奈良時代以降およそ1260年もの間、世界でも類を見ない貴重な宝物を襲蔵している「正倉院」。その由来は、天平勝宝8歳(756年)、光明(こうみょう)皇太后(701~760年)が聖武(しょうむ)天皇(701~756年)の御冥福を祈念して、御遺愛品などの品々を東大寺本尊盧舎那仏(大仏)に献納されたことに始まる。
正倉院が「シルクロードの終着点」と言われるように、納められた宝物は遠く大陸から伝わった国際色豊かな文化財が多く、ほかにも日本で製作された美術工芸品、文書など多岐に及んでいる。それらの宝物と双璧をなす法隆寺献納宝物を同時公開する御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」が、東京国立博物館で開催されている(11月24日まで。現在、後期展示)。美術史的にも「特異」と言われるそれぞれの宝物について、東京国立博物館学芸研究部調査研究課工芸室研究員の三田覚之(かくゆき)さんから話を聞いた。
楊貴妃も愛用?
「仏教が伝来したのち、日本は中国や朝鮮半島の文化や技術を吸収して新たな社会をつくっていきました。仏教やその文化を広めたのが聖徳太子(574~622年)であり、法隆寺は聖徳太子が建てたお寺ですから、他の寺院と比較しても歴史は各段に古く、飛鳥・奈良時代(7~8世紀)の日本仏教の黎明期の宝物がたくさん伝えられています。
一方、正倉院宝物は聖武天皇の御遺愛品を中心としているので、当時の最高レベルの品々が集まっていたのはもちろんのこと、それを光明皇后が東大寺大仏に捧げたことで、現代の中国や朝鮮半島では失われてしまった芸術品・美術品が多数守られ続けてきました。さらに正倉院宝物を稀有なものにしているのが、宝物のリストとも言える『東大寺献物帳(国家珍宝帳)』(前期展示)があることです。長さ15メートルほどにもなる巻物には、正倉院の宝物をなぜ納めるのかという光明皇后の願文(がんもん)が記され、献納品の名称、数量、寸法、材質、技法、由緒などを明らかにしています。誰が何のために使ったのか、当時から何と呼ばれていたのか、通常ならば考古学的に推測しなければならないものでも、実物を伴って記録が残されているのですから極めて貴重なものです」
こうした正倉院宝物を「日本美術の源流」と言う人もいるが、三田さん曰く、「実はまったく日本的ではない」と言う。
「自国の中で自然培養されただけではなく、絶えず海外の優秀な技術や思想を取り入れて発展するのが、現代までつながる日本文化の有り様ですが、奈良時代の日本文化もまた、中国を中心とした広大な地域の最新の技術を取り入れた国際性豊かなものでした。
それをうかがわせるのが、『螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)』(前期展示。ただし、精巧に復元された『模造 螺鈿紫檀五絃琵琶』は後期も展示されている)や『平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)』(前期展示)、『平螺鈿背八角鏡』(後期展示)です。
現在、琵琶と言えば4絃ですが、正倉院宝物を代表する5絃の琵琶は、中央アジアや中国の壁画や石彫、文献に見られるものの、現品として古代から伝えられているのは、世界でこの1点のみ。文様にはシルクロードからもたらされたことを象徴するかのように、撥(ばち)を受ける面にはラクダに乗って4絃の琵琶を弾く人物や熱帯樹が表されています。裏側は夜光貝(やこうがい)の真珠層である螺鈿やべっ甲を使って、宝相華(ほうそうげ)という浄土に咲く空想上の花を装飾しており、本体の紫檀の深い茶色との対比が美しく、華やかです。
平螺鈿の八角鏡と円鏡は使用されている銅の成分から、中国の唐でつくられたものだと推測されます。螺鈿や琥珀、トルコ石、ラピスラズリを使用して宝相華文を象っており、こうした多様な素材を使用できるのも、大唐帝国ならでは。夜光貝は屋久島や沖縄など南の海でとれるものですし、トルコ石は西アジア、ラピスラズリはアフガニスタンが有名な産地。広大な帝国の版図から貴重な素材がもたらされた様子がうかがわれます。
