以前に何度か書いた事があるのですが、改めて。
科学的根拠はありません
という表現。これはおそらく、
- 科学について、ある程度の知識を持っている
- 科学に対し、ある程度の信用を置いている
上のいずれかの人以外には、あまり響かない言い回しなのではないかと思います。
科学とは、観察や実験・調査によって得られたデータに基づき現象の構造や因果関係を探る営みであり、また、その営みによって構築された知識の体系です。制度的には、専門家同士による査読の仕組みがあり、複数の研究で同様の結果が得られた事をもって、科学的知識として共有されていきます。
これを踏まえれば、科学的根拠はありませんなる言い回しは、上記で説明したようなプロセスを経ていないという含みがある、と言えます。しかるにこの含みは、そもそも科学の事を(制度的な面も併せて)知っている人にしか通じません。また、この含みに気づかなくとも、なるほどそうなのか、と思う人はいるでしょう。特に科学に関する知識は持っていないが、何となく科学を信用しているので、複雑な背景を知らずとも何となく同意する、という訳です。
これが、最初に揚げた2通りの人たちです。
しかし、このような(科学的根拠はありません)表現は、複雑な背景を前提とした簡潔な言い回しであるが故に、
- そもそも科学に興味が無く、信用もしていない
- 科学の方法についていくらかの知識はあるが、制度的な部分や、複数の研究によって再現しコンセンサスを得ていくプロセスについては明るく無い
- 報道やフィクション等を通じて元々、科学に対して悪印象を持っている
これらの人びとには、通じにくいのではないかと考えます。そういう対象に、科学的根拠はありませんと言っても、科学なんて知るか、何が科学だ、科学なんて無力ではないか、といった反応が返ってくるでしょう。
もちろん、科学的根拠はありませんと言われ、納得する人は沢山いるでしょう(納得のしかたの詳細は別に考えるべきでしょうが)。ですから、そういう言い回しをすべきで無い、とは全然思いません。けれども、専門的媒体における発表では無く、twitterのようなSNSでの発信は通常、受け取る側の知識のありかたを、専門誌のように限定し想定する事は困難ですので、別の言い回しを工夫するのも良いのではないかな、と思うのです。
たとえば、医学的の話であれば、効果の語をメインに持ってきて、その療法の効果は認められていませんのように表現する、とかですね。これだと、科学的との表現に対するような反発を、幾分か抑える事も出来るかも知れません。そうすれば、では効果はどうやって測るのかの話にも、繋げやすくなるでしょう。そういう事情を知ってもらった上で、その事情の結果得られた知見を表すのが、科学的や医学的に云々、といった言い回しなのだ、と説明するのです。
病気に対する療法に関する議論というのは、おこなう側とおこなわれる側、専門家と非専門家、が入り混じっておこなわれるものですから、自身の発信はどういう層に届けているのか、それ以外の層にはどう見えるのか、などを意識して、表現や説明のやりかたを工夫したい所です。