映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

規格化され区切られた世界、自然と化した人工の秩序、その隙間で交わる視線(トーマス・シュトゥーバー「希望の灯り」/Thomas Stuber "In den Gängen" 2018年)

トーマス・シュトゥーバー「希望の灯り〔原題:通路にて〕」(Thomas Stuber "In den Gängen" DE 2018 125 Min. DCP ドイツ語オリジナル+英語字幕版)を観賞。

 

あらすじ

舞台は、旧東ドイツの郊外の大型スーパーマーケット。そこで研修生として働き始めた無口な青年クリスティアンは、飲料水コーナーを仕切る元トラック運転手のブルーノに可愛がられながら少しずつ仕事を覚え、その傍ら講習に通ってフォークリフトの操作を身に付けていく。彼は次第に、商品棚を挟んで向かいの通路の菓子コーナーで働くマリオンに恋心を抱くようになるが、同僚から、彼女は既婚者であり結婚生活がうまくいっていないと聞かされる。そして職場でのささやかなクリスマスパーティーを境に、マリオンはクリスティアンを避け始め、仕事も病欠するようになる…

 

※4月には日本で公開されるということなので、日本語版トレイラーを貼り付ける。 

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規格化され区切られた世界、自然と化した人工の秩序

郊外の大型スーパーマーケットを舞台としたこの映画は、クリスティアン、マリオン、ブルーノという三人の従業員を中心とした物語を描き出す。彼らは照明に照らされた広い空間のなかで制服を着て働き、施設のなかで食事をとり、コーヒーを飲んで休憩し、制服を脱いで夜遅くに帰宅する。仕事場の外での彼らの姿も描かれはするが、それでも彼らの生活は、スーパーマーケットという閉じられた世界のなかで完結しているように見える。

ここで描かれるスーパーマーケットは、どこまでも規格化され、区切られた世界だ。商品はどれも同じようにパッキングされ、管理され、コーナーごとに整然と並べられている。従業員たちは同じ制服を着て、毎日一定のリズムで、一定の規則のもとで一定の仕事に従事する。彼らの仕事場は部門ごとに区切られ、同じ空間で沢山の人たちが働いているにもかかわらず、商品コーナーが異なれば――異なる通路で働いていれば――ほとんど触れ合うこともない。

興味深いのは、規格化され区切られた世界としての大型スーパーマーケットが、この映画において、人間の手による構造物でありながらほとんど所与の自然であるかのように現前しているという点だ。スーパーマーケットという大きな組織のなかで従業員たちは、その秩序を受け入れ、身を合わせ、そのなかで自らの生を営まざるをえない。彼らはその人工の秩序の自明性を疑うことがないばかりか、その秩序のなかに川や海といった擬似的な自然を見出しもする。スーパーマーケットという人工の秩序は、彼らにとってある種の自然と化している。

このことは同時に、自然と化した人工の秩序の枠のなかで、その秩序に身を合わせながら最大限の能力を発揮することが彼ら従業員に求められている、ということでもある。その消息をはっきり示すのが、映画の中心モチーフの一つをなすフォークリフトの描かれ方だろう。大型商業施設では、天井近くの棚に商品を上げ下ろしするのにも、重い荷物を遠くのセクションまで移動させるのにも、フォークリフトが必須となる。だからこそここで働くにはフォークリフトの操作が必須であり、その操作を身に付けるということがクリスチャンの成長と重なり合う。フォークリフトという技術的産物を操作できるということは、スーパーマーケットという人工の秩序のなかにおける自由と能力を身に付けることであるのだ。映画の冒頭、営業時間外のスーパーマーケット内をフォークリフトが優雅に走り回るシーンは、既にこの事態を告げている。

