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読者の皆さんからご投稿をいただき、「世間的に正しいとされるハッピーエンドで自分の人生終わらされたらたまんなくね?」という姿勢で人生を一緒に考えるこの連載、「ハッピーエンドに殺されない」。ここ2ヶ月、「ノンセク」という言葉を使った投稿を2回取り上げてきました。
・ノンセクで、性的なことが気持ち悪い。治療できますか?
・セクシャルな彼女と、ノンセクシャルな私
いずれの方も「自分ノンセクで〜す!」とはなっていない方でした。前者の方は「治療したい」、後者の方は「ノンセクという言葉が自分に当てはまるのかもしれない、が、気持ちの整理がつかない。彼女とより良い関係になりたい」とおっしゃいます。
ノンセクとは、ノンセクシャルの略。前の記事でもご紹介しましたが、「他者に恋愛感情は抱くけれど性的欲望の対象とはしない」というあり方のことで、カタカナですけれども和製英語。日本ローカルの言葉です(日本にしか存在しないわけではないのですが、他の地域や言語では、別の呼び方、別の捉え方をしています)。
わたしはこれらの記事について、「あなたはノンセクなんだね。それが自分らしさだと思うよ!」という回答をしませんでした。それが多分、時代の流れ的に求められている回答なんだろうとは思うのですが、だからこそ、そうしませんでした。この先に行くために。“みんな”ではなく“その人”に向けて書くために。
しかし、そうしたところ、次のようなご意見を頂戴しました。
「本人がノンセクだと言っているのを否定するのか?」
「ノンセクでない人間が高みからアドバイスを説くな」
SNSとかで陰口をたたかず、きちんとご意見くださった方に感謝します。この方の他にも、「ノンセクを否定された」と思った方はいらっしゃるでしょう。お詫び申し上げます。
形だけじゃなくお詫び申し上げたいからこそ、伝わるまで言葉を重ねます。
わたしはやっぱり、「あなたは〇〇なんだね!それが自分らしさだと思うよ」回答を、わたしの言葉としては書けないんですよ。例え求められているとしても、求められているからとそれを言うことは、魂のこもらない、単なるテンプレ回答に思えてしまうんです。
今回は、「ノンセク」という言葉がキーではありますが、そこに属さない人にも関わる話。言葉によって生まれる、内側と外側の話。関係主義と本質主義の話です。
自分を理解してくれる人たちに会えたとき
その話をする前に、あなたに問いかけたいことがあります。
「みんなには分かってもらえない自分」を、やっと分かってくれる人たちに会えた!
……っていう感じ、あなたはどこかで、味わったことがあるでしょうか。
色々あると思います。
趣味のサークル。何かの自助会。何かの当事者交流会。
オタク。鉄道。歴史。音楽。出自。宗教。LGBT。
「みんなと違う自分」の孤独感が、「やっと仲間に会えた」という一体感になる。安心しますね。とてもいいと思います。わたしもそうしてます。そうしたいから、気を付けてることがあります。
それは、自分がお城にこもって外を攻撃していないか振り返ること、です。
「みんなは楽してるのに自分たちだけ苦しいよね!?」
「みんな敵! 自分たちだけが分かってる!!」
という、「理解されない苦しい自分たち」の城に立てこもって外側を攻撃する状態になっていないか? それは本当の本当に、“自分”にとって、本当に快適なのか? “自分たち”はいっぺんおいといてもいい、“自分”にとって、本当に快適なのか? って、振り返ることです。
「みんなと違う自分の孤独感」が、
「やっと仲間に会えた」と癒された。
……はずなのに、「自分たち仲間以外はみんな敵」に思えてきた。
