夏空サロン
兄妹という繋がりは親の都合で生まれたもので、当人達にとっては突然降って湧いた運命以外の何物でもない。
僕らのケースはその最たるものだった。
僕が新しい家族に出会ったのは高校一年の冬。
日向灘に面したオーシャンビューが自慢のイタリアンレストランで、母と母の恋人がそれぞれの子供を連れて顔合わせをする食事会の席でのことだった。
母さんが誰かと付き合っているのは薄々感づいてはいたし、女手ひとつで僕を育ててきた母さんが幸せになることを望むくらいには親孝行だし、再婚に反対するほどマザコンではないので僕としても良い話だ、とシンプルに考えていた。
レストランのテーブルで彼らに対面するまでは。
レストランの予約席でその二人は待っていた。
母さんの呼びかけに、スーツ姿の男が立ち上がって応える。
隣にいた白いワンピースの少女も席を立った。
彼の肩くらいの高さのそのシルエットは遠目から見ても惹きつけられる愛らしさがあった。
しかし、一歩一歩近づくごとに僕の頭は混沌に塗りつぶされていく。
僕がテーブルに至った時、「どういうこと?」という驚愕の声が脳内に響いた。
食事会自体は和やかに進んだ。
母さんがテレビ番組の司会者さながらに話題をリードし、「真一」と名乗った男はそのアシスタントに努め、時折、自分のことや娘のことを僕に訴えかけるように説明し、僕にも質問を投げかけてきた。
僕が野球をやっていたと母さんが教えると、彼は目をキラキラさせた。
野球が大好きらしく話題もそちらの方に流れていった。
しかし、僕はきっと彼の目には無愛想に写ったことだろう。
恋人の息子に気に入られたいと必死になっていただろう彼には悪いことをしてしまったと、しばらく後で反省したがその時はそれどころではなかったのだ。
なけなしのマナーを振り絞り、食べ方が下品に見えないようにと緊張しっぱなしで料理の味さえ一切覚えていなかった。
また、その緊張の出所は、「母の恋路を邪魔したくないから」なんて健気な子心からではない。
食事が終わり、帰宅する車の中で母は恋人の娘を話題に上げた。
「大人っぽいキレイな子だ」とか、
「よく躾されてる」とか、
「あの子が娘になったら緊張しちゃう」とか。
いつも以上によく喋るのはガチガチになっていた僕に対する気遣いだったのかも知れないが、僕には追い打ちとしか受け止められなかった。
「大人っぽいキレイな子」
知っているよ。
「よく躾されてる」
そうだったね。
「あの子が娘になったら緊張しちゃう」
僕の方が母さんよりマズイよ。
あの子が僕の妹になるとか家出を前向きに検討してしまうくらいだ。
「でも世間って狭いわねえ。ノブのクラスメイトだったなんて」
しばしの沈黙の後、
「そうだな」
とだけ答えた。
僕は心の揺らぎもその理由も決して母さんには見せない。
不自然なまでのぶっきらぼうな態度も、ステレオタイプな思春期の現れと解釈してくれるだろう。
春が訪れる頃、母と真一さんは籍を入れ、僕は「黒木延夫」から「遠野延夫」になり、住居は2DKのアパートから、4LDKのマンションになり、父と妹ができた。
いや、妹に関しては「できた」なんて表現はおかしい。
彼女はもっと前から僕の世界に確かに存在していた。
遠野ひなた。
僕が恋をしている女の子が妹になってしまったのだ。
ひなたを最初に見たのは高校の入学式の日だった。
新しい生活が始まるということもあり、自分の環境を整備するために同じクラスの顔ぶれを確認していた。
同じ中学の奴、野球部の頃に対戦した奴なんかがいた。
知人の確認作業が終わった後は、知らない奴の中で仲良くなれそうなニオイのする奴を物色した。
無口そうなやつやオタクっぽい奴は真っ先に除外し、次に高校デビューを意識しすぎているような奴も外した。
それらは男子を対象にしていたのだが、僕のセンサーに割りこむような形で一人の女子が侵入してきた。
それがひなただった。
パーマっぽい長い髪をポニーテールにしていて、机に腰掛けていると太ももが見えそうになるほどスカートの丈も短かった。
第一印象は遊んでいそうな垢抜けた女子だったが、そういうグループに属する訳ではなく、大人しそうな女子にばかり声をかけているのが印象的だった。
高校生のネットワークの情報伝達速度は早い。
入学式の週が終わらないうちに目立つクラスメイトの情報はウィキペディアに掲載できるレベルで知れ渡っていた。
その情勢にあやかって、僕はひなたについてのことを周りの人間から聞き出そうとした。
しかし、「中学までは京都にいて、今年の春にこちらに引っ越してきた」と三〇文字に満たない情報しか上がってこなかった。
ならば直接攻撃だ!
