そうだ、いまだ、ブログを書こうという気持ちになったので書きます。
「ブログって、どうやって書けばいいんだっけ…?」という気持ちで書いています。
去年宣言した通り神無月の出雲大社へいってきた。
片道およそ530kmをひとりで運転した。だいたい東京⇔大阪くらいの距離。*1途中休みながら行きはほぼ高速で7時間、帰りは下道を長く走ったため13時間かかった。愛車は広島産の癖に山陰の地理に疎いらしく、あるはずの道が表示されないことが何度もあって、かなり無駄に遠回りをさせられた。ゼンリンの地図がほしいと久しぶりに思った。最後はGoogleさんと競合させてパケットがすごいことになったが、時間と体力を考えるともっと早くやればよかった。
「疲れないこと、お金を使わないことがいちばん大事なわけじゃない」と何度も自分に言い聞かせた週末だった。つまりめちゃめちゃ疲れてお金がかかった。
このところ「疲れることはしない、お金がかかることをしないのは賢い」を判断基準に暮らしているので冒険だった。
話は3年前に遡る。2016年の春、突然の告知を受けたもちおは「生きているうちにやっておきたいことはないか」と聞かれて「出雲大社へいってみたい」とこたえた。それではじめて山陰へ車で出かけた。
出雲大社から玉造温泉へ、そこから境港の水木しげるロードへ出たところで九州に大きな地震があり、これも何かの縁としばらく三朝温泉に滞在した。滞在中に車で日本海沿岸を走って鳥取砂丘にもいった。
もちおは出雲大社も境港も三朝温泉も気に入って「次は神無月にいきたい」といっていたのだけれど、その願いは叶わなかった。
「お金は出すからまた三朝温泉へいってきなよ。きっとまたよくなるよ」と妹が何度もいってくれたけど、最後の一年間もちおは病院と九十九電機とヤマト運輸の営業所以外には行きたがらず、もっぱら書斎に籠城していた。
会社勤めをしていたときは死ぬほど働いて、闘病生活に入ってからは会社に勤めないで稼ぐ方法を探ることで頭がいっぱいで、いよいよ何も出来なくなる瞬間までビットコインと自作PCの販売に夢中になっていた。
もちおとまた三朝温泉へいきたかったなあ。でももちおがやりたいことを応援するのが最善だと、当人が悔いのないように支援することがいちばんいいと、思っちゃったんだよね。もっとこうしていたら、もしやり直せるならと後悔はつきない。
去年8月の終わりにもちおが息を引き取ったとき、わたしは混乱した頭で「色々なものを一年はそのままにしておこう」「愛車で神無月の出雲大社へいこう」と思った。そのとき考えられた具体的な話はこれだけだった。それがすんだら自分の人生も終わるといいなと思っていた。
9月に葬儀を終え、神無月まで2ヵ月。しかし夫ロスの生活が想像以上にヘヴィだったため、BMI14を切ったあたりでわたしは入院なり合宿なりしないと命が危ないと思い、11月にセブ島へ留学した。というわけで神無月(出雲大社は神在月)の出雲参拝は翌年に持ち越された。
「一年たったら」と計画しても一年で気力体力心の整理がすんでいるかどうかはわからない。サウナ前の日々からすると雲行きはかなり怪しかった。しかしサウナで連日汗と涙を流す生活が功を奏したのか、いくつかの偶然が重なり、夏の終わりの一周忌を境にカチカチといくつもの歯車があい、重くて固い扉がギギギと開き始めた。
わたしはNetfrixでこんまりの片付けメソッドをおさらいし、その後数週間不眠不休で住まいと暮らしを一人暮らし仕様にかえていった。「思い出品の片付けは最も難しいので一番最後に」とこんまりは言う。夫を亡くした家では夫が褒めてくれたスカートから穴の開いた靴下一足に至るまで思い出品である。
「いままでありがとう」と別れを告げたあれやこれやをゴミ袋や段ボール箱に詰めるのは夫とわたしと二人の結婚生活を葬る儀式そのもので、連日火葬場に寝泊まりしている気分だった。この時期の日記は毎日「めちゃめちゃつらい」としか書いていない。
そして片付けがひと段落したところに神無月になった。
住まいから出雲まで高速道路と下道を併用して半日、高速で一直線にいけば5~6時間。出雲へはもちおと運転を交代しながら三度いっている。また三朝温泉へはひとりで一度車でいった。この時はシートベルトをかけた骨壺を積んでいたのであったが、この話はまたいつか別のときにする。
島根、鳥取へのドライブは高速一直線コースでも交代なしでは大変ハードである。あれをまたやるのか。いや、やらんとな。そのために車検通したんだしな。車中泊グッズもそろえたんだしな。去年の今頃はこれがすんだら車手放してもいいと思ってたくらいだしな。
ここから道中のことや滞在した場所の話を書き始めたけれど、その日に書き終えられない話を書くと飽きたとき尻切れトンボになるので今回はやめる。
とにかく愛車で神無月の出雲大社に参るという悲願は達成した。そして一年はなるべく元のままに暮らすという計画、一年経ったら世帯の持ち物を現状にあわせて整理するという計画をまずまず達成しつつある。
わたしはもちおがいた頃と同じ家に住んで、同じ仕事を続けている。
でも家のなかはすっかり様変わりした。まるで引っ越ししたみたいだ。
暮らし方も変わった。わたしも変わった。
同じであり続けることはできない。
もう一人暮らしは寂しくない。
人のぬくもりを忘れてしまうと身を切るような恋しさも感じない。
楽しくしあわせなとき、心から安心してうれしいとき、ちょっと毒のある冗談が浮かんだときはもちおがいるときの感じになるから泣いてしまうけど、ひとりでいてそんな瞬間はそうそうない。
仲睦まじく寄り添う夫婦を見かけるといいなあと思う。
老夫婦がうらやましい。
でもみんな死ぬのだ。
わたしたちもああしてどこへいくにも手をつないでキャッキャッはしゃいでいたのだ。
そして死に別れた。
みんな遅かれ早かれ死に別れる。
出会えてよかった。手をつないではしゃぐ日々があったことが僥倖だった。
重い扉が開きつつあるけれど、扉の向こうに何があるのかはわからない。
2015年の暮れにはまもなく開く扉の向こうがもちおのいない世界に通じているとは思っていなかった。
立ち寄った展望台に大国主命の娘、下照姫(シタテルヒメ)の名があった。国譲りを迫る天照大神が遣わした天稚彦(アメノワカヒコ)が反逆罪で殺されたとき、妻であった下照姫の嘆きは高天原に達したという*2。この展望台は出雲を追われた下照姫が遠くに見える故郷を懐かしんで夕暮れ時物思いに沈んでいた場所だとある。
寡婦仲間だ。急に親近感がわく。神無月は出雲大社に里帰りしておられるのだろうか。天稚彦には会えるのだろうか。わたしにとって出雲大社は幽事(かくりごと)を司る神の宿る場所で、顕事(あらわごと)の領域から見えなくなったもちおは大国主命によりいっそうお世話になる立場のように思える。
帰りに夕暮れの沿岸沿いを走っていたら雲のかかる山々に幾本もの光の梯子が輝いていた。
あそこを上ったりしているんだろうかと思った。
いいところだといいなあ。
よくしてもらえているといいなあ。