親はサンタクロースではない~共同親権のための準備
■哲学カフェ
僕は子ども若者支援者ではあるがベースは哲学で、自分の法人の仕事では毎月「哲学カフェ」という小イベントを開催している。
これは最近あちこちで開かれているからご存知の方もいらっしゃるだろうが、あるひとつのテーマを選んで、それについて10人弱の参加者がゆるいルールのもと自由に話し合うというものだ。
前世紀の終わりにフランス・パリで始められ、日本にはゼロ年代に輸入された。当時僕が学んでいた大阪大学の臨床哲学研究室(鷲田清一教授/当時)が中心になって輸入したので、その始まりは僕も鮮明に覚えている。
また、当時お世話になっていた阪大の先生(本間准教授)がパリに留学していたときに僕は遊びにいき、本間先生と一緒にパリの哲学カフェにも参加したことがある。
最近は本業の子ども若者支援業が忙しくなったため哲学研究からはだいぶ遠くなったが、やはり僕にとって哲学は「ホーム」ではある。
僕が主催する今月の哲学カフェは「共感」について考えるのだが、来月12月は、クリスマスシーズンということもあって「サンタクロース」をテーマにしようと思っている。いま想定しているテーマは、「サンタクロースを子どもにどう語るか」。
■サンタは善い大人だが、絶対的他人
ことばを獲得して自分の世界を構築し始め、同時に「自分」が日々成り立っていく4才以降の子どもと話すと、不思議なことに「サンタ」と「親」を明確に区別していることに驚かされる。
もちろん現実はその両者は同じなのだが、子どもの「他者」に対する捉え方として、その2つが混同してしまうと混乱するようなのだ。
つまり、サンタはプレゼントをくれる善い大人ではあるが、絶対的他人である。
だが親は、サンタのように「外からやってくる大人」ではなく、常に自分のそばにおり、どこからが親でどこからが親というよりはもう少し自分とは境界が曖昧でどこまで自分に近い存在なのかわからない、自分とくっつきながら離れている微妙な存在なのだ。
この「くっつく」は英語ではアタッチメントと呼ばれる。愛着と訳されてはいるがそれはおそらく誤訳で、「くっつき」と訳したほうがいいと、東京大学の遠藤利彦教授の講演で僕は学んだ(ご著書は赤ちゃんの発達とアタッチメント―乳児保育で大切にしたいこと)。
乳児時代からずっとくっついて過ごしてきたその親と呼ばれる存在とは、ことばを獲得し「自分」を形成し始める幼児になったあとも、まだくっついている。
そして認知能力が発展途上の乳児にとってはそのくっつき対象の数にも限界があり、2~3人が限界だ。
つまりは、母親、父親、祖母あたりの3人程度しか「くっつき/アタッチメント対象」を認識できない(だから2才児までを預かる乳児院の職員が一生懸命抱っこしたとしても、3人以上が交代でケアするその体制では、乳児はアタッチメントを獲得できず、「他者への信頼」という人間としての根本的土台の欠如に成人後も苦しむ)。
■「面会交流」では親ではない
そのようにして乳児・幼児は「親」を絶対的に捉えて離さない。これと、1年に1回やってきて豪華なプレゼントをくれる「やさしいおじさん」は当然別ものだ。
これは1年に1回といわず、たとえば月に1回でも同じだろう。
月に1回、プレゼントを抱えて2時間程度「面会交流」するのは、子どもからするとそれはサンタであって親ではない。ある時期までアタッチメント形成する2~3人の内の1人だったその大人は、決してサンタになることはできない。
言い換えると子どもにとっては、アタッチメント形成の重要なパーツだったその人物(「別居親」)は、サンタ以上の存在である。
別居しようが離婚しようがアタッチメント形成に大きな役割を果たしたその親は、子どもにとって「親しい他者」ではなく、くっつき(他者への信頼という力)の刻印に尽力した重要な存在なのだ。
法律論で単独親権か共同親権かを議論する時、こうした「子にとって親とは何か、それはサンタではない」といった子どもの側からの深い議論が欠けがちになる。
これが法律論の弱さで、法務大臣が国会の委員会で前向きな答弁をし始めるなど共同親権が現実化しそうないま、心理学や哲学の議論も射程に収め、より子どもサイドに立った議論をすることが必要だ。