また宝相華の特徴からおそらく玄宗皇帝時代のものと見られ、彼の寵愛を受けた楊貴妃も同じような鏡を愛用していたかもしれません。日本では国家珍宝帳から光明皇后がご使用になっていたことがわかっていますから、中国と日本のファッションリーダーが宮中でともに使っていたことを想像すると、違った目線でおもしろく見ていただくことができるかなと思います」
日本のモノづくりの原点
当然、8世紀における中国も、培ってきた独自の文化だけではなく、同時代の様々な国や地域の影響を受けていた。それが顕著に表れているのが、「白石鎮子(はくせきのちんす) 白虎・玄武」(後期展示)である。
「動物が絡み合う文様は学術的に『動物闘争文』と言われ、本来はスキタイなど遊牧系騎馬民族が好んで用いていました。今回、前漢時代(前2~前1世紀)につくられた『動物闘争文帯飾板』を並べて展示していますが、紀元前のかなり古い時代から中国の文化として、この文様が消化されていたことがわかります。
その後、時代が下って『白石鎮子』のような唐の石彫にこの文様を見ることができます。スタイルは継承されつつも、実在する動物から東西南北を守る四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)に読み替えられていました。この2つを比較することで、中国の西アジアにまで及ぶ文化的な広がりと、中国国内の文化の伝承の様子が見て取れます。
加えて、教科書でもよく見る正倉院宝物の『漆胡瓶(しっこへい)』(後期展示)と、法隆寺献納宝物の『竜首水瓶(りゅうしゅすいびょう)』(後期展示)も、ぜひ見比べてほしい。下部が丸くて首が細く、取っ手がついている形は、ササン朝ペルシアを中心とする西アジアで好まれた『胡瓶(こへい)』と呼ばれる器のもので、これを中国、日本で取り入れたのが、この2つの水瓶です。
漆胡瓶は、唐代に行われた平脱(へいだつ)という銀の薄い板を文様の形に切り、漆で塗り込める技法が表面に用いられ、中国の宮中の侍女がこれを手に持っている壁画も見られるので、中国製と考えられています。テープ状にした木の薄い板を巻き上げて形をつくる巻胎(けんたい)という技法が用いられているのは、本体を軽量化し、実用性を高めるためでしょう。
もう1つの竜首水瓶は飛鳥時代の日本でつくられました。銀製品を真似て銀色の器にしたかったのでしょうが、当時の日本に銀は少なく、そのため銅製の器体を鍍銀しています。しかし銅に銀は焼きつけられないため、銅の上に鍍金を施し、さらに鍍銀するという非常に凝ったつくりになっています。ですから、摩れてしまったところは金色になり、触ることの少ない高台の裏は今でもきれいな銀色のままです。ここにも限りある天然資源を技術力でカバーする、日本のモノづくりの原点を見る気がします。
この水瓶の注ぎ口の竜頭は中国の神話から、ボディは前述したように西アジアの胡瓶の形、そこに描かれた有翼馬はギリシャやローマの神話に由来し、つくられたのは日本ですから、古代の国際交流の記念碑的な作品と言っても過言ではありません。
形だけを真似して独自の素材と技法を活かすもの、同じ素材を使いたいけれど、調達できないので工夫を凝らすものと、この2つの作品から、文化が他国に広がっていくときに、その土地に根差した様相に変化していくことがよくわかります。
今回の展覧会のタイトルを『正倉院の世界』としたのは、正倉院宝物のみならず、法隆寺献納宝物や東京国立博物館の所蔵品などと比較して、各地域の影響を受けながら広がっていく文化の在り方を目で見て確かめてほしい、と考えたからです」
長安の市場で売られたままの姿か
このほかにも、見逃せない品々は数多い。まずは展示品として史上初めて並ぶ2つの「白瑠璃碗(はくるりのわん)」(後期展示)だ。1つは正倉院宝物、もう1つは東京国立博物館所蔵の品で、色も大きさもほぼ同じ。表面に施された切子の形が少しだけ異なるという。