と思って声をかけようにも彼女は既にクラスの地味な女子グループの元首になっており、アニメだのネットだのいわゆるオタク話で毎日盛り上がっており、そこを割って入るほどの突破力を僕は持ち合わせていない。
その上、僕はクラスの中でも垢抜けている部類だったから、目立つグループの方に自動的に振り分けられてしまっていた。
グループというのは厄介なもので授業以外の学校での時間は極力固まって過ごすことが暗黙のルールとなっており部活動よりもたちが悪い。
おかげで僕は友人と談笑しながら聞き耳を立て彼女達の会話を傍受したり、同じクラスの奈須というオタク知識にも明るい奴にこっそりレクチャーを受けたりと搦手を駆使する羽目になった結果、半年以上の膠着状態の後に、母の再婚宣言受諾を経て無条件に終戦させられてしまったのだ。
「そもそも戦ってすらいない」というのは先述の奈須の批評である。
不毛でやるせないこの恋の結末。
収穫といえばこの奈須という友人を得たことくらいだろう。
高校二年に上がると同時に学校での僕の苗字は遠野に変わった。
その辺の事情は以前より友人たちに漏らしていたので周知の筈だったが、やはりというべきか、からかいの対象になった。
「ご入籍おめでとうございます」というタイトルのメールが何通も送られてきた。
その話題もすぐに色褪せてしまい、わざわざ僕とひなたのことを引っ張りだしてからかおうとする輩はいなくなる。
未だにその話を持ち出すのは奈須くらいだ。
「ひなたちゃんとの関係は進展したか?」
放課後、校内の自動販売機の近くで僕と奈須は時間を潰していた。
「妹との関係が進展するってどういうことだよ。
クラスでの様子と何にも変わらんよ。
アイツ僕に話しかけて来ないし」
「お前から話せばいいだろ。兄貴なんだから。
だいたいアニメかマンガの話してれば食いついてくるなんて、俺なら楽勝だ」
「それは媚びているみたいで嫌だ」
「しょうもないプライドだなあ。
そのくせ俺にアニメとかについて質問してくるし。
質問するだけで観ないし」
ほとんど飲み終えた紙パックのオレンジジュースのストローを噛み潰す。
早く帰宅しても、失望を重ねるだけだからこうやって時間を潰す。
家族になったはずなのに僕とひなたの距離は疎遠なクラスメイトのまま一向に近づかない。
「僕さ、ひとり遊び嫌いなんだよ。
ひとりで満足しきっちゃったら、友達つくろうとか思えなくなって暗い人間になりそうだから。
なのにアイツはソファの上で黙々とゲームしたり本読んだりしてるの。
自分の部屋じゃなくてわざわざ見せつけるかのようにリビングで」
「それはノブに話しかけて欲しいんじゃないのか?
アピールだぞ。きっと」
「母さんとは仲良くドラマの話ばっかしてる。
真一さんとは野球の話。
で、僕には見向きもしない。どういうこと?」
パックの底に残ったジュースをズズッと音を立てて飲み干しゴミ箱に投げた。
飛距離が足りず、側面に当って落ちた。
「もう知らんよ。あそこまで愛想悪いとこっちも愛想尽かす」
奈須はケラケラと笑った。
「好きなんだけど相性は最悪ってのあるよな。分かるぞ」
「いっそ好きにならなけりゃ良かった。
それだったらこんな勝手に期待したり失望したりせずに済んだだろうね」
大きなため息をついてしまう。
明らかに辛気臭い顔をしてしまったのだろう。
奈須はニヤけ顔をやめて、
「だったら普通に接すればいいだろ。
恋愛感情にはご退場していただいて。
中途半端に引きずっても疲れるだけだ。
兄妹なんてのは無関心な同居人くらいでちょうどいいんだ」
全くもって奈須の言うとおりだ。
フラレて泣いて終わることもできなくなった奇妙な片想いにこのままだと人生ごと食いつぶされそうな気さえしてくる。
六時半頃に家に帰った。
六月末は異様に日が長く、リビングはこの時間になっても電灯無しでも十分に明るい。
そして、リビングのソファでは案の定ひなたが座り込んでいた。
四二インチの大画面のテレビからは壮大な音楽と鮮やかなアニメの映像が流れている。
チラッとひなたの顔を見ると涙が頬を伝っていた。
どれだけハマっているんだよ、と呆れてしまう。
同時に、本当に空気のように思われているんだな、とガックリ来る。
僕なら泣き顔を他人に見られたくはない、特に異性には。
リビングに繋がったダイニングに進み、冷蔵庫からサイダーを取り出した。ぼんやりと、テレビを眺めた。
部屋が夕闇に染まる頃、我に返った僕はそれまで自分がテレビで流れていたアニメに見入っていたことに気づいた。
前半はほとんど見ていなかったから話をキチンと追いきれていたわけではないが、ロボットの激しい戦闘シーンや登場人物の熱演に圧倒されてしまった。
アニメを観たのは中学生以来だったからそのせいもあるだろうが、カルチャーショックを受けた。
「凄かったな」
思わず声がこぼれてしまった。
すると、テレビの画面に写り込んでいるひなたと目があった。
少し気まずかったが、自分の存在を意識してくれたようで、ドキッとした。
そしてこれはチャンスかもしれないと思った。
今なら自然にこのアニメの話とかで会話ができるかもしれない。
だがその希望はドアの鍵が開くと同時に摘み取られた。
「ただいまー」
母さんが帰ってきたのだ。
廊下を小走りで駆け抜けリビングの電気をつけた。
「ひなちゃん、また何か見てたの?