わたしはこの状態を、「エルサの城状態」と呼びます。ディズニー映画「アナと雪の女王」に登場する、エルサ。彼女は“他のみんなと違って”魔法の力があったため、傷つけることを恐れ、傷つけられることを恐れ、魔法の城で自分を守り、守るために攻撃を始めます。同じように魔法の力で作り出した、巨大な雪男を使って。この雪男の本当の名前を知っているのは、同じように魔法の力で生まれた存在だけ、です。
この「エルサの城状態」状態にある人たちに「出ておいでよ!外は楽しいよ〜!」しながらドアをどんどん叩くことを、わたしはしません。押し付けはしませんが、問いかけはします。自分自身に対しても、わたしの書くものを選んで読んでくださる読者さんに対しても、問いかけます。単純に「出る」ことにとどまらない、本当の自由のために。「そもそもなんで魔法が使えないほうが“普通”なの? あなたを城に閉じ込めているものは、本当は、何なの?」って。
「綺麗事で返すのはやめてください」というご意見
さて、ここで前の記事を振り返ります。わたしがお答えしたのは大体、こういう内容です。
「ノンセクという言葉が生まれたのにはこういう経緯がある。あなたはそれを身につけることを選んでもいいけど、選ばなくてもいい。“ノンセクのわたしとそうでないあなた”でもいいけど、本当はただ“わたしとあなた”だ。そこに生まれ育つ関係性を、世間一般と違ってもいい、オリジナルの意味を込めて、愛、と呼んでも良いのではないか」
これに対して、この回の投稿者とは別の方から頂いたご意見は、次の通りです。
ノンセクの女です。
意見と言いますかモヤっとしたので送らせていただきます。
相手と向き合ってというのはあまりに的を外れていると感じます。セクシャリティを代表して言うわけではありませんが、ノンセクのオフ会やSNSでの交流を通じて感じることは皆それぞれ他人との関係を通じて違和感を感じ、ノンセクに辿り着いているということです。
セックスができない人間はどうしたって生きづらい。だから自分を責めがちになるんです。そこに追い打ちをかけないでください。またこれは理想論で解決できるものではないし、そんなアドバイスを説かれたって、持てる者が高みからなにか「ありがたいお言葉」をかけてるなぁぐらいにしか思えないのです。だって性愛者の皆さんはアドバイスはくれても、結局非性愛者と一生セックスなしでは生きてくれないじゃないですか。
綺麗事で返すのはやめてください。本当に理解できないならそれでもいい。でもそうなら相談に乗らないで欲しいです。
(ご投稿は原文の表現を変えず半分以下の字数に編集していますが、全文拝読しました)
それぞれ見方が違いますね。
前者の、「あなたとわたし」って言ってる牧村朝子さんことわたしは、関係主義的な見方をしている。
後者の、「性愛者と非性愛者」って今回ご投稿くださった方は、本質主義的な見方をしているんですね。
関係主義、本質主義とはなにか
話を聞かずに上から目線で解説してるみたいだな自分、って思うんですけど、違いを踏まえて話を進めるために、解説させてくださいね。わたし個人はこれらの言葉を、それぞれ次のように整理しています。
関係主義 | 本質主義 |
---|---|
・「この社会においてこの言葉で〇〇と呼ばれる、この人のあり方、関係性」 ・同性愛を例にするなら:「Aさんという人がいる。Bさんという人もいる。ふたりは同性同士で、恋愛関係にある」 ・ノンセクを例にするなら:「AさんとBさんの間には直接の関わりがある。AさんはBさんへの気持ちを恋愛感情と呼んでいる。性欲の対象にはしていない。AさんはBさんと非性愛的な関係だ」 ・社会問題を例にするなら:「他人の困りごとは、自分の属する社会の困りごとでもある。他人の困りごとはわたしにも関係があるのだから、同じ社会を構成するものとして、解決を求めたい」 |
・「生まれつきの〇〇として生きてきた、この人」 ・同性愛を例にするなら:「Aさんは同性愛者だ。同じく同性愛者である、Bさんという恋人がいる」 ・ノンセクを例にするなら:「Aさんはノンセクであり、Bさんはノンセクではない。世間一般にはノンセクは少ないので、AさんとBさんの関係性においては、ノンセクのAさんの方が理解されづらいし、改善を求められやすい。Aさんは非性愛者の人間だ」 ・社会問題を例にするなら:「ある社会問題については当事者と非当事者がおり、当事者の苦しみは当事者でないとわからない。非当事者はあくまで、応援する立場である」 |
