男以上の勇敢さと苛烈さで祖国を守った素人女性たち
世界史では、戦場で活躍した男勝りの女性エピソードには事欠きません。
歴ログでも何回かそのような女性の軍事指導者のエピソードは紹介しているのですが、今回は「籠城戦で活躍した女性」というのを紹介します。
大部分が軍人でなく一般人で、祖国の危機に立ち上がり、勇敢な活躍をした女性たちです。
1. ダンバー伯爵夫人アグネス・ランドロフ(スコットランド)
イングランド軍を苦しめた領主の妻
スコットランド国王ロバート・ブルースが1314年にバノックバーンでイングランドを破り北から軍事的に圧迫をするも、イングランド軍の軍事的な脅威は続いていました。
1338年、国境線を越えて北上するイングランドは、小城であるダンバーの城を包囲しました。この城は、城主ダンバー伯爵パトリックがスコットランド王の戦いに参加していることもあって不在で、城代を妻のアグネス・ランドルフが務めていました。彼女はその髪と肌の色からブラック・アグネスと呼ばれていました。イングランド軍からすると、女が城代を務める小城など取るに足らない獲物で、さっさと済ませるつもりでいました。
城を包囲したイングランド軍を率いるソールズベリー伯爵の降伏勧告に対し、彼女はこのような詩的な返答で拒否をしました。
スコットランドの王として私は決して城を(手放さない)
彼は私に肉とフィーを払う
そして私は城を守るだろう
城も私を守ってくれるだろう
Of Scotland’s King I haud my house,
He pays me meat and fee,
And I will keep my gude auld house,
While my house will keep me.
ソールズベリー伯爵はカタパルトで投石を開始。しかし空いた穴は城のメイドから成る部隊によってすぐに修復されてしまいます。伯爵は秘密兵器の「Ram」という名の破城槌を投入します。これは城壁にまで近寄って城壁を破壊する槌で、天井が備え付けてあり、城壁上からの投石や弩の攻撃を防ぎました。
しかしアグネスは巨石を準備しており、上から石を落としてRamを天井ごと破壊。イングランド軍は攻め手を失い、戦いは膠着しました。
しかし数ヶ月が過ぎ物量に勝るイングランド軍の包囲は続き、ダンバー城は物資が枯渇。とうとう降伏せざるを得なくなりました。降伏の際、アグネスはパンととびきり上等のワインをソールズベリー伯爵に送ったそうです。
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2.ドロシー・ハザード(イングランド)
イングランド内戦で王党派の軍に抵抗した苛烈すぎる女性
王党派と議会派が戦ったイングランド内戦で、ブリストルの町は議会派に属し、ラルフ・ホプトン率いる王党派の軍の攻撃を受けていました。
ブリストルに住むドロシー・ハザードと友人のジョアン・バッテンは町の女性と子どもを動員し、風雨が降りしきる中で羊毛と土のうを城壁の内側に積んで補強をし、王党派軍の攻撃から城壁を守りました。しかし資材の量が充分でなく、ドロシーは城主ナサニエル・ファインズに対し、「女たちを人間の盾にし、銃弾を枯渇させる」「女たちの死体で城壁を補強する」ことを提案すらしました。さすがに女にそんなことはさせられないと、ファインズは王党派に降伏してしまいます。
しかし、戦後ファインズはドロシーに糾弾され、「弱気になって敵に降伏した」として裁判にかけられる羽目になりました。これは苛烈すぎる…。
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3. ジェンネ・レーネ(フランス)
Photo by Markus3
ボーヴェの町を救った農民の娘
フランス王国への抵抗を続けるブルゴーニュ公国のシャルル突進公は、1472年にボーヴェの町へ攻撃をかけました。町を守る兵はわずか300名で、すぐに敵の兵が町の城壁に登ってきてしまいました。
ここで地元の農民の娘ジャンネ・レーネが城壁に駆け上がりブルゴーニュの旗を斧で切り落とし(一説によると敵兵を一撃で倒した)たことで、兵たちは士気を爆発させ、ボーヴェの兵たちは果敢に抵抗し、11時間後にシャルル突進公は退却せざるを得なくなりました。
毎年6月の最後の週に、ジャンネを称えるパレードがボーヴェの町で開かれています。
4. マリア・ピタ(スペイン)
Photo by Tomás Fano
イギリス軍から故郷を守ったコルーニャの英雄
イギリス軍がスペインの無敵艦隊を打ち破ったアルマダの海戦の翌年の1589年、イギリスは報復として大西洋に面するコルーニャの町を攻めました。