あら、ノブも一緒に?」
僕は小さく、「おかえり」とだけ返事をして母さんとひなたの横を通り抜けた。
自分の部屋でベッドに横たわってため息をつく。
ほんの数時間前に自分を戒めたはずなのに簡単に浮かれてしまった自分が情けなくなる。
「ノブも一緒」という母さんの声が頭を反芻した。
僕らは一緒の時間なんかない。
僕らは兄妹でも一緒に生きているわけじゃないんだ。
たまたま同じ場所で生活しているだけで見るものも感じるものも全然違う。
ただの一人と一人だ。
心の壁を作ることなく、歩み寄るには僕は抱えすぎている。
僕たちは子供じゃない。
もし、もっと子供の頃に僕とひなたが出会っていれば違ったかもしれない。
そうなっていれば、ひなたに釣られて、僕も立派にオタクとして調教されていたのかもしれないけど、きっと今よりは健全で幸せな関係だっただろう。
季節は巡り、夏が訪れた。
終業式の日、僕は友達とファミレスに行き、夏休みの遊びの計画や一学期の反省会などをして過ごした。
ただ、淡々と流れる日々の一ページ。
相変わらず厄介な妹との関係は渦を巻くように僕を飲み込もうとするけど、それは水面下の出来事で、水の上に顔を出せば波のない静かな水面が広がっている。
葛藤と退屈が繰り返される日々に僕は心底嫌気がさしていた。
用を足しに行ったついでにトイレの鏡に映る自分を観察し、うなじにかかる襟足を摘んでみる。
変化がほしい。
凝り固まってしまった日常を壊してしまえるような変化を僕は求めている。
帰り道、僕は薬局に立ち寄った。
よく知った店内を突き進みヘアカラーの陳列棚からブリーチを一つ手に取った。
高校の校則ではパーマ、染髪の類は全面禁止であるが教師の目の届かない夏休みにおいては問題ない。
約四〇日の間、黒髪の自分から茶髪の自分に変身する、それも変化だ。
夏休み初日の朝は清々しく晴れ渡っていた。
両親はいつも通り仕事に出たようで台所のテーブルには僕とひなたの分の朝食が用意されていた。
普段は見られない時間帯の朝のワイドショーを横目にトーストと目玉焼きを完食した。
洗面所でドラッグストアのビニール袋から買っておいたブリーチを取り出す。
箱の側面には色の仕上がりイメージが図解されている。
一〇分で茶髪、二〇分で金髪、三〇分以上は髪が痛むのでやめましょう、と。
どれくらいの色にしようかと、前髪を引っ張って鏡に映る自分の顔周りを観察していたら、鏡面にパジャマを着たひなたが現れた。
「お、おはよ」
鏡とにらめっこしていたことが恥ずかしくて慌ててしまう。
しかし、ひなたは興味がないようで顔も見ず「おはよう」と呟いて横を通り抜けた。
それはそれで寂しい。
勝手に慌てたり、傷ついたりしていると、洗顔を終えたひなたの視線が僕の右手に注がれている。
「それ、ブリーチ?」
先程の呟きとは違い、意志を持って僕に尋ねてきた。
「そうだよ。夏休みだからイメチェンだよ」
ひなたが話しかけてくれたことで気分が高揚してしまい、浮足立ってしまうが、
「ふうん」
そう言って、タオルで顔を拭いてひなたは洗面所を出て行った。
少しは会話が続くと期待していたので再度がっかりした。
気を取り直して、ブリーチの箱を開け、説明書を読み込む。
「Aのボトルのキャップを開け、Bの薬剤を注ぎ、キャップを閉じ一〇〇回ほど振る。
キャップを外し、コーム口に付け替え染まりにくい部分から順番に―—」
図解で説明してくれているので内容は理解できたが、経験をしたことがないものに挑戦するというのは慎重になってしまう。
薬剤をこぼしたらどうしようとか、振る回数が足りなかったらどうしようとか、染まりにくい部分に手が届かなかったらどうしようとか。
再び最初から説明書を読み直そうとしたその時、
「ご飯の後でよければ、やってあげようか?」
いつの間にかひなたは洗面所の入り口に戻ってきていた。
しどろもどろしている様子を見兼ねて声をかけてくれたのだろうか?
