あらゆるシチュエーションで何度もオススメされてきた漫画、『呪術廻戦』。
話題になっていることは知っていたし、「HUNTER×HUNTERっぽい」「BLEACHに近い」といった声も聞こえていたので、以前より興味はあった。そして今週、やっとこさ重い腰を上げて全巻を読破。単行本未収録分は、ジャンプの電子定期購読で無事にカバー。ありがとう定期購読。毎月課金はこういう時のためにある。(内容としては、真人vsメカ丸までを読了)
本編の前日譚に相当する0巻を含め、全話を読破。非常に濃密な時間であった。事前に全くといっていいほど情報を仕入れなかったので、予想外のタイミングで特定のキャラクターが死んで驚いたり、唸らされる展開や演出に引き込まれたりもした。「何も知らない」状態は、最高の調味料である。
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「面白い漫画」とは何か
ここからは、私の持論におけるダラダラとした前置き。
漫画読みを趣味とする一介のオタクとして、「面白い漫画とは何か」というお題は、常に念頭にある。様々な作品と出会いながら、これが自分にとって「なぜ面白いのか」「なぜ面白くないのか」を自分の中で煮詰めることで、ふわっとしていた「定規」の輪郭が次第に見えてくるのだ。自分の嗜好の「定規」は、どの方向にどれくらい長いのだろうか。
シリアスな物語も、手に汗にぎるバトルも、笑いが止まらないギャグも、知的な側面をくすぐってくるミステリーも。およそ全てのジャンルの漫画における、私の現時点での「面白い」定義のひとつは、「スピードの支配・誘導」にある。読み手がページをめくる速度、あるいはコマからコマへ視線を移していくテンポを、漫画そのものが支配し、誘導してくる。その手法は、物語の中身でも良いし、絵でも、演出でも構わない。
パラ、パラ、パラ、と読み進めていく途中で、ふと手が止まり、数十秒もひとつのコマを見つめてしまったり。かと思えば、速度を上げてページをめくらされる場合も。爆笑の展開が待っていることが分かるからこそ、あえてその手を止めて噛み締めたりもする。時には、信じられない話運びを前に、冷や汗と共にページを前に戻ったり。
そういった「スピードの支配・誘導」の頻度や濃度が高い作品が、私にとっての「面白い」である。それこそ、作者の掌の上で踊らされているように、気づけばジェットコースターに乗せられて振り回されて、一冊を読み終える頃には想定よりはるかに体力や精神力を消耗している。そんな漫画と出会えた時に、幸福を噛みしめたくなる。
あるいは、もうひとつの「定規」としてカウントしたいのが、HIP HOPにおける「ライミング」の概念。「ライミング」とは「押韻」の意味で、「同一または類似の韻をもった語を一定の箇所に用いること」を指す。要は「韻を踏む」というやつで、これが上手くハマることで特定のリズムや響きの心地よさが生まれていく。
「ライミング」の面白さは、そこにパズルのような魅力があることだ。日本語ラップなどを聞いていると、思いもよらない単語やフレーズで韻を踏む歌詞と出会うことが多々あり、聴きながら脳汁がドバドバと溢れてくる。「うわ!これとこれで韻を踏むのか!なんてセンスだ!」と、驚きのあまり首がリズムを刻む。難解なパズルが高速で組み上がっていく様を耳から見せられる感覚で、これがまたクセになるのだ。
話を戻すと、私にとっての「面白い漫画」は、この「ライミング」が巧妙という意味でもある。もちろんこれは比喩なので、単に音の近い単語を並べることを指す訳ではない。物語の構成について、である。
漫画を読みながら、「うわ!あれがこれと重なってくるのか!なんてセンスだ!」と唸らされる。そういったパズルの造形。伏線の消化とか、ミステリーの発想から読者を罠にかけるとか、そういった部分も大好きなのだけど、もっと大局的な捉え方である。キャラクターの動かし方と、そこにある設定やテーマ。たとえその展開が後付けだったとしても、あまりに天晴な「韻の踏み方」に驚愕する。美しさに膝を打つ。そういった「ライミング」が成立する瞬間を楽しみたくて、漫画を読んでいるところがある。
・・・などと、いつにも増して前置きが長くなったけれど、この「スピードの支配・誘導」と「構成上のライミング」、双方を高い次元で満たしていたのが、他でもない『呪術廻戦』だったのだ。
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ノルマを高速でこなす話運び
同作を読みながら感じていたのは、「とにかく話の展開が速い」ということである。これは、次々と新しい敵が現れるとか、どんどん新しい技を習得していくとか、そういったことではない。平均的な漫画ならそれだけで1話あるいは2話を要しそうな展開を、たった数コマで消化していく、その速度である。
