、目をつむったままで動かない。
ここにいる誰もが、アイアンフリルのことを見届け続けている。
震は、ひたすらなまでにAIを見守っていた。
「――みんな」
心まで震えたと思う。
「今日は、私達のライブを見に来てくれてありがとう」
嘘みたいに、透き通った声だと思う。
「いつもお疲れ様。次へ繋げるために、みんなが戦い続けてきたことを、私たちは知っています」
その言葉に、いつの間にか頷いていたと思う。
「だから、」
AIの目が、音もなく開いた、
「今日は私達と一緒に、躍り明かしましょう!」
会場の沈黙が、木っ端微塵に砕かれた。
もはや遠慮なんてものは無い。男は叫び、女性は歓喜して、老人に至っては拳まで振り上げている。FANTASTIC LOVERSが大音量で鳴り響いた瞬間、震は青いサイリウムライトを片手に、その両足を軽やかに踊らせてしまっていた。
いまの震は、ただのひとりの観客だ。
これだけの客を前にして、アイアンフリルは明るく楽しげに踊り明かしている。それを見ている老若男女が、魅せられるがまま笑っている。そして、何の打ち合わせもなくサビの歌詞をシャウトするのだ。
――これが、トップアイドルなんだな。
思う。快く、そう想う。
ここまでたどり着くのに、かなりの時間をかけたのだろう。上手くいったこともあるだろうし、その逆だってあったはずだ。
その積み重ねを次に繋げられたからこそ、いまのアイアンフリルが、愛がいる。
――♪
愛が、見覚えのある「キレ」で一回転してみせた。
観客が湧く、震はたまらず喜ぶ。
ゲーマーとしての意地を貫いてきたからこそ、いまのAIがいる。ゲームは、大切なことを教えてくれるのだ。
――そしてあっという間に、FANTASTIC LOVERSが終わりを告げる。なのに誰もが、アイアンフリルへのラブコールを止めようとはしない。
そしてそのまま、二曲目が始まる。こりゃあ死ぬなと笑いながら、震は青いサイリウムライトを握りしめた。
■
これまでのことを、鮮明に思い起こせた。
夢心地な気分に浸りながらで、「あー」と声を出す。部屋の天井をじっと見つめたままで、何もしない。
今日は夕飯もとらずに、このまま寝ちまおうか。
それほどまでに疲れ果てていた。満足しきっていた。
音もなく寝転がり、何もない壁をじっと見つめる。嘘みたいに静かな部屋の中で、AIのことを考え始める。
AIはトップアイドルで、時の人で、安易に触れてはいけない存在だ。改めてそう思う。
だからこそ、二度と会えないんじゃないかと考え始める。これから忙しくなるだろうし、それに伴って行動だって制限されるかも。本人はゲーマーを続けるつもりだが、大人の都合がそれを許してくれるかどうか。
けれど、でも、AIはそれをも織り込み済みでアイドルを選んだはずなのだ。
すごいな、と思う。
夢のために、自分はゲームをやめられるのだろうか、と思う。
無理だな、と笑う。
仰向けになって、小さくため息をつく。
今頃AIは、あれやこれやと動き回っているのだろう。ライブが終わったばかりだというのに、大変だ。
ならば自分は、部屋の中でささやかながら応援させてもらおう。
そしていつしか、隣に立てるダンサーになれるよう頑張ろう。
自己満足に浸りながら、震は両目をつむって、
携帯から、FANTASTIC LOVERSの着メロが鳴り響いた。
なんだよもう、人がせっかくすっきりしてたのに。
半ば寝ぼけ気分で、携帯を開く。「着信:AI」の文字を見て、「AIか」と思考して、
意識に火がつき、体が勝手に叩き起こされる。着信ボタンを親指で潰しては、電光石火の如く携帯を耳に当てた。
「はい! もしもし!」
『あっ、SIN? いま、大丈夫かな?』
「うんうん平気平気。どしたの?」
『あ、えーっと……その、ライブ、見に行ってくれた?』
その声は、まちがいなくAIのものだったと思う。
ライブとは違って、どこか遠慮がかった雰囲気をまとっていた。
「……行った」
『……どう、だった?』
深、呼吸。
「……最高だった。死ぬかと思った」
『ど、どう最高だった?』
「ぜんぶ」
『具体的に』
「え、ええ? じゃ、じゃあー……」
最初に思いついたのは。
すこしだけ、躊躇して、
「……笑顔」
言った後で、めちゃくちゃ恥ずかしくなる。