だとしたらかなり恥ずかしい。
だけどそれより、初めてひなたが自分に何かしてくれるということが嬉しくて思わず顔がほころんだ。
「よろしくお願いします」
朝食後、ひなたは自分の部屋に戻った。
そして、一〇分経っても、二〇分たっても戻ってこなかった。
忘れ去られているのではないかと気をもみながら既に一〇回目を超えて説明書を黙読している。
そろそろ内容を暗記してきた。
「お待たせ!」
部屋のドアを開けてひなたがやって来た。
驚いた事に先程のパジャマ姿ではなく、それどころか部屋着でもなくファッション誌のストリートスナップのような出で立ちだ。
屋内だというのに帽子までかぶっている。
「ホンモノの美容師みたいだな」
半ば苦笑気味にそう言ったら、パアッと周りの光が溢れるような笑みを浮かべた。
「コスプレみたいって思わなかった?」
半分位はそう思ったけれど、敢えていうことじゃないので首を横に振った。
ひなたに指図されるまま、ダイニングの椅子に腰掛けると、ケープを首に巻かれた。
「こんなの入ってたっけ?」
「私の自前」
「へえ、女子は皆こんなの持ってるの?」
驚く僕がおかしかったのか、ひなたの唇から笑い声が漏れた。
「皆じゃないと思うよ。私は人の髪切るの好きだから持ってるだけ」
「何? 美容師になるつもり」
僕は冗談のつもりでそう言った。
しかし、馴れないひなたとの会話で声がやや固かった。そのせいか、
「なりたいとは思ってる。中学の時から」
予想外の本気な答えにたじろいでしまう。
「マジで?」
「でも、現実的な所難しいかなとも思ってる。
私なまじ成績良いからさあ、進学するもんだってお父さんも先生も周りの子も思ってるだろうし。
そういうの全部振り切る覚悟がついたら別だけど」
客観的に自分を分析しているところが本気で考えていることを伺わせる。
「周りのこと気にし過ぎじゃない?」
「人の顔色うかがうのは癖みたいなもんだよ」
ひなたは僕の肩を掴んで体を固定した。
Tシャツ越しの肩に伝わるのはビニール手袋を着用したひなたの掌の感触。
ずっと触れたいと思っていたひなたに初めて接触した。
作業中のひなたは僕の初めて見るひなただった。
食器棚のガラスに映る手際の良さは本当に小慣れていて、何より多弁だった。
今まで喋った累計時間をはるかに超えて僕達は会話をした。
学校のこと、友達のこと、親のこと。
楽しい時間は一瞬で過ぎるというけど、まるで何時間も喋ったかのように満足感が溢れてくる。
ブリーチを塗ってから二〇分が経過した。
すると今度はバスルームに連れて行かれた。
僕は床に立膝をついた状態で頭部だけを空のバスタブに入れた。
ひなたは微温いお湯でブリーチの液を洗い落とし、自分専用のシャンプーで丁寧に頭皮を揉み込むように洗ってくれた。
「気持ちいい?」
「うん、すっごく」
交わした言葉を卑猥な意味で脳内変換してしまい、ニヤけた口元がバレないことを祈った。
シャンプーを終えて濡れた髪を乾かすと、僕の髪は見事な金髪になっていた。
「完璧にストレートヘアなんだね」
僕の髪を摘んでひなたが言う。
「ひなたは違うの?」
「パーマあててると思った? 実は癖っ毛」
へぇ、と驚いたふりをした。
会話がなくても同じ家で暮らしていればパーマを当てているのかどうかくらいは分かる。
まして、特別で複雑な感情を抱いてずっと見ていたならば。
「髪の量多いね。
せっかくの金髪だし美容室に行ってちゃんとカットしてもらったほうがいいよ。
ヤンキーみたいになっちゃう」
ひなたの言うことももっともだと思う。
鏡に写る自分は確かに別人みたいになったが、これではグレたと思われても仕方ない。
「輪郭も卵型だし、ツーブロックとかいいんじゃない?