例えば、序盤の第2話。両面宿儺の指を飲み込み暴走する虎杖を、後から現れた五条が「トン」と制御する。ガクン、と気絶する虎杖を前に、伏黒は「処刑対象だけど死なせたくない」という本心を打ち明ける。「…私情?」「私情です。なんとかしてください」。この会話を発端として、虎杖は無事に生かされ、呪術師としての道を歩むことになるのだ。
この、伏黒が虎杖を助けたいと訴える流れ。ここが非常にスマートで驚いたのだ。「規律に反してでも特定のキャラクターを助けたい」という動機は、少年漫画として非常にスタンダードであり、燃える展開なのだが、それを第2話のクライマックスに持ってきたりはしない。例えば伏黒が虎杖の行動を思い出しながら「助けたい」という思いを発露させる、そこに時間をかけてバディのような流れに持って行くこともできたのだろうが、本作はそれを選ばない。その手の「お決まりの展開」を、最低限のノルマのように、さらっとこなしてしまうのだ。
あるいは第20話。映画館で発見された変死体の背景を追って、虎杖は一級呪術師である七海と共に呪いと対峙する。無事に戦いは切り抜けたものの、その後、戦っていた相手の正体が、呪術によって体の形を無理やり変えられた人間と判明。主人公が元人間を手にかけてしまったことが判明する展開である。
並の漫画であれば、ここで主人公が絶望を味わい、それでも呪術師としての覚悟を固めていく展開になるだろう。「俺は人間を殺してしまったのか」と、目を見開いてショックを受ける。しかし『呪術廻戦』はここも巻きで進行させる。「コイツらの死因はザックリ言うと、体を改造させられたことによるショック死だ。君が殺したんじゃない。その辺り、履き違えるなよ」。そういったフォローで2コマだけを要し、「それでもこれは趣味が悪すぎだろ」「この子は他人のために本気で怒れるのだな」というキャラクターの描き込みにシフトしていく。
先の「規律を破ってでも誰かを助けたい」も、「殺していたのが元人間だった」も、構造としてはもはや新鮮味のない展開と言えるだろう。漫画に限らず、あらゆるメディアの作品がそういったパターンを採用し、物語を膨らませてきた。
しかし『呪術廻戦』は、そこに駒を置いたままにしない。かといって、そこを飛ばして省略することもしない。確実に、あるいはノルマのようにそういったパターンを経由しながらも、ダラダラと留まることをしないのだ。「はい、こういうパターンのやつです。やる必要があるのでやりました。でもここに時間はかけません。次の展開どうぞ」。まるでそうADに急かされる番組作りのように、話の展開が速い。他の漫画ならそれだけである程度の尺を要しそうな展開を、次々と、そして淡々と消化していく。
なんとも鮮やかな手腕である。
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減点されにくい漫画
そういった数々のパターンをノルマのように淡々と消化していく様子は、それがある種の「求められる展開」でもあるからだろう。主人公の横にいる存在には主人公を助けて欲しいし、人を殺めてしまったことを悔いない主人公も如何なものか。そういった、十人十色な読み手の要望や意見というものを、可能な限り満たしていく感覚があるのだ。
それはもはや、フェチの領域。この作者は、相当な凝り性なのではないだろうか。単行本のおまけページを読んでも、あらゆる設定に凝りまくり、想定される読者からのツッコミを弁明のように解説していく様子が印象的である。今やネットには漫画の感想が無限に溢れており、誰もが「ここがおかしい!」「辻褄があってない!」と叫べる世の中になった。クリエイターにとっては、さぞ窮屈な時代とも言えるだろう。そういう全方位な意見を相手に、『呪術廻戦』は汗ひとつかかず、クールに立ち回ってみせるのだ。
「このキャラはこういうこともちゃんと考えてますよ、作者のミスではありません」「この展開はこの意味のために演出を優先しています。物語の瑕疵ではありません」「大丈夫です、そこは後でフォローしますので、それを示す『匂わせ』のくだりだけ、今は配置しておきます」「心配なさらずに、このキャラもあのキャラもしっかり活躍します。しかも、旧来のヒーロー観やジェンダー観からは少しズラします。それが今のやり方ですものね」。
まるで作品自体が、五条先生のファイトスタイルのように、余裕すら感じさせながら無限の読者と戦っていく。「匂わせ」ながら、台詞で触れながら、「何かがある」コマを取り急ぎ置きながら。そつがないというか、クレバーというか。非常に「気を遣われた」作品でありなが、そう見えないようにちゃんと擬態してある。それが読んでいてとってもインタレスティングだ。
