ユダの妻
妻木煕子(ひろこ)でございます。
と申し上げても、お分かりにならないかもしれませんけれど、夫の名前をお聞きになれば・・・
わたくしは、明智光秀の妻にございます。
10代で光秀の元に嫁いでから20年ほどになりましょうか。
今は近江国(現代の滋賀県)の坂本城に引っ越し、やっとその片付けが終わったところ、新しい住まいとなったお城は真新しく琵琶湖の上に浮かんだ水の城のようです。
壮大な天守郭を持ち、落成した瞬間から誰もが感銘を受けるような豪華さとでも申しましょうか。のちに織田信長さまが建てられた安土城の前には、天下一の名城ともいわれる壮麗な姿でした。
ただ、その城の姿がわたくしには美しすぎて、なにか恐ろしいような・・・、体の芯から湧きあがってくる身震いのような感覚を覚え、ただただ畏れを感じるしかございません。
そのときでした。不吉という言葉が頭に浮かび、思わずお城から目を逸らしました。
「どうじゃ」と、夫の光秀が誇らしげに言いました。
「すごい城じゃろう」
そして、子どものような笑顔をお浮かべになりました。
子どもが浜辺で砂の城をつくって自慢するような、そんな屈託のない笑顔。
このお方は、こういうことがお好きなのだ。戦に出るよりも、築城することの楽しさ、物作りがとことんお好きなのだと感じ、奥に芽生えた恐怖を押し殺して、わたくしは静かに微笑みました。
「いい城だろう」
「はい」
「古今の書物を調べてな、琵琶湖から比叡山を見渡す要所となるよう苦心した」と、夫はまた興奮したような笑顔を浮かべ、それから、わたくしの手を引いて城を案内してくださったのです。
新しい城は木の匂いがぷんと漂い、天守閣からは琵琶湖を眺めることができました。確かに目眩がするほどの晴れ晴れしさを感じました。太陽にさざ波をあげて輝く湖をながめながら、これから先は、きっといいことばかりがある、そう強く願った次第にございます。
わたくしは、この幸せが壊れることを恐れているのでございます。
悪いことが起きるはずがないと、この人は神に選ばれた方なのだからと強いて口元に微笑みを浮かべていたのでございます。
そう、あれは、2年ほど前の1571年です。光秀とっても、わたくしにとっても受難の年でございました。夫は将軍足利義昭さまと織田信長さまの間に挟まり、神経をすり減らしておいででした。
そして、あの夜・・・
あの夜、夫の帰りは遅く、そして、帰ってきたときには、渡り廊下からすでに血なまぐさい匂いと煙の匂いが混じって漂ってきたのです。
なにか特別に酷い戦いがあったと、その匂いで察せられるような・・・
疲れ切った夫の顔は飛び散った血にどす黒くなり、幽霊のようで、わたくしは声をかけることもできず、供のものを下がらせ、鎧を脱ぐ手伝いをいたしました。
「お湯を使われますか」
夫は無言でうなずき、湯殿に入ると大きな息をついたのでございます。
「今日は星がきれいでございます」
仮住まいの屋敷の湯殿には格子窓があり、星が見えました。
「ひどい戦だった」
光秀は独り言のようにつぶやきました。
「比叡山の坊主たちがな。あやつらの専横には、ほとほと信長殿もお怒りになっていた。坊主とは名ばかりの軍隊みたいなものだ。そこに信者たちまで槍で応戦してくるわ・・・」
殿の言葉はそこで消えました。
湯船に浸かったまま、いつのまにか眠ってしまわれたようです。よほどお疲れだったのでございましょう。私は、そのまま傍で夫が起きるまで待っておりました。
この日に『比叡山焼き撃ち』があったと聞いたのは後のことです。
この後、夫は足利将軍のもとを去り、正式に織田様の家臣となりまして、坂本城を築城したのでございます。ただ、足利さまはお認めにならず、夫は苦しい立場にございました。
「将軍さまにも困ったものだ」
「そうなのでございますか」
「生まれた瞬間から、他の者がかしずいて当然と育った者は、自分の立場が見えぬ。今の織田の勢いを、どうしても納得なさらんのだ」
そこで夫は鼻で大きく息を吸い、丹田に蓄えると、唇から深く長い息を吐き出しました。まるで義昭さまを体から追い出していくように長く深い呼吸でした。
「わしは信長さまとともに行く。あのお方の目には比べるものがないのだ。生まれや地位など屁とも思うておらん。いっそ、清々しい」
「では、足利さまとは」
「去る」
「さようでございますか」
「反対か?」
「いえ、あなたさまのお考えはいつも正しゅうございます、それに、あなたさまは信長さまと似ておいでです」
「そうか、そう思うか、煕子」
真実、夫と信長さまには似たところがあるように思います。
物事の合理性を理詰めで行うようなところ。目標を決めると、それへの最短距離を計算しながら到達していく。その速度の波長があっているとでも言うのでしょうか。
いったん決心した夫は、まるで憑き物が落ちたような、人が変わったような、ただただ、織田殿のため、天下のため、働きました。
夫の目には信長殿しか見えていませんでした。
坂本城に引っ越しを終えてすぐ、夫は河内へ出陣いたしました。
信長さまの元には、若い頃から付き従ってきた多くの幕臣がおられました。その他にも羽柴秀吉さまや同盟の徳川家康さまなど、ご立派な方々が控えております。
夫はその間にはいり、そして、あっという間に誰よりも信長さまの近くで働くようになっておりました。
「光秀は寝ることがあるのか」
周囲のものがそう噂するほどの目覚ましい活躍でしたから、当然のようにやっかみや嫉妬も多くなったのでございます。