すそをガッと刈り上げて、上の方も遊べるくらいの短さにして」
「良ければやってくれない? カットも」
僕がそう言うと、鏡越しにひなたと目が合った。
表情が硬くなったのを見て図々しかったかな?
と発言を後悔しかけた。だが、
「いいの?」
口調こそ平坦だったが、顔は笑みをこらえきれていない。
「いいよ。僕じゃ上手く説明できなさそうだし、それなら分かっている人が切ってくれた方がいいよ」
だからもっと僕の相手をして欲しい。
僕の髪に触れて欲しい。
美容室の店員とお客さんが髪を切っている間、いくらフレンドリーにお喋りしていても本当に友だちになったわけじゃない。
髪の毛と一緒に関係も切り離されてその時間は終わる。
そんな風にこのサロンごっこが終われば、ひなたと離れてしまうように思えたから。
僕の内心にはおそらく気づいていないだろうひなたは、満面の笑みで応えてくれた。
「ちょっと時間はかかっちゃうかもしれないけど、我慢してね」
カットに必要な道具とそれぞれの財布と携帯を持って、玄関のドアを開けた。
白いコンクリートの地面が太陽の光を反射していて目が眩んだ後、まとわり付くような夏の暑さを感じた。
マンションを出て、市内循環バスのバス停に向かう。
バスは僕達と同時に到着したので、足を止めることなく乗り込んだ。
エンジンと車体が発する轟音を車内にまで響かせてバスはゆっくりと発車した。
バスの中でひなたと髪型の相談をする。
スマートフォンでネット上の髪型画像をかき集め、イメージに近い髪型を探す。
バスの乗客は僕達以外お年寄りだった。
ああでもないこうでもないと騒ぐ僕達は迷惑がられていたかもしれない。
一五分ほどバスに揺られて、僕達の打ち合わせもまとまったところで目的地に辿り着いた。
たどり着いたのは市内東部に位置する砂浜。
海水浴場になっているが、盛況ではなく家族連れの客がまばらにいるだけだった。
砂浜の隅、岩場の麓に僕は持ってきた即席チェアをセットし腰掛けた。
「男子の髪切るのって初めてだなぁ」
ひなたは、僕の背後に周り、百均で売っているレインコートを僕に着せて、首周りに先ほど使ったケープを巻いた。
身動きが取れない僕は空と海を眺めて、
「家じゃダメだったの?」
と、当然の疑問を口にした。
「今更それを言うの!」
たしかに今更だ。
だけどひなたが「砂浜で切りたい!」と言い出したら従う以外のことを思いつかなかったんだ。
「別に嫌じゃないよ。ただ理由があるのかな、って思ったんだ。それだけ」
ひなたは少し頬を膨らませて、息を吐き出す。
「とあるアニメで主人公が砂浜で髪の毛を切ってもらうシーンがあって、いいなあ、やってみたいなあ、って思ってて」
案の定というか、浅薄な理由に僕は声を上げて笑った。
「笑うな!」
「ゴメン、ゴメン。らしすぎる、って思って」
「らしすぎる?」
「オタ―—アニメとかマンガが好きなひなたらしいと思った」
あやうく、オタクと言ってしまうところだった。
たとえ、害意がない言葉だとしても、一般的に揶揄として使われる言葉はネガティブに受け取られてしまう。
だから僕は言葉を選ぶ。
だけどひなたは、
「オタクって言っていいよ。別に傷つきもムカつきもしないし」
まるで僕の心を読んだような返しをしてきた。
びっくりして言葉に詰まる僕の頭に霧吹きでヘアウォーターをかけ始めた。
「きっかけは中学生の頃だったな。
お母さんが出て行って、私とお父さんの二人暮らしになった頃」
ひなたは淡々と、しかし波の音に紛れてしまわない通る声で僕に語り始めた。
「学校が終わって、友達と遊んで、家に帰ると誰もいないとね、何か違うの。
家を出る前にはお母さんとの会話なんてほとんどなかったんだけどそれでもいるといないとじゃ全然違うの。
生活音ってやつ。それがなくなっちゃってすごく心細かったっていうか。
だから家に帰るとまずテレビをつけてた。
番組を楽しむって気分じゃなかったけどね」
ひなたの口から語られた過去。
それは僕もよく知っている光景だった。
西日が差し込んでオレンジ色に染まる部屋の中は畳を踏む足音すら耳に残る。
僕は寂しがりな子供だった。
たまに僕と同じような家庭環境の友達がいたが例外なくみんな寂しがりだった。