どちらが良いって話ではないです。「打ち上げ花火、横から見るか?下から見るか?」ってだけの、どこに立って物事を見るかっていうフラットな話なので(わたしやっぱ言ってることが関係主義的だね)。
だから「あなたは本質主義者ね。わたしは関係主義者なの」という、本質主義的な物言いは、しません。誰かが本質主義的にわたしを「性愛者」と位置付けたとしたら、わたしは、関係主義的に……攻撃の意図なく、ただ、あなたとわたしとの関係において、わたしから見えているものとあなたから見えているものをできる限り共有するために、問い返します。あえて敬語ではなく、敬意を込めて同級生に話しかける口調で書きますね。
「あなたにとって“性愛”って何?」
「わたしは女性が好きな女性で、わたしと彼女がベッドの中で裸で抱き合うことを“挿入するものが付いてないんだからセックスもできないじゃん”って言われたこともあるんだよね。それでわたしは、セックスを何のことだと思うかは人によって違うんだなあって思ったんだけど、あなたにとっては、その人もわたしも同じ、その、『性愛者』ってやつに見えるの? だとしたら、あなたはどこで線を引いているの? 裸であるかどうか? その行為をその人がセックスと呼んでいるかどうか?」
「あなたはこう言ったね。『性愛者の皆さんはアドバイスはくれても、結局非性愛者と一生セックスなしでは生きてくれないじゃないですか』。なぜそう思うの? 何があったの?」
わたしがそう考えるようになったきっかけ
少し、なぜわたしが本質主義的視点とは別に関係主義的視点を持つようになったか、という話をします。
初めは、やってたんですよ。大学生の時。LGBT勉強会に参加して論文を読み、「やっと仲間に会えた」と思った。当時のわたしは女性に初恋したけれど、治さないといけないと思って男性とお付き合いしていました。だから、自分がレズビアンなのかどうかわからなかった。だからこそ、レズビアンですって胸張ってる先輩がカッコよく思えた。
ところがここでこんな発言を聞いてしまうんですね。
「ウチらの苦しみはどうせバカノンケどもにはわからないよ(笑)」
えっ? と思って。
エルサの城の出口まで押し戻された気がした。「男と付き合ってるお前は、片足、外側に出してるだろ?」って。「忠誠を示せ、お前はバカノンケとは違うよな?城の一員として認められたければ一緒にバカノンケを笑え、城の外を攻撃しろ」って。その勉強会で読んでた論文、ほぼアメリカのやつなんだよね。「日本は遅れてる!」「ノンケはバカ!」って言いながら、カタカナの言葉を身にまとう人たち。
このしばらく後、ノンセクという言葉も生まれてきてて。日本生まれのカタカナ英語で「ノンセクシャル」、漢字では「非性愛」と言ってました。けどこれを、「俗語」「文献がない」ということでWikipediaから削除してしまった人たちがいたんだよね。
確かにWikipediaの運営方針としては、出典に基づいて書かなければいけないルールだし、削除した人ものちに謝罪してるんだけど。でも、実際にこの言葉で生きてる人がいるのにな、あんまりだな、じゃあわたしが調査して、ノンセクという言葉を含む文献を書こうということで、他にもいろんな用語を取り入れつつ用語集をつけて書いたのが「ゲイカップルに萌えたら迷惑ですか?聞きたいけど聞けないLGBTsのこと」という本でした(新書なのでカジュアルなタイトル)。
わたしたちを分断したものは何?
さて。
この一連の、
「バカノンケ」
「日本は遅れてる」
「文献ないから非性愛(ノンセク)削除」
トリプルコンボの後、やっぱ、すごい考え込んじゃって。
一体何が、わたしたちを分断したんだろう?