部屋には自分一人しかいないからこそ、余計にそう感じる。
『そ、そう、なんだ』
「うん、まあ」
『ほ、ほかは?』
「え、まだ聞くの?」
『だ、だめ?』
「だめじゃねえけど……」
『じゃあ、言って』
「う――じゃ、ジャーマネさんとかに聞くのもアリだろ」
切実な言い回しだった。
AIへの想いをこれ以上口にしようものなら、震は間違いなく嬉死恥ずか死んでしまうだろうから。
『だめよ』
でも、AIは許してはくれなかった。
『あ、あなたの口から聞かなきゃ意味がないの! キングとして、どう思ったの!?』
大声を出されるものだから、携帯を少し離してしまう。いつもの意固地に、思わず口元が緩んでしまった。
――AIは、ぜんぜんなど変わっていない。決して遠くない場所に、AIは居る。
「わかった。わかったよ、AI」
震の返事を聞いて、AIが沈黙する。
「そう、だな。ミスらしいところがまるで無かった、フルコンしてたよ」
『本当っ?』
「ほんとほんと」
AIが、「そっかぁ」と言う。それはもう嬉しそうに。
「あとは、魅せプレイも完璧だった。ギャラリーは大盛り上がりだったよ」
『ゲーセンで鍛えてますから』
互いに含み笑いをこぼした。
「あとは……そう、とても輝いてた。俺の心も、足も、躍ってた」
『……そう、なんだ』
正しいことを言えたのかは分からない。AIはただ、自分の言葉を受け入れていた。
――ここからは、蛇足だ。けれども、いちばん言わなければいけない事でもある。
だから震は、深呼吸した。それは、一人きりの部屋によく響いた。
「AI」
『うん』
「AIのダンスは、歌は、笑顔は、どれもすべてが最高だった。トップアイドルだった」
『うん』
「それを間近で見られて、俺は、俺は、」
きっと、笑えていたと思う。
「AIに、心から見惚れてた」
長く話し込んだせいで、携帯が熱くなっている。静かすぎるせいで、壁時計から音が聞こえきた。そろそろ夕飯であるはずなのに、親からの声は届かない。
AIの吐息が、震の鼓膜を震わせていた。
『……ほんとう?」
「ああ」
『ほんとうにほんとう?』
「王に誓って」
AIが、くすりと笑った。
『そっか。うん、今日のライブは大成功ね』
「だな。俺の方も、満足してるよ」
『やった、ランカーからのお墨付き』
「そんな喜ぶなよ、ハズいだろ」
『同じゲーマーでしょ? 感激して何が悪いのかしら』
しれっと正論を言われて、もはや笑うしかなくなる。
嬉しかったのだ。愛が、AIと共に生きてくれていることに。
「ほんと、すげえよAIは」
『どうも』
「――ほんとな。トップになるっていうのは、つまりはそういうことなんだろうな」
携帯を片手にしながら、震は仰向けになって倒れる。
「俺はあの会場に、立てる男になれるんだろうか」
『――なれるわ』
「諦めるつもりはないよ。ただ、怖いなって思っただけ」
AIの隣に立てるような、プロのダンサーになる。震は確かにそう誓った。
けれども今日のライブを見て、改めて思い知ったのだ。本物になることの難しさを、AIの男になるという途方のなさを。
自分は、輝けるだろうか。見知らぬ誰かを、躍らせられるだろうか。あの台に、最後まで堂々と立っていられるだろうか。
自分はダンスゲーマーとして、ギャラリーを湧かせてはいる。ダンサーになるために、ダンス教室で指導を受け続けている。それで多少の自信を身にはつけたが、やはり、本物は格が違う。
AIのことを好きになっていなければ、今度こそ折れていた。
「……あ、」
しまった。
今日はとても良い日だというのに、何を愚痴ってしまっているのか。
「わりい、AI。このことは忘れ、」
『ねえ』
食い気味に声をかけられ、震の言葉が止まる。
『怖いのはよくわかる。私だって、本物のアイドルになれるかどうか、いつも考えてるもの』
「へえ。……そういやAIって、なんでアイドルになろうと思ったの?」
『私? 私はー……その、まあ、テレビで素敵なアイドルグループを見て、ああなりたい! って思ったからよ」
「おお、俺と同じ」
互いに、気楽に笑い合う。
『で――私はまあ、見ての通り負けず嫌いで、誰よりも輝きたかったから、トップアイドルになれたんだけれどね』
「流石」
