撮影:幸田大地

「地震の話って、あんまりしねえんだ」──消えゆく“隠された地震”の記憶、東南海・三河地震が示す教訓

11/14(木) 9:24 配信

終戦間際、東海地方を襲った二つの地震がある。1944年12月の東南海地震と、1945年1月の三河地震だ。いずれも1000人以上の死者・行方不明者を出したにもかかわらず、戦時下ゆえに大きく報じられることなく、「隠された地震」とも言われている。南海トラフを震源とした地震が懸念されている中、かつての「隠された地震」がいま、地域で「忘れられる」危機に直面している。地域の中で災害の記憶を継ぐ意味とは何か。(ノンフィクションライター・山川徹/Yahoo!ニュース 特集編集部)

発生から74年、“忘れられた地震”

愛知県西尾市の願王山妙喜寺は、田畑に囲まれた小さな住宅街に立つ曹洞宗寺院である。

近所に暮らす三輪賢伍さん(87)は、2003年に再建されたまだ新しい本堂で振り返った。

「地震の話って、あんまりしねえんだ。あの地震で、オヤジとオフクロ、妹2人と生まれたばっかの弟が家の下敷きになって亡くなったから……。いま思い出しても涙が出てくる。でも、覚えている人もずいぶん少なくなったな」

三輪賢伍さん(87)。国民学校初等科6年生のときに東南海・三河地震で被災した(撮影:幸田大地)

“あの地震”とは、1945年1月13日にこの地域を襲ったマグニチュード6.8 の三河地震である。内閣府の資料によると、2306人が犠牲になった災害だった。にもかかわらず、いま地元でも記憶する人はわずかだ。

発生からすでに74年の歳月が流れている。

三河地震は、三輪さんが語るように“忘れられた地震”になってしまっているのだ。

妙喜寺が立つ西尾市江原町は、三河地震で大きな被害を受けた地域の一つである。住職である佐久間桂祥さん(76)はこう語る。

「この辺りにあった約100世帯の住宅のうち約半数が倒壊し、60人以上が亡くなりました。5歳だった私の姉もつぶれた庫裏(くり)の下敷きになって犠牲になりました」

妙喜寺の住職・佐久間桂祥さん(76)。1歳のときに被災した三河地震で5歳だった姉を亡くしている(撮影:幸田大地)

当時、妙喜寺の本堂では、名古屋市の大井国民学校(現・平和小学校)の子どもたち約30人が生活を送っていた。空襲の恐れがある都市部から学童疎開を受け入れていたからだ。しかし、三河地震で本堂が全壊。就寝中だった児童12人と教員1人が犠牲になった。佐久間さんの姉も含めて、妙喜寺だけで14人が亡くなっている。

佐久間さんは被災時1歳。直接の記憶はない。

「地震を経験した人はいるにはいるのですが、歳月とともに記憶が薄れてしまっている。私は毎年1月13日に執り行ってきた三河地震の法要で、被災した人や遺族から地震の話を聞いてきたんです」

妙喜寺の近辺を歩いてみても、地震の痕跡を見つけるのは難しい。境内の片隅に保存される幅6〜7センチ、長さは10メートルほどの地割れ跡が数少ない名残だった。

妙喜寺に残る三河地震の地割れ跡(撮影:幸田大地)

戦時中の三つの大地震

三河地震の37日前の1944年12月7日にも、三河地方は震度7相当の揺れに見舞われた。三河地震を誘発したともされる東南海地震である。

東南海地震は、南海トラフを震源とするマグニチュード7.9の地震だ。静岡県、愛知県、三重県、和歌山県などの沿岸部が大きな津波に襲われて、死者・行方不明者は1223人に上った。

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