みんなで遊んでいる時も必ず僕らは最後まで残っていた。
自ら進んで早く家に帰ろうとはしない。
他の人が当たり前のように持っている両親というものが欠けているということはコンプレックスであり、意識したくないものだった。
ひなたもそうだったのだろうか。
「でね、ある日お父さんが出張で帰ってこない日があって、だらだらテレビをつけっぱなしにしちゃったままうたた寝しちゃってね、起きたら真夜中だったの。
その時にちょうど深夜アニメやってて、それを見ちゃったのが私のオタクの始まり。
アニメなんか小学校低学年で卒業してたからすごいカルチャーショックでね、こんなにワクワクできるものが私の寝ている時間に毎日やってたってことが凄く嬉しくて悔しかった。
世の中って私が出会ってない楽しいものがたくさんあって、私が出会えない楽しいものもたくさんあるんだなあ、って」
楽しそうに思い出を話すひなた。
その所々に僕は幼い頃の自分とひなたを重ねてしまう。
憂いの時代、僕らは生きていく術を探して、見つけた。
僕は体を動かしたり、友達と遊んだり。ひなたは楽しいことを探し当てること。
その術に従い、僕らは生きてきたのだ。
「だから今も楽しむことに貪欲なんだな」
「そう。お母さんとドラマを見るのもお父さんと野球のニュースを話題にするのもね」
ひなたは口を動かしながらサクサクと僕の髪にハサミを入れていく。
「私がオタクになりたての頃は、今みたいにその話題で盛り上がれる友達っていませんでした。
さて、私はどうしたでしょう?」
「ネットで盛り上がった?」
「残念。正解は担当の美容師さんと盛り上がりました」
「美容師ってそんな話題でも盛り上がれるんだ。すげえ」
「すごいよね。美容師さんって毎日何人ものお客さんと接するから、話の引き出しもたくさん用意しなくちゃいけなくって常に色んな事を吸収しようとするんだって。
美容室のことを
そのことを聞いて僕はピンときた。
「もしかして、美容師になりたいのって」
「正解! お客さんと楽しくおしゃべりしたいからでした!」
ひなたは笑っていた。僕も笑った。
天井も壁もない夏空のサロン。僕らの笑い声は波音に飲み込まれていった。
夏休みの初日はまるで世界が変わっていくような一日だった。
この後に続く真っ白なキャンバスのように自由な日々をどんな色で塗りつぶせるだろうか、という高揚感で溢れていた。
しかし、その後の僕の夏休みは初日が嘘だったかのように淡々と過ぎていくことになる。
髪を染めて切った翌日、ひなたは飛行機で関西の親戚のもとに行ってしまった。
中学までの友達はみんな関西にいるから当然といえば当然かもしれない。
しかも予備校の夏期講習まで向こうで受けてくるとのこと。
そして向こうには琴線に触れる娯楽もたくさんあるのだろう。
遠く彼方でも惹きつけられる理由があるのならそこへ躊躇いなく飛んでいける、それがひなたなのだ。
溜息をつきながら近所で釣り糸を垂らした日が何日あっただろう。
たいして釣果の上がらない釣りは仲間とのしゃべり場になってしまうわけで、学校の休み時間と何ら変わらない、日常的な話題が交錯する。
僕の金髪もツーブロックもその日常的な話題の一つに埋もれてしまい、話題としての鮮度が落ちるに従って刈り上げた部分や根本からは黒い髪が伸びていった。
夏休みの終わる三日前、ひなたが我が家に帰ってきた。
しかし、帰ってきてからもひなたは家で疲れを休める間もなく、日中はこちらの友達にお土産を渡しがてら遊びに行き、夜は母さんと真一さんにみやげ話を語って過ごし、僕との会話は殆どなかった。
八月三一日の夜、風呂あがりに洗面所の鏡で自分の姿を見る。
日焼けして皮が剥けた腕と、根本の黒髪が伸びてプリン状態になったボサボサの髪。
不毛な夏の遺産だ。
始業式の朝、登校した僕は急いでトイレに駆け込んだ。
コンビニで買った髪の毛を黒く染めるスプレーを握りしめて。
夏休みが終わる前にちゃんと黒く染め直そうと思っていたのだが、ひなたが帰ってきてからというもの、まるでリセットされたかのように距離を感じてしまい、その苛立ちのせいで校則のことを考える余裕なんてなかったのだ。
トイレの洗面台には黒彩の飛沫が飛び散ってひどい有様だ。