ほかにも正倉院宝物には、文化財としてもっとも傷みやすい染色品が数多く残されている。とりわけ注目に値するのは、「紺夾纈絁几褥(こんきょうけちあしぎぬのきじょく)」(後期展示)と「1号花氈(かせん)」(後期展示)。保存状態の良さもさることながら、ともに使用された古代の技法の繊細さに目を見張る。
「夾纈(きょうけち)は板締めによる染色法で、鏡対象になる2枚版木で裂(きれ)を挟み、版木にあけた穴に色を流し込むことを何度も繰り返して染め分け、色鮮やかな左右対称の染色品ができあがります。日本には奈良時代に夾纈が入ってきていますが、この品が最高傑作です。
そして1号花氈。もとより完全な姿を残した古代の花氈は正倉院にしか残っておらず、その花氈のうち、1号花氈はもっとも華やかで優品だと言われています。遊牧民が敷物として使っていた羊毛フェルトの製作技術や生活スタイルを、唐の宮廷が取り入れたため、より緻密で複雑、そして美しい植物文を表した花氈が生まれました。
花氈は、あらかじめ色を染めた羊の毛を並べていき、最後にベースとなるような色の毛を敷き詰め、水分を加えた後に圧縮してつくったと考えられています。1号花氈は細やかなグラデーションになるよう色を分けており、圧縮させた後も複雑な文様が歪んでいないことから、技術的に高度な品だということがわかります」
「蘭奢待(らんじゃたい)」の名で知られる天下の名香「黄熟香(おうじゅくこう)」(通期展示)は、足利義政や織田信長、明治天皇が切り取った跡を付箋で示しており、権力の象徴となった香木の歴史が偲ばれる。
「実は蘭奢待は国家珍宝帳にも記されておらず、その由縁はわかっていません。雅名の中に『東』『大』『寺』の3字が入っている逸話が知られているものの、蘭奢待と呼ばれるようになった由来もわかりません。しかし、仏教の儀式では香木を使用するので、大きなお寺には当初から常備品として置かれていたのではないかと想像できます。権力と結びつくようになったのは、室町時代に香道が行われるようになってからだとのことです。
実は展示されている香木で、一見地味、棒切れにしか見えない法隆寺献納宝物の『白檀香』(通期展示)も、とても貴重なものです。その表面には、パフラヴィー文字の刻銘とソグド文字の焼印が記されていました。つまり、産地であるインド南部で白檀を買い付けたペルシャ人なり、ソグド人なりがこの木を流通させ、おそらく日本の遣唐使が長安で購入したのでしょう。8世紀の長安の市場で売られていたままの姿で、今、ここに展示されているのです」
『勅封』という制度
なぜ正倉院が世界に類がないほど、こうしたあまたの宝物を守り伝えることができたのか。三田さんは、「『勅封』という制度により、皇室の保護のもと1000年以上にわたって東大寺が守ってきたからこそ」と話す。
「正倉院には、今に至るまで天皇の許可がなければ蔵を開けてはいけないという『勅封』の制度があります。時代や世俗の権力者によって政治面が変わっても、精神的な権威としての天皇を、我々日本人はより高位な存在と位置づけてきました。現在、天皇陛下が直接的な力を正倉院に行使することはありません。1つの制度として形式化したものではありますが、今でも勅封はしっかりと守り通されています。1000年以上にわたり、宝物は歴史の変化の中でも無視されず、常に管理されてきたわけです。
7~8世紀には、遣隋使、遣唐使が海を渡り、宝物を日本に持ち帰りました。当時は航海の最中に沈んでしまった船も多く、宝物が日本にあること自体が『奇跡』と言えます」
世界史上の中でもかけがえのない価値を持つ宝物を、今、目の前で見ることができるのは、人々の努力が生み出した奇跡の重なりがあってこそなのだ。
会期:11月24日(日)まで
会場:東京国立博物館 平成館
休館日:月曜日
開館時間:9:30~17:00 ※毎週金・土曜日は21:00まで ※入館は閉館の30分前まで