ほんとう、AIらしい流れだと思う。Sランクのダンスゲーマーになれたのだって、元々は自分に対しての対抗心があったからこそだし。
『ね』
「ん」
『あなたは、キングは、どうしてSランクのプレイヤーになれたと思う?』
「それはやっぱり、みんなが評価してくれるから、かな」
『……評価、か』
AIが、考え込み始める。
ここで「俺なんかのために」なんてほざこうものなら、本気で怒られるだろう。AIとは、そういう人だ。
――間。
秒針の動く音が、部屋に反響する。バイクのけたたましい轟音が、どこか遠くから聞こえてきた。
『ねえ』
「何だい」
『あなたの上達を評価してくれるのは、ギャラリーだけじゃないわよね』
「え? ――あ」
呆けた声が、口から漏れた。
『そう、他でもない筐体ね。人の評価はどうしても主観が混ざるけれど、機械は正確無比の判断しか下さない。つまり、ダンスゲーマーとしてはこの上ない絶望に繋がってしまうかもしれないし、揺るぎないご褒美にもなる』
その通り過ぎて、ろく反応を口にできない。
『ご褒美は、人の原動力よ。ましてやゲーマーとなると、その重要性はよく知っているはず』
異論なんて口にできなかった。なぜなら震は、他でもないゲーマーだったから。
どうしてゲームは長らく遊べてしまうのか、それは具体的な報酬が与えられるからだ。アクションならステージクリアという事実が、RPGならアイテムという結果が、レースゲームなら順位という優劣が、音ゲーなら筐体を通じての公式的なスコアが表示される。
ゲームは決して裏切らない。だからこそ色目をつけたりもしない。AならAと、BならBと、筐体は必ず結果を突きつけてくる。
そう、「必ず」だ。決してうやむやにしないからこそ、プレイヤーはランクを見て燃え上がったり、落ち込んだり、時には歓喜したりする。ゲームほど、他人に対して真摯に相手をしてくれるものもない。
だから震は、キングになるまで必死になれた。AIもまた、Sランクを勝ち取るまでに負けん気を発揮してきた。数値として結果が表示されるからこそ、「次こそは」とゲームをプレイし続けられたのだ。
「……なるほど、ご褒美か。それは確かに、とても大切なものだな」
『でしょう? だからこそ、あなたがプロのダンサーになれた時には、何かご褒美をあげたほうがいいかなって』
――AIの言葉を理解した。
「いやいやいや、そういうのはいいから。AIに負担はかけさせたくない」
『は? あなたと私とは、もう他人じゃないのよ。別にいいじゃない、プレゼントの一つや二つ』
「そうかあ? ……まあ、そうだよな、他人じゃないもんな」
『うん、他人なんかじゃない』
喫茶店での出来事を思い出しかけて、首を左右にぶんぶんと振るう。
「じゃ、じゃあさ」
『ええ』
「サイン入りハンカチでもいいぜ」
『だめ、安い』
「えー? 値段なんていいよ別に」
『駄目。トップダンサーになるっていうのはね、とても価値があることなの。決して、安く見てはいけないのよ』
「けどよお」
『頂点に達して、ご褒美がハンカチ一枚だなんてあんまりじゃない?』
言われてみれば、確かにAIの言う通りかもしれない。
けれどだからといって、AIに負担をかけさせたくなどない。死んでもゴメンだ。
――あ、
「ひらめいた。トップアイドルと、デートなんてどうだ」
『パフェ食べたでしょ』
ああ、
「……思いつかねえっすよAIさん……」
『……そうね、ご褒美っていうのも中々難しいわね』
そうして、話が進まなくなってしまった。
震はうんうんと唸り続けるが、これといった閃きは生じない。対してAIは、深く考え込んでいるのか「デート……それ以上……」と呟き続けている。AIのことだ、思いつくまで一歩も退く気はないのだろう。
震も大真面目に思考してはいるが、デート以上のご褒美なんてまるで思いつかない。ましてや告白まで受け入れられて、これ以上何を望めというのだ。
今のままでも、自分は十分に満たされている。
だから、このままダンサーを目指そう。ご褒美は、前借りしたと解釈するべきだ。
だから震は、AIへ断りを入れようとして、
『あ』
「お?」
どうやら、何かを閃いたらしい。発言権をあっさりAIへ譲って、このまま待機する。
『……あの、さ』
「う、うん」
『そ、その、えっと……』