だからこそ、良い意味での「減点されにくい漫画」と言えるだろう。「減点回避型少年漫画」。一億総評論家時代における、週刊連載での見事な立ち回りだ。実に美しい。
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高度に発達したオマージュ
冒頭でも触れたように、本作には様々な漫画の影響が見て取れる。
言うまでもなく『HUNTER×HUNTER』のようなロジカルな戦いは魅力的だし、学園モノの側面とキャラクターの配置は『NARUTO』のようで、技のセンスや演出、キャラクターの造形は『BLEACH』を思い起こさせる。ロジックの応酬、互いがカードゲームのように手札のカードを切り合う戦いは『ジョジョの奇妙な冒険』の系譜だし、あらゆる演出には映画作品のような「間」が設けられている。コマ割りも大胆なものが多く、グッとくる見開きも少なくない。
しかし、『呪術廻戦』が面白いのは、そのあらゆるオマージュや影響を特に隠すこともしないばかりか、ちゃんと自らのセンスの支配下に置いていることである。
「HUNTER×HUNTERっぽい」「BLEACHっぽい」。確かにそう思わせる側面もありながら、ちゃんと自分の軸があり、そこからはブレない。オマージュに振り回されることも、必要以上に引っ張られることもなく、自分の領域の中で無理なくそれを発現させている。やりたいことや好きなものは躊躇なく盛り込むが、決してそれ「だけ」では完結させない。そういったバランス感覚が伝わってくるのだ。
私はマンガを描く時 “テーマ” (主義主張?)を決めてなくて「こういう展開面白いかもなー」「こういう人物(キャラ)いいなー」「こうしたらアツいのかなー」みたいな なんとなく の連続で描いています(その結果テーマが生まれることはありますが...)
なので他のマンガでやろうとしていたけど叶わなかった “なんとなく” のストックを呪術にいっぱい盛り込むぜ!って感じで企画を作ったので、それはもうノリノリです。
・『呪術廻戦 0 東京都立呪術高等専門学校』作者あとがきより引用
呪術廻戦 0 東京都立呪術高等専門学校 (ジャンプコミックス)
- 作者: 芥見下々
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2018/12/04
- メディア: コミック
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「高度に発達した科学は、魔法と見分けがつかない」。まさにこの構造である。高度に発達したオマージュや影響は、オリジナリティと見分けがつかないのだ。
思うに、こういった表現者の登場を経て、漫画の流行りや演出技法はアップデートを重ねていくのだろう。あるいは、原作者である芥見下々先生がまだ20代ということを勘案すると、『HUNTER×HUNTER』等に影響を受けた読み手世代がついに作り手に回るようになった、とも取れる。平成中後期の漫画で育った世代である。
ロジカルの応酬という面では、第30話の展開が秀逸であった。真人によって残酷な姿に変えられた順平を前に、虎杖は怒りを爆発させる。やがて七海もその戦いに合流するが、真人の領域展開により、虎杖はその空間から弾かれてしまう。しかし、虎杖が躊躇なく領域の中に飛び込んだ結果、「言ったはずだぞ、二度はないと」と、内なる両面宿儺が戦況を一変させる。
この「ライミング」には、思わず溜息が漏れてしまった。なんと美しいのだろう。そのかなり前の段階から、「展開された領域内においてはどんな攻撃もオートで必ず当たる」こと、そして、「領域という名の結界は外からの力に弱いこと」が説明されていた。真人の攻撃は「相手の魂に触れることでその形を変える」ものであり、それが「オートで必ず当たる」のだから、七海の敗北は決定的であった。ダメ押しで、あからさまな死亡フラグとも取れる七海の過去を直前に配置する。
と、見せかけての、両面宿儺の迎撃である。「オートで必ず相手の魂に触れる」必殺の領域が、あろうことか真人の最大の敗因となる展開。積み上げられた理論が、撒かれた設定が、盛り込まれた物語の起伏が。それら全てが、両面宿儺の「二度はない」に集約する。なんという美麗なカタルシス。
この手の組み上げ方は、それこそ『HUNTER×HUNTER』や『ジョジョの奇妙な冒険』等でもあらゆるアプローチで成されてきたことではあるが、『呪術廻戦』は、そこにしっかりと自分の球でアンサーを打ち返しているように感じるのだ。
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二度読ませるフレーズ