「普通で一般的だから苦労してないノンケたちと、苦しめられるセクシュアルマイノリティたち」って世界観。
「セクシュアルマイノリティたちについて理解が進んでいる欧米と、遅れている中で一生懸命アメリカの論文を読む日本」って世界観。
「日本ローカルのノンセク/非性愛という概念が生まれたけど、みんなアメリカの最新理論を追うばかり、日本生まれの言葉であるノンセクについて、誰も日本語論文や文献を書いてなかった」って状態だった2013年……。
わたしなりにさかのぼった結果、やっぱね、根本的には明治維新だったんですよ。えっ急に何言ってんの? って思われるかもしんないですけど、順を追って説明すると、こういうこと。
・明治に恋愛という概念が輸入された。
・恋愛という言葉とともに、次のような、いわゆるロマンチックラブイデオロギーが広まった。
恋愛→結婚→家族=ピュアで人間らしくて正しい愛
単なる性欲=不純で動物的で汚いもの
これにより、江戸時代まで「色」の一言で表現されていたものが「恋愛」と「性欲」のふたつに切り離され、「性欲」が汚いものとされた。
・続いて大正から、いわゆる通俗性欲学ブーム。「性欲について、男は肉欲的/女はいつも受け身」「恋愛は女にとっての生命であるが、男にとっては慰安に過ぎない」とか書かれてる本が爆売れする(クラフト=エビング「変態性欲心理」紫書房版、p.20-21)。性欲のない男性、性欲のある女性が否定される。
・平成に欧米(っていうかほぼ米。アメリカ)由来のLGBTをめぐる社会理論が輸入された。これを下敷きに「恋愛的指向(romantic orientation)」「性的指向(sexual orientation)」という日本語も誕生。アメリカの社会運動をなぞり、「LGBTは人口の○%もいるから政治経済的に無視できない存在ですよ」という戦略をとる。こうして、「それぞれの個人がそれぞれの指向を持つ」「人口の○%がLGBTとして生まれつく」という、本質主義的な捉え方が定着した。
「アメリカは進んでる」。
「恋愛と性欲は別」。
「男は肉欲、女は受け身」。
「恋愛はきれい、性欲は汚い」。
「人間の性別は男か女かだ」。
「人間の性は生まれつき本質的に定まっている」。
こういう声が重なった先の日本語世界で、「ノンセク」って言葉はね。
性欲がないことで否定された男性(とされた人たち)の、
性欲を女に受け止めてもらった経験のないものは敗者だとか一人前の男じゃないとか笑われて焦って自分よりも力の弱い女に金や腕力や社会的権力をもって性的な行為や性的な冗談(のつもりのもの)をやってしまう男性たちに疲れ果てた女性(とされた人たち)の、
ロマンチックラブイデオロギーのもと、「みんないつか恋愛して結婚してセックスして子供産んで家族を作るんだよねッ★」って信じ込まされている、国家運営や経済の都合で信じ込まされているわたしたちの、
サバイバルの呪文なんですよ。
よくぞ作り上げた。英語の力をうまいこと借りて新しい言葉を生む日本語話者、本当クリエイティブだと思う。
自由になりたかっただけのはずなのに
でもこの呪文を攻撃に使って、城建てて閉じこもってね、「外側はみんな敵だ!」「どうせあなたたち性愛者は非性愛者のわたしを理解してくれないんでしょ! 上から目線でアドバイスするばかりでしょ! 一生いっしょには生きてくれないんでしょ!」って、エルサの城から叫ぶ人がいるなら、わたしはね、明治に思いを馳せますよ。恋愛と性欲を分けたのは実はわたしじゃないじゃん。人間の性のあり方は生まれつき定められている、本質主義が正しい、って言ったのは、実は、わたしじゃないじゃん。
「セックスができない」?
「同性しか愛せない」?
わたしにわたしのことを否定形で語らせるものはなにものだ。 わたしたちをあちらとこちらとに分断する、この力は、一体どこからきているものだ。
もう一度問いかけますね。
「そもそもなんでそれが“普通”なの? あなたが“内側”に立ってわたしを“外側”とみなす、この見方をあなたにさせているのは、本当は、何なの?」
ノンセクという言葉を……ノンセクに限らず、何らかの「まとまる言葉」を、サバイバル呪文として使えているならいいんですよ。ただ、その外側がすべて敵に見えるなら。「わたしは自由!」と歌いながらも、エルサの城に閉じこもるなら。わたしは、諦めそうになります。何を言っても「敵が否定してくる」にしか聞こえないんだろうな、って。でも、諦められないんです。わたしたちには、言葉があるから。
届かないかもしれない言葉を重ねながら、わたしは、思い出します。
恋愛。セックス。性的指向。いまある種の“普通”になってしまっている考え方を欧米から輸入して日本語に入れた明治人も平成人も、本当は、自由になりたかった……例えば、親が結婚相手決めちゃう系のイエ制度とか、そういうものから自由になりたかっただけのはずなんだ、ってことを。
その言葉はもともと、恵まれてるように見える外側のやつらを攻撃して城に引きこもるためのものじゃない。自分を内側に閉じ込める壁に風穴をブチ開けて呼吸するために、外側から材料を調達して作り上げた、攻撃じゃなくて開拓のためのダイナマイトだったはずだ、って、ことを。
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