AIらしからぬ躊躇っぷりに、震の首が斜めに傾く。
何だ。AIは、何を言おうとしている。
『あ、う~ん。でもなあ、これしか思いつかないしなあ』
「ど、どしたん? 何かこう、マズいことでも?」
『! いや、そんなことない、そんなことはないのよ! ただ、その』
急かさないように、口を強くつむぐ。
AIは、何か重要なことを言葉にしようとしている。それこそ、AIほどの人物が口ごもってしまうような。
顔が伺えないから、どう予想して良いのかが分からない。震はただただ、AIの動向を見守ることしか出来なかった。
そうして、幾分が経過しただろう。
決意したのか、AIが静かに呼吸する。聞き逃すまいと、携帯を強く耳に当てる。
『あの、さ』
「ああ」
『そ、その、そのっ!』
「うん」
『あなたがダンサーになれたら、キスしてあげるッ!』
鼓膜が、キーンと震えていた。
理性が、キーンと凍っていた。
『……な、何? 何よ、キスじゃ、駄目!?』
もう一度大声を出されて、脳ミソが目を覚ました。
「い、いや! ぜんぜん良い! それはいい! 好き!」
『そ、そこまで言わないで! 恥ずかしいから!』
「あ、悪ぃ」
『あ、いえ、喜んでくれているのなら、別にいいんだけれど』
一悶着がすぎれば、後はしんみりと進行するだけだった。
「……で、いいの? マジ? いいの?」
『う、うん』
「信じるよ? それだけのために、ダンサー目指しちゃうよ?」
『だ、だめよ。ダンサーなんだから、みんなを盛り上げないと』
「それはそうだけど……ダメ?」
『……ダメじゃない』
それを聞けて、震はくつくつと笑ってしまう。
AIからは、「笑うな!」と怒鳴られてしまった。
「ごめんごめん。いやしかし、キスか、キスねえ」
『そ、そうよ。デート以上のご褒美といったら、これしか思いつかなかった……』
「いや、ぜんぜん良い。頑張るには十分すぎる」
『……そっか』
AIもほっとしたのだろう。どこかすっきりしたような声が、携帯の向こう側から聞こえてきた。
「んじゃ、明日も頑張りますかね。トップアイドルのキスのために」
『ばか、そういう言い回しをしないでよ』
「……そうだな」
小さく、咳をついて、
「AIとのキスのために、これからも踊るよ」
『……ばか』
「へへ。――なんつーか、その、ありがとう。俺のために、こんな約束までしてくれて」
『ううん。私も、あなたにはダンサーになってほしいから。だから、いいの』
「わかった」
背筋を、うんと伸ばす。
「俺は、プロのダンサーになるよ」
『うん』
「でも、途中でつまづいてしまうかもしれない」
『……うん』
「その時はさ、一緒にゲーセンで遊ぼうぜ」
『うんっ』
そうだ。
いまの自分には、ストレスを発散できる遊びがある。共にダベりあえる仲間も居る。
『あ、でも』
「ん?」
『ゲーセンでは、私の挑戦を受けてもらうわ。なんてったって、あなたは私のラスボスなんですから!』
「――ああ、いつでも待ってるぜ」
こうして、かけがえのない人が傍に居てくれる。
だから自分は、ダンサーを目指すしかないのだ。上等だ。
『……あ、もうこんな時間ね』
「ああ、ホントだ。すまないね、こんなに話し込んで」
『ううん、かけたのは私の方だから。……じゃ、約束だからね』
「おうよ。妃のキスはいただきだぜ」
『ふふ、ばーか』
今度は、互いに笑ってみせた。
AIとは、ずっと友達だ。そしていつかは、堂々と添い遂げたい。これは自分の願いであり、夢だ。
『さて、それじゃあ』
「ああ」
『――またね、SIN』
心の奥底まで、それは聞こえたと思う。
そして、携帯がぶつりと切れる。しばらくは携帯を耳に当てたまま、寝転がりもせずにただただ沈黙するだけ。
下から、夕飯を促す母の呼び声が聞こえてきた。
――
8月――
送信者:AI
『今日のライブも大成功! みんな応援してくれた、笑ってくれた。それが本当に嬉しい。
SINの方はどう? ダンスの方は上手くいってる? まあキングであるあなたなら、上手くいくと思うけどね。
ダンスもいいけど、疲れたら気分転換にゲームをすること! 私も、ゲームがあったからこそ潰れずに済んだんだから。
そう思うと、あなたは恩人なんだかラスボスなんだかよくわからないわね。どっちもかな?