イギリス人によるかなり衝動的な攻撃で、あまり準備ができていなかったようですが、それでもコルーニャの下町は占領され、王宮の城壁が攻撃され始めていました。ここでマリア・ピタと何人かの女性は、城壁を守るべく捨て身の攻撃をイギリス軍に加えました。共に戦ったマリア・ピタの夫はイギリス軍のクロスボウの攻撃で死んでしまいましたが、彼女はそれでもめげずに城壁に立ち、イギリス兵を槍一太刀で殺しこう叫びました。
「栄誉を求める者どもよ、私に続け!」
これによりコルーニャの兵は息を吹き返し、イギリス軍は撤退を余儀なくされました。
マリア・ピタはこの功績で生涯年金を得て不自由なく暮らし、コルーニャの町には彼女を称える像が立っています。
5. サレルノのシケルガイダ(イタリア)
夫と共に戦場に立ったノルマンの女
サレルノのシケルガイダは、11世紀のプッリャ・カラブリア伯ロベルト・イル・グイスカルドの2番目の妻。
夫が戦場に立つときは妻は普通は留守を守るものですが、シケルガイダは進んで戦場に立ち、時には軍を指揮することもあったそうです。ある戦闘では、退却してきた味方の兵に向かって槍を突きつけ「どこまで逃げる気だ!止まりやがれ!」と叫んだそうです。
1080年、トラーニのピエトロ二世がトラーニを奪還してロベルトに反抗した際、ロベルトはピエトロ二世の甥がいるターラントに向かい包囲。トラーニの町はシケルガイダが率いる軍によって包囲されました。ピエトロ二世は降伏せざるを得ませんでした。
その後1083年にロベルトとシケルガイダは教皇グレゴリウス七世の守護のためにイタリアに渡り皇帝ハインリヒ四世の軍と戦い、1086年にビザンツ帝国とも戦いますが、この戦役の中でロベルトが死亡。シケルガイダは夫の死に際し、以前二人でよく訪れていたチェトラーロの町の聖堂に多額の寄付をしたそうです。
6. スパルタ女王アルキダミア
エピロス王ピュロスから町を守ったスパルタの女性
スパルタは一人一人が独立した有能な戦士であるのは有名ですが、女性も非常に独立していました。アテナイでは女性は男性に属し、家で家事をするべきとされましたが、スパルタでは女性は財産を持つこともできたし、公務につくこともできました。
エピロス王ピュロスがペロポネソス半島を攻めた際、スパルタはかつてのギリシア全域のリーダーであった頃の武力を失っていました。町を守る王は男ではなくアルキダミアという女で、兵士も相次ぐ戦役で男が少なく、女子どもが主力という有様でした。
元老たちは市民を安全な場所に避難させようとしますが、アルキダミアは帯剣のまま議会に現れ言い放ちました。
「さて、どのようにして町を守って差し上げましょうか!?」
アルキダミア率いるスパルタ軍、そのうち1/3は女性と子どもたち、は町の周辺に塹壕を掘ってピュロスの軍に抵抗し、とうとう打ち負かすことに成功したのでした。
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7. アルゴスの「名もなき女性」
エピロス王ピュロスを殺した母の一撃
エピロス王ピュロスは、ディアドコイ戦争後のマケドニアで台頭した男で、紀元前297年にマケドニア王に就き、イタリア半島にその領土を伸ばそうとし、ローマと戦いました。しかし前275年にローマに敗北し、ギリシアに戻りペロポネソス半島の紛争に介入するもスパルタ軍に敗北し、威信を回復しようとアルゴスの町の紛争に介入します。
ピュロスはアルゴスの城壁を突破し内側に入るも、そこに地元の騎士が立ち向かいました。ピュロスは持っていた槍で騎士を攻撃。騎士を負傷させます。
と、すぐそばの建物の屋根の上に、この戦いを見守っていた騎士の母ちゃんがいました。
息子の危機に居てもたっていられず、屋根瓦を一枚引っこ抜いてピュロスに投げつけました。瓦はピュロスの首根っこにクリーンヒット。ピュロスは気絶し、馬から引きずり降ろされ殺されました。
この女性と騎士が何という名前か記録はいっさい残っておらず、ピュロスを殺したのは「名もなき女性(Unkown Woman)」となっています。
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まとめ
家を守ろうとする気持ちは、今よりも昔は特に、女性の方が強く持っていたとも思われるので、子どもや家が直接脅かされる籠城戦だと、男性よりむしろ女性のほうが「クレイジー」になる場面もあるかもしれない、と思います。
極限状態に陥った時の女性の強靭さを示しているエピソード群ですね。
以下関連記事です。
参考サイト
"Dorothy Hazard And Other Bristol Separatists" Bristol Radical History Group
"Jeanne Hachette" Badass of the Week
"Sichelgaita of Salerno (1040–1090)" Encyclopedia.com
"Maria Pita: The Woman Who Saved a Galician Town from the British" Ancient Origins