黒彩を塗りこんだ指は石鹸で洗っても塗料が落ちない。
それでもなんとか、パッと見、金髪部分が分からないように染めることができた。
なんとか今日一日乗り切ればそれでいい。
「みんな聞いて聞いて! 今日始業式の後、学年で頭髪検査するんだってよ!」
教室に響き渡った速報は僕の顔を青ざめさせた。
「めんどくせー!」と長髪の男子が叫ぶ。
「ヤバイかなぁ?」と髪の毛がうっすら赤い女子が周囲に感想を乞うている。
だが、僕に比べれば全然マシだ。
仮初めの黒髪の下には虎のようなツートンカラーが潜んでいる。
うちの高校の校則ではお洒落心が故の頭髪違反については初犯の場合は口頭注意で済まされる。
だが、反抗的な意味、僕のような似合いもしない派手なだけの不良めいた頭髪違反は実力行使で排除される。
うちの生活指導部にはバリカンが常備されている。
それが何のためにあるかなんては説明するだけ野暮だ。
「どうした、顔色悪いぞ?」
いつの間にか僕の近くにいた奈須は僕の表情に続き、髪を見てため息をもらす。
「バカ。なんで染めてないんだ」
「黒彩だって分かる?」
「分かる。もう早退したほうがいいぞ。
丸坊主にされるだけじゃなくて親とかに連絡されたりもするし」
奈須の脅しを聞いて嫌な汗が噴き出してくる。
親に連絡されるなんて冗談じゃない。
親の監督不行き届きと言えばそれまでだ。
真一さんも母さんも夏休み中一度も僕の金髪を諌めようとはしなかった。
母さんは品がない、と笑うことはあったが、やめろとは言わなかった。
それは無関心とは違って髪の毛を染めても僕は道を踏み外さないと信用してくれたのだ。
その信用してくれた人間を僕の愚行の共犯者になんかしたくない。
何より、ひなたが唯一僕にくれたものを、
二人で過ごした時間の証を、
他人の手で奪われるのは耐えられなかった。
「すまん、腹痛で帰ったことにしておいて」
そう言って、教室のドアから出ようとしたが、人にぶつかった。
ゴメン、と謝ろうとすると、声に詰まった。
ぶつかったのはひなただった。
「痛い」
「悪い、ちょっと急いでるんで」
ひなたの横を通り抜けようとすると、シャツの背を掴まれた。
「分かってるから。なんとかするから」
ひなたはなだめるように僕にそう言った。
九月に入ったというのに空は青々として日差しは突き刺さるように降り注ぐ。
眼下の体育館からは我が校の校歌斉唱が聞こえてくる。
「サボらせちゃってゴメン」
「いいよ、本当なら昨日の夜にやってあげるべきだったんだ」
校舎の屋上で僕はひなたに髪を切ってもらっている。
「髪の毛を切っている時だけは楽しげに話しかけてくれるんだな」
だけ、の部分を強調していう。嫌味のつもりだ。
「やっぱり、私が帰ってきてからずっと機嫌悪いよね」
ひなたの他人ごとのような言い方に腹が立った。
誰のせいだと思ってるんだ。
「いつもどおりだろ。僕たちの関係ってそういうもんじゃないか」
言い過ぎた、と思った。
だが悔しかったのだ。
僕が悶々として夏を過ごしていたにも関わらず何食わぬ顔で帰ってきたことも。
僕がその事に傷ついてしまうことも。
「そうかもね。友達じゃないし、そんなもんじゃない。
色々あって一緒に暮らしてるけどさ、別にそれは私達の都合じゃなかったわけだし、これまで話したこともないようなクラスメイト同士が仲良くしようとするのもおかしいと思ってさ」
「そうだな、そのとおりだよ」
ひなたのストレートな気持ちを聞いて、椅子がなかったら崩れ落ちそうなくらいダメージを受けた。
でも、それも仕方ないことだ。
ひなたとの距離を作ってしまっているものは僕の消化不良の恋心なんだ。
一房、また一房と僕の金色に染まった髪が地面に落ちる。
短くはなってしまうだろうが丸坊主ほどではないし、ひなたのセンスに任せておけば滅多なことにはならないだろう。
「金髪に染めて何かいいことあった?」
ひなたが僕に問いかける。
いいことなんてなかった。
髪の色が変わったくらいじゃ僕も周りの世界も何も変わらなかった。
だけど、一瞬だけ。四〇日ある夏休みのうち一日だけ。
世界の色が変わるような体験をした。
「ひなたと少し喋れたことかな」
ひなたの手が止まったが、僕は続ける。