まあ、あれよ。お互い頑張りましょう。
それじゃあ、おやすみなさい』
AIからのメールが、今日も届いた。
ここ最近は電話をする暇もないのか、大抵は一日一通のメールでやりとりし合うことが多い。
『お疲れ様、AI。俺は今日もダンス尽くしだったよ。本物にゲームと、お陰で体が痛い痛い』
けれど、それが寂しいなんて思わない。
だってAIは、人々から求められているからこそ忙しないのだ。アイドルにおける暇ほど、不安になるものはない。
ファンとして、震として、AIの現状を嬉しく思う。
『それでも俺は、明日も踊るよ。だって俺は、Sランクのダンサーになれる根性はあるらしいからね。ゲーム万歳だ』
けれど、AIだって人間だ。疲れもするだろうし、荒むことだってありえる。経験者だからこそ、そのあたりはよく分かっているつもりだ。
『だからこそ、俺はゲームを続けるよ。こんなに楽しいものもないからさ』
だからこそ、AIには、
『――だからAIも、疲れたりしたらゲーセンにおいでよ。挑戦ならいつでも待ってるからさ。
そんなわけで、俺の方は大丈夫大丈夫。AIも体に気をつけて、おやすみ』
メールを送信し終えて、そのまま携帯をベッドの上に放り込む。
震もそのまま、倒れ込んだ。
外から、虫の音がよく聞こえてくる。夕飯を食べ終えたおかげで、じんわりとした眠気を覚える。横になりながら、意味もなく深呼吸した。
AIは今頃、遠い遠いところにいるのか。
すごいもんだな。俺も負けてられねえな。
――あくびが漏れた。
今日はそろそろ、寝ようかな。
歯を磨くために、緩慢に体を起き上がらせて、
携帯が、震えた。
『ありがとう、SIN。私は大丈夫。
あなたの方もいつまでも元気で、そして前向きに生きて。
だってあなたは、私のラスボスなんだから!
それじゃあ、明日のサガライブへ向けて、いってきます』
――
2008年 8月3日
休日ということで、夕方までダンススクールにて基礎を学び、残り時間はゲーセンへハシゴしてダンス三昧。もちろん、常連達とはAIの活躍について語り合った。
後はそのまま、痛む体を引きずりながらで無事に帰宅し、脱ぐもの脱いでひとっ風呂浴びる。身も心もすっきりさせた後は、待ちに待った夕飯だ。
「いただきまーす」
母から「召し上がれ」と告げられ、早速ながら卵ごはんを箸で掴み取る。黄色にとろりと染まった米を目にして、震の腹が不意に鳴った。
喜色満面を隠そうともしないまま、震は卵ごはんを口にする。出来たてほやほやだからか、熱が口の中をぐるりと回り、卵特有の甘さが舌に染み込んでいく。熱さで肌が少し痛かったが、勝てない食欲に煽られてまた一口、また一口と味わっていく。ここ最近は運動日和であるせいか、飯がいつも以上に美味い。
そんな食べっぷりを見て、母はにこりと笑う。
「ねえ、震」
「ん」
「ここ最近は、よく笑うようになったわよねえ」
「そお?」
心当たりがあるせいで、つい曖昧な反応を口にしてしまう。
「ええ。あなたはいつも明るいけれど、近頃は本当にいい顔をするようになって」
「そっかぁ」
「何か、いいことでもあった?」
サラダを口にしながらで、母が機嫌よく質問する。
震はといえば、当然ながら口ごもってしまい、箸の手を止めてまで返答に悩み、
「……まあ、一応は」
「そう」
額面通りに受けとったのか、それとも何かを察したのか。母は、それ以上は言わなかった。
やっぱり母は、息子の顔をよく見ているなあと思う。
「さて、と」
母が、食卓の上のリモコンに手を付ける。いつものように、ほんの軽い調子で。
震も、特に気にもせずに卵ごはんを飲み込んでいく。間もなく、リモコンから「ぴ」という音が漏れて、
『――本日のニュースです』
馴染みのニュース番組が、テレビに映し出される。名前は覚えていない、いつもの男性ニュースキャスターと目が合う。
ニュースキャスターは、大真面目な無表情を露にしながら、
『大人気アイドルグループ、アイアンフリルの、』