また、言葉遊びの面でも魅力がある。セリフのセンスに唸らされるというか、思わず二度読んでしまい、頭の中で復唱した後に、スーッと全身に染みていく。そういうフレーズが多い。
好きなのが、第9話での伏黒のくだり。「不平等な現実のみが平等に与えられている」。そのフレーズを先に示しておきながら、それを「因果応報は全自動ではない」で受ける。「悪人は法の下で初めて裁かれる。呪術師はそんな “報い” の歯車の一つだ。少しでも多くの善人が平等を享受できるように、俺は不平等に人を助ける」。少年漫画における「どこまで他人を助けるのか」問題は根深いものがあるが、それに対するなんともハイセンスな切り返しだ。
こういった、思わず二度、あるいは三度以上読んでしまうフレーズが定期的にやってくるため、脳の回転が早まる感覚がもたらされる。台詞回しも、シンプルながら味のあるものが多い。思わず口にしたくなってしまう。
リアルタイムの少年たちは、教室でキメ顔を作りながら呪術キャラの真似をして遊んでいるのだろうか。なんとも羨ましい。我々の世代は音を殺して歩くのがクセになっていたものだ。
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映像と静止画と
『呪術廻戦』を語る上で、その映像的演出にも触れねばならないだろう。この点については、同誌にて絶賛連載中の『チェンソーマン』にも抜きん出たものがあると感じている。
要は、漫画としての静止画の中で映画のような映像のノリを再現している、その演出である。
分かりやすいのが、第42話。禪院姉妹が戦うくだりで、妹の放った銃弾を、姉が刀でふたつに斬り裂くのだ。「何、笑ってんのよ」とリボルバーに弾を込めて発砲するのが見開きにおける左下のコマで、ページをめくると、「キンッ」という擬音と共に銃弾が刀によって割られる。そして、擬音の吹き出しが食い気味で「ドドッ」と鳴り、斬った姉の後方、左右の木にそれぞれ着弾する。
これ、一瞬のスローモーションなんですよね。アクション映画によくあるやつ。銃弾がドーンと放たれると、連なって被弾する側にカメラが移動し、スローモーションの中で銃弾が捌かれ、フッと速度が戻って通常通りにドドンと着弾する。その速度の調整、緩急を、漫画という静止画で再現しているのである。
もちろん、この手の技法は『呪術廻戦』オリジナルでも何でもなく、今や多くの漫画で用いられているものである。『NARUTO』が必殺技を放つ際に三方向からのカットが描かれるのも、映像的演出と言えるだろう。
しかし『呪術廻戦』は、その緩急が上手い。ここ!というタイミングでそういった攻めた演出が出てきたかと思えば、一転、非常に漫画的な組み立てでページを構成する時もある(長物の武器そのものでコマを割る、など)。そういった引き出しの多さと、開け閉めのタイミング。それが巧妙なので、結果的に、「スピードの支配・誘導」を生むのだ。読む側は、思わず手を止め、息を飲まされる。
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・・・などと、気づけばすでに7,000字オーバー。ストーリーの細かい部分やキャラクターの造形に触れずとも、すでにこのボリュームとなってしまった。それほどまでに、私の考える「面白い」を計算尽くで体現した作品だったのである。またひとつ、良い漫画と出会えた。
私は、「ぽい」ことが悪いことだとは思わない。オマージュや影響を受けた作品が「◯◯っぽい」演出を積み上げ、それにより物語を紡ぐのは、むしろ正道のアプローチと言えるだろう。この漫画大国・日本において、どのベクトルにも抵触しない完全無欠のオリジナリティは、果たして今後誕生するのだろうか。
だからこそ大切なのは、「ぽい」といかに向き合うか、という点なのだろう。「ぽい」を踏襲するつもりが、逆にその引力に負けてしまい、無味無臭に堕ちてしまう。尖らせたつもりが、どこから見ても面白みがないほどに丸い。そんな漫画を、我々はいくつも見てきた。
その意味で、『呪術廻戦』は非常にクレバーなのである。「ぽい」を支配下に置く自我、それを成すセンスと技術が見て取れる。だからこそ「面白い」。平成中後期の少年漫画のフォロワーとして、「令和の少年漫画」と表現してしまうのは、あまりに褒め過ぎだろうか。
呪術廻戦 0 東京都立呪術高等専門学校 (ジャンプコミックス)
- 作者: 芥見下々
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2018/12/04
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