こうしてこの映画は、郊外の大型スーパーマーケットを舞台に、現代的な生のあり方の一つの雛形を描く。もちろん旧東ドイツという地理的な特殊性も、その土地が担う歴史的背景も、映画とまったく無関係なわけではない。ブルーノのような年配の登場人物ははっきりと意識しているように、彼らは歴史が断絶された社会を生きている。そしてまさしく断絶された過去への追憶が、人の手によって事後的に構成された商品世界の抽象性を際立たせてもいるのだ。

とはいえ同時に、社会の規格化と人工物の自然化というこのことは、産業が発展した世界のどこでも生じうる一般的事態でもあるだろう。この映画の肝は、規格化され区切られた世界のあり方、自然と化した人工の秩序における生、といった現代的かつ一般的な事態を、旧東ドイツ郊外のスーパーマーケットの従業員たちが織りなすきわめて特殊で個人的な物語を通して、描き出しているという点にこそあるだろう。

 

規格化され区切られた世界のなか、その隙間で交わる視線

注意する必要があるのは、規格化され区切られているのが単にスーパーマーケットの商品や仕事だけではない、ということだろう。従業員である登場人物たちの生活もまた、用意された秩序の枠のなかで規格化され、区切られているのだ。彼らは職場では顔を合わせ親しげに会話をしはするが、職場を離れてコミュニケーションをとり合うことは滅多にない。また親密に見える職場のなかでさえ、区切られた仕切りを超えた別の部署の従業員とはほとんど話すことがない。彼らの生活もまた、規格化され、区切られている。

しかしそれでも、この区切りの隙間には、人間的なコミュニケーションが生まれる可能性が残っているように見える。クリスティアンとマリオンは、区切られた棚の商品越しに目を合わせ、職場の休憩室に設えられた自動販売機のコーヒーを介して心を通わせる。職場の片隅でのクリスマスパーティーは、間に合わせの椅子や毛布でもって質素に催されながら、イビサ島での休暇さえをも連想させる幸福の見かけを従業員に与える。個々人にとって自明の自然的秩序として受けいれざるをえない大きな人造物のただなかでも、その隙間で人間が人間らしく振る舞い、関係し合う可能性は消え去ってはいない。

もちろんここには、仮象が多分に含まれている。いかに彼らが、区切られた秩序の隙間の中で交わした視線によって人間的に心を通わせたつもりになっても、やはり依然として彼らの生は区切られているのだ。区切りの向こうには、お互いに知らない別の生活圏があり、過去があり、思いがある。その向こう側にある何かを知るためには、区切りを超えて壁の向こうに踏む込まなければならない。とはいえ、踏み込んだ先に幸福が待っているとも限らない。

与えられた秩序と規則の中で毎日顔を合わせて見知ってはいるが、それでも実はよく知らない同僚たち。区切られた向こうの領域に、どこまで踏み込むことができるのか。踏み込んだ先に何があるのか。この繊細な問いが、この映画のストーリー上の肝をなしている。規格化された世界の隙間で交わる視線、それは自然と化した人工の秩序のただなかにおける人間的な関係の可能性を垣間見させはするけれども、その成就を約束するものではない。しかしそれでも彼らは、フォークリフトの作動音に波音を聴き取るように、彼らの所与の生活のただなかで、その向こう側に思いを至らせることはできるのだ。*1

*1:原作となるクレメンス・マイヤー(Clemens Meyer)の短編の題名をそのまま用いた映画の原題「通路にて」(In den Gängen)は、この映画の物語が区切られた世界の話であることを表現しているだろう。ここでいわれる通路Gängeという言葉は、幾つかの細い通路Gangの複数形であり、この物語がまさしく複数の通路の間で織りなされるものであるということを示唆しているのだ。それは直接にはスーパーマーケット内の飲料水コーナーや菓子コーナーといった別々の「通路」のことであるだろうが、また同時に個々の従業員が歩む生活の道のことでもあるだろう。彼らそれぞれの通路は区切られており、別々のものであるのだが、個々人の意志によってはまったく没交渉であるわけではないのだ。