箸の動きも、呼吸も止まった。
『メンバーである、水野愛さんが、』
爆発的な緊張感が生じ、目と耳の神経が研ぎ澄まされ、
『サガでのライブ中に落雷に撃たれ、意識不明の重体。現在は病院に搬送され、治療中とのことです』
「ごちそうさま」
箸を置く。呼吸が荒む。悪寒がする。
―――
眠れないまま、次の日の朝を迎えた。
ダンスで積み重なった疲弊など、もはやぜんぜん感じない。震はただただ、AIの無事しか考えられていなかった。
時計を見る。間もなく朝の六時に差し掛かろうとした時、
一階から、音が鳴った。
同時に、布団を蹴っ飛ばしてまでその身を起き上がらせる。
大急ぎで階段を降りて、途中で転倒しかけ、どうにか玄関口まで辿り着いては新聞受けを確認し、
あった。
新聞を勢いよく引っこ抜いて、AIに関するニュースをどうにか探し当てようと――
手間なんてかからなかった。
新聞の一面には、AIの死亡が書き記されていたから。
詳細をなんとか読む。
アイアンフリルは悪天候の中でライブを決行し、そして運悪く落雷が発生したのだという。それはAIに直撃し、そのまま意識不明の重体に陥って、病院へ搬送されたものの死亡が確認された、とか。
すべての現実を、時間をかけて咀嚼する。
落雷に打たれれば、人は○ぬ。だから、AIがいなくなった。AIと会えなくなった。AIの笑顔が見られなくなった。AIと踊れなくなった。
落雷に打たれたAIは、つまり、死んだ。
胃から熱いものが溢れ出そうになる。新聞を放り投げ、急いでトイレへ駆け込んで、便器のフタを乱暴に開けて、ぐちゃぐちゃのままに震は吐く。
嘔吐はすぐに終わった。けれども喉のうずきは止まらない、心臓が嘘みたいに膨らんでいく、体が凍えていくのを感じる。
その場で倒れ、両腕で体を抱き込む。寒気に覆われながら、震はただただ、AIとの思い出を頭の中でリピートさせていく。
上から誰かが降りてきた。たぶん、母だろう。
―――
布団に籠もって、もう数日が経った。
熱は未だに冷めない。だから学校には行かず、ダンススクールにも通わず、ゲームセンターなんて行く気にもなれない。ずっとずっと、暗がりの部屋で引きこもりっぱなしだ。
――けだるく、ため息を漏らす。
ベッドの上に放置されたままの、携帯電話を眺める。
AIへは、何度か電話をした。メールだって数回ほど送った。けれども未だに、AIからの返事はない。
忙しいんだろう。そう、思い込みたかった。
そう思い込んでいるくせに、自分は何度も何度も「葬式」のことを考えるようになった。
自分は「水野愛」の関係者ではないから、参列する資格などはないだろう。AIの最後の顔を、見届けることは決して叶わない。
けれど、それで良かったと思う。
AIの死を確認してしまったら、AIが戻ってこなくなる気がするから。そもそも、AIの死を受け入れるだなんて度胸もなかったから。
だからこうして、布団の中で寝転がるのが正しいのだ。きっと、そうだ。
母がノックし、そのまま入室する。朝食を運んできてくれたらしい。
母には、「ショックなことがあって」と伝えてはいる。もちろん、「AIが死んだから」とは断固として口にしてはいない。
最初こそ理由を問おうとした母だったが、自分ときたらよほどひどい顔をしていたのだろう。母はただ、「元気になってね」と告げてくれた。
おかゆが置かれる。母は「何かあったら呼んでね」と言って、部屋から出ていった。
――目を閉じる。
ずっと、この繰り返しだ。いったい何日が経ったのだろう、もしかしたらずっとこのままなのかもしれない。
けれど、それはそれで良いかなと思う。横になってばかりの人生を送り続けて、眠るように死ぬのもありだと思う。
もうダンスとか、ゲームとか、夢とかなんてどうでもいい。AIがいない世界なんて、何の意味もない。
体の力が抜け落ちていく、何の意欲もなくなっていく。死んでもいいやと思いながら、震は眠りに落ちていった。