SAT(大学進学適性試験)は格差を拡大する「身の丈」受験。やめなければカリフォルニア大学を訴えると。

大学イメージ図(写真:アフロ)

経済格差があっても「身の丈にあわせて」大学受験をすればよいと言った萩生田文部科学大臣が批判にさらされている。だが「身の丈」にあわせさせられること自体が違法だとして、アメリカでは最近、彼の地の大学入試センター試験「SAT」を大学入試から外す動きがあるのをご存知だろうか。社会貢献(プロボノ)NGO・弁護士事務所の代表格である Public Counsel が中心となって、カリフォルニア大学に最後通牒を突きつけたニュースが新しい。

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10月29日にカリフォルニア大学に渡された要求状には、「受験者が、人種、障がい、資産による違法な差別にさらされている原因は、カリフォルニア大学が入試選抜にあたってSATやACTの点数の提出を義務付けているからだ」とある。SATやACTの標準試験は”学力”を正確に測るわけではない、むしろ、裕福な家庭の子ほど受験対策に金をかけられるので経済的格差を反映する差別的な試験だという。つまり、経済的に恵まれない家庭の子に「身の丈」にあった受験を強いていることは違法だから直ちにやめよと主張する。

ここで示された懸念について、カリフォルニア大学側も共有しており、SATスコアを大学入試の必須科目から外し、選択制(optional)にすることも視野に検討している。たとえば、カリフォルニア大学バークレー校高等教育研究所のSaul Geiser博士によるデータ分析ではSATスコアはあまり役に立っていないことが明らかになっている。いや、SATスコア自体は合格通知を手にすることに役には立っている。そうではなくて、ここで役に立つかというのは、大学で学ぶための"学力"を見極めるための方法として有効かという意味だ。受験者の視点ではなく、大学および社会からみたときの論点である。

入試で測るべき”学力”は大学1年生時点での成績(GPA)に顕れるとして多くの分析が進められている。そして、SATスコアによって大学1年時GPAがどの程度説明(予測)できるのかを、数万人分のデータで分析した調査が複数ある。それらによると高校の成績のほうが予測精度は高く、調査によって高低はあるものの、SATスコアは"学力"の2%~5%程度しか予測精度を向上させていないという。さらに悪いことには、SATスコアは受験者の人種や経済的地位にも大きく影響されている。

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たとえば図7では両親が大卒ではない「大学第一世代」となる受験者の割合が示されている。1994年~2011年にカリフォルニア大学に願書を送った約108万人を対象に数えると、提出されたSATスコアが最下位20%に該当した約21万人のうち半数近い45%が第一世代であった。ただし、高校の成績で同じように数えると最下位20%に含まれる第一世代は27%にすぎない。つまり、高校の成績のほうが格差を緩やかにしか反映しない。それに対し、経済的に余裕があって受験対策にお金をかけることのできる裕福な家庭の子どものほうがSATスコアを伸ばすことができるので、経済社会的な格差が拡大してSATスコアに反映されるというのが訴えた側の主張なのだ。

カリフォルニア大学理事会(2019年9月19日)
カリフォルニア大学理事会(2019年9月19日)

カリフォルニア大学の理事会(録画映像 2時間25分以降)でも話題に上っており、進行中の調査も来年には結果がでるとのことで、カリフォルニア大学もSATスコアの扱いについてなにがしかの判断を示すだろう。

さて、冒頭の大臣の発言に戻ろう。延期はされたものの、日本の大学入試に使われる予定の英語民間試験については多くの懸念が示されている。たとえば、受験環境の公平性が保たれない、あるいは、会場アクセスなどで地域間格差が大きく、複数回受験も可能であることから、親の経済格差が子の成績格差に反映されうるというものだ。これに対して大臣が言った言葉が「身の丈にあわせて」だ。この発言は、大学進学が階層移動を可能にし経済格差を解消するという社会的意義を踏まえていないでなされたと解釈されれば非難されるのは当然だ。

 日本においても、大学教育の社会的意義を見つめなおし、試験の手続き的公平性を確保するのはもちろんだが、一方で、大学教育の意義に照らして入試のあり方を再検討すべき時期も近いように思う。