「さっきさあ、無理に仲良くする必要はないみたいなこと言っただろ。
たしかに無理する必要はないけどさ、僕にとってはそうじゃないんだよ。
むしろもっとひなたと仲良くなりたいんだよ、兄妹として。
別に望んでなったわけじゃないけどさ、人のつながりってそういうもんじゃないか。
友達だってたまたま同じ学校で同じクラスで席が近いとか、趣味が似てるとかそんな偶然がきっかけで始まるもんだろ。
だったら、たまたま兄妹になっちまった僕達が仲良くなるのだってアリだろ。
僕はひなたのことをほとんど知らないし、ひなただってそうだ。
でも、こないだ髪の毛切りながらひなた色々喋ってくれたじゃん。
あの時間が凄く楽しかったんだ」
言いながら虚しくなる。
本当の気持ちを隠している。
そのくせストレートな嘘のない思いはひなたに何らかの答えを返すよう追い詰めている。
沈黙が訪れ、屋上の室外機の音だけが止まった時間の中で響く。
僕がため息をついてしまいそうになったその時、再び、ひなたの手が動き出した。
ザクリザクリと髪にハサミを入れて、呟いた。
「だったらそう言ってよ。ずっと私も怖かったんだから」
返ってきた言葉は意外なものだった。僕の戸惑いを無視してひなたは続ける。
「さっきも言ったけど、私達話したことなかったじゃない。
一年近く同じクラスだったのにさ。別にあなたが人と喋るのが苦手なタイプなら気にしなかったけど、そうじゃないでしょ。
オタクの奈須くんとかとも仲良くしてるのに私には話しかけてくれないどころか、目が合うとなんか寂しそうな顔しするし」
「そんな顔してた?」
「してた。一緒に暮らし始めても話しかけてくれなかったしね。
これは嫌われてるって結構傷ついてたんだ―—」
「嫌いなんかじゃない! 好きだ―—」
思わず口走った言葉を慌てて飲み込んで、
「・・・よ、どっちかで言うと」
無理やりフォローした。
僕はものすごく後悔している。
僕がひなたのことを特別な思いで見ていたことが全て悪い方向に解釈されているなんて思いもしなかった。
ひなたとの距離を測りきれない僕は好きになったことが間違いだと思っていたが、好きのかたちが間違っていたんだ。
それこそ奈須が言うように普通に接すれば良かった。
もっと話しかければよかった。だから、
「だから、これからはもっと話すよ。
家で暇な時は何か話すし、食事中も会話に参加する」
そうしよう、とひなたは言って僕の髪を手で払った。
「こういう風に内心打ち明けあって、問題を解決するのって家族ってカンジだね」
僕の金色だった髪は一本残らず切り落とされ、短く切り揃えられた。
地面に落ちた髪を箒でかき集め、コンビニ袋に放り込んだ。
「ありがと。これで丸坊主にならなくて済む」
「うん、カット料は一〇〇〇円ね」
「家族間で金のやりとりは良くないと思うぞ」
軽口を叩いて、僕達は屋上を後にした。
その後、始業式が終わり、廊下に溢れかえるクラスメイトに混じって教室に戻った。
ホームルームの時間中、折り畳まれたメモが僕の席にやってきた。
中身には「お兄ちゃん、お昼ごはん奢って。カット代の代わりに」と書かれてあった。
苦笑しながら顔を上げるとニヤニヤと口の端を上げているひなたと目があった。
僕は鼻でため息をついて指でOKサインを出した。
冗談交じりで使われたお兄ちゃんという言葉に気を良くしてしまったのかもしれない。
兄妹という繋がりは親の都合で生まれたもので、当人達にとっては突然降って湧いた運命以外の何物でもない。
僕達はもう恋人になることはないだろう。
友だちになることもないだろう。
それでもその繋がりを育ててみるのもいいんじゃないかと思えた。
下校時、僕は身近な友人のいくつかの誘いを退けてひなたの席に向かった。
「帰るか」
「うん」
とだけ言葉を交わして、僕らは一緒に教室を出た。
今までなかった光景に教室の時間が一瞬止まった気がした。
すれ違った奈須がニヤリと笑った。
僕は口の端を片方だけ上げて応えた。
校舎を出ると僕らの頭上には夏空が広がった。
何を食べよう、どこに行こう、と相談しながら歩く。
夏休みは終わったはずなのに夏空のサロンで髪を切ってもらったあの日と同じ、独特の高揚感で僕は満たされていた。