妻同士の集まりの場でも、なんとなく、わたくしは居場所がないような、冷え冷えとしたものを感じておりました。
「明智殿は男にしかご興味がないのかしら」と、ある方の側女に言われたことがございます。
底意地の悪い当てこすりです。
夫に側女がいません。妻はひとりでございます。わたくしには答えようがありませんでした。
武田信玄
1573年の寒い日でした。
ついに戦国最大の武将と呼ばれた武田信玄が、足利さまの呼びかけで動いたのでございます。
「山が動いた」
織田渦中には衝撃が走りました。
みな武田信玄の進軍に動揺を隠せず、一方の足利将軍側は勢いづいておりました。
「どうするのだ」
「西へ向けて兵をだすのが順当じゃ」
「真っ正面から武田と戦うというのか、勝てようか」
「しかし、放っておけば、それでは徳川殿が討ち死にするか、あるいは、あちらに寝返ることも考えねば」
「しかし」
軍議は紛糾したようです。
その間中、脇息に頭を埋め、寝転がっていた信長さまが起き上がりました。
「東に行く。京都だ」
「京都へ」
「しかし、西から武田が、徳川さまからも援軍を要請してきております」
「捨て置け」
信長さまは、あえて東に向かわず京都へと大軍を率いたのです。
道中を焼き払いながら進軍してきた織田軍を見て、正親町天皇は京都が焼かれるのを恐れました。勅命で和睦が成立したのは、ひとえに、皇室の怯えと、それを見越した信長さまの戦略だったと思います。
高度な政治的判断を下しての、信長さまの決断だと夫は申しておりました。
一方、東のほうから聞こえてくる報告は悪いものばかりでした。徳川さまの城は武田軍の通り道にあたり、壊滅的な打撃を受けただの、武田軍はもうそこまで迫っているだの。
ところが、4月に入って、いきなり武田軍が甲斐へ戻ったという報告が届いたのです。その理由がわかりません。
「武田で、なにかが起きた」
夫がつぶやきました。
「なにが起きたのでございましょう」
「わからぬ。兵を甲斐へ引いた。家中でただならぬことが起きたのだ」
「なにはともあれ、武田さまが来られないとなれば、よろしゅうございました」
「ああ、助かった」
しかし、この安堵は長くはもちませんで、夏になって、再び足利義昭さまが挙兵されたのです。
光秀さまは織田側として、かつての殿と戦うことになったのです。
「愚かな男だ」と、夫が申していた通り、
信長方の軍事力は巨大で足利さまが勝てるはずもなく、結局は追放され、都を落ち延び毛利家を頼って逃亡しました。
坂本城が完成したのは、その年のことでございます。
それからの夫は正式に織田家の重臣という待遇を受け、仕事は苛烈を極めました。
村井貞勝さまを手伝い京都所司代のお仕事をしたり、羽柴さまや滝川さまとともに越前(現在の新潟)の行政を担当としたりと、戦だけでなく政治面でも忙しく、京都と越前を往復しながら業務をこなし、戦いにも向かう始末。
かつての仕官先、ご恩のある朝倉家とも戦うことになったのでございます。
考えてみますれば、夫は恩ある方々と順番に戦う運命であったようです。
足利さま、朝倉さま・・・
戦国の世とはいえ、浪人の身から丹波の地を支配する大名となった夫の出世は、そうした背信の末に形作ったものでございました。
そう考えると、わたくしは不安に押しつぶされそうな思いを抱きます。
足利将軍と室町幕府が事実上、終わりをつげた1573年の暮。
久方ぶりに帰ってきた夫の顔つきは厳しさが増し、うちに病を抱えているような、そんな表情でございました。
天守閣から年の終わりの夕日を眺めておりますと、背後に人の気配がして、夫がおりました。
「どうだ、煕子、幸せか」
その声の深さに、私は答えに窮しました。
「幸せか」
「わたくしは、あなたがいて下さるだけで、それだけで幸せでございます」
夫は口元を無理に引き上げ、笑顔をつくりました。
「そうか」というと、隣に来て夕日が眩しいのか目を細めました。
幸せか?
いつも夫はわたくしにたずねます。
その度に答えが同じことを知っていても、そして、それは、わたくしの心からの本心と知っていても、夫はたずねずにはおれないのです。
幸せ・・・か?
真実のところ、その答えをわたくしも知りとうございます。
遠くから旅をして、ここまで参りました。
そして、今。この琵琶湖の地に安住の場を求め、住むことになった今、幸せでしょうか。
わたくしは、その答えを存じ上げません。
それを知っているのは誰なのでございましょう。
この身が最後になって、はじめて、その答えがわかるような、そんな予感が致しております。
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*内容には事実を元にしたフィクションが含まれています。
*登場人物の年齢については不詳なことが多く、一般的に流通している年齢を書いています。
*歴史的内容については、一応、持っている資料などで確認していますが、間違っていましたらごめんなさい。
参考資料:#『信長公記』太田牛一著#『日本史』ルイス・フロイス著#『惟任退治記』大村由己著#『軍事の日本史』本郷和人著#『黄金の日本史』加藤廣著#『日本史のツボ』本郷和人著#『歴史の見かた』和歌森太郎著#『村上海賊の娘』和田竜著#『信長』坂口安吾著#『日本の歴史』杉山博著ほか多数
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2020年1月〜