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ひとつのことを誰かが発案したら、それをさらに発展させていく。 そこに人生の妙味があるし、会社や組織の発展があります。 このときに最大の敵(障害)となるのが、嫉妬と対立です。これは、ただ足をひっぱることしかできない。 そして場当たり的な対応は、世の中の矛盾を増大させます。 歴史は学ぶためにあるのです。 |

画像出所=https://hinotorifugetsu.com/ryoma/
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)近年坂本龍馬はドラマや小説、マンガなどの題材でたいへんな人気を集めています。
ですから坂本龍馬の生涯については詳しい方も多いかと思います。
ただ、いくつかドラマと実際が大きく違うところがあるので、そのことを書いて置きたいと思います。
龍馬は土佐藩の出身ですが、その土佐藩では山内家ゆかりの家臣団が「上士」、長宗我部家から山内家で召し抱えられた武士を「郷士」と呼んで身分上の差を置いていました。
上士は、家老、中老、馬廻り、小姓組、留守居組などの要職に就きます。
郷士は、用人、徒士、足軽などの身分の下級武士です。
郷士は身分は低いですが、野中兼山の治世以降、郷士たちの生活はとても豊かになりました。
もちろん身分上の差はあります。
足軽の身分ですから、武士としての俸禄は最低ランクですし、絹の着物を着ることは禁じられたりもしていました。
しかし藩の俸禄が少額であっても、農家としての実入りがあるのです。
とりわけ野中兼山によって推進された郷士たちのための新田開発は、もともと一領具足(いちりょうぐそく)といって半農半武だった郷士たちにとって、大きな喜びと富をもたらすものとなっていました。
もっとも人の世はさまざまです。
江戸三百年の泰平の中にあって、なかには博打(ばくち)や酒色におぼれて身を持ち崩す者もいました。
そうでなくても病気のための高い医療費支出や、子供の教育のための無理がたたって、田畑までも売り払い、生活が成り立たなくなってしまう者もいました。
一方、藩の側では、せっかく野中兼山の築いた藩の財政改革が後に否定された結果、江戸中期になると財政が逼迫(ひっぱく)しました。
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すこし補足しますと、江戸時代、藩の財政を取り仕切るのは、その藩の大名の役目です。
ところが土佐藩(いまの高知県)は、台風上陸のメッカでもあるのです。
常に台風災害に備えなければならないし、災害が起きれば、その都度、復興事業を興すのは藩の役割です。
そしてこれが猛烈に藩の財政を圧迫します。
ですから本来であれば土佐藩は、野中兼山の政策を踏襲して、日頃から(つまり平時から)藩内各地の災害対策を強化し、港湾設備を風雨に強くし、あるいは堤防を築いて水害対策を行い、あるいは新田を開発していざというときの食料備蓄量を増産させ、また産業を興して藩の財政を潤わせるという体制を保持拡大し続けていかなければならなかったのです。
けれど藩の重役たちは、そうした殖産興業よりも、みずからの立場や権力を超えて影響力を及ぼす野中兼山に嫉妬したし(男の嫉妬と女の恨みほど世の中に恐ろしいものはないと昔から言います)、平時であれば、喉元すぎればで、たいへんな災害対策や、労働やリスクを伴う殖産興業よりも、目先の利権を守ったり奪ったりすることばかりを優先するようになるし、結局、災害対策も殖産興業も、野中兼山が江戸初期に開発したものを保持するだけになってしまっていたわけです。
ところが野中兼山の新田開発やカツオ漁などの新規事業によって、一時的には備蓄食料の量や、藩の財政が潤ったものの、豊かになって食料も豊富となれば、その分、人の世というのは、人口が増加するのです。
そして人口が増加すれば、食料の備蓄量は徐々に減少し、ついには年間の生産量と人口がイーブンになっていきます。
このことは、チャイナの民衆が、貧困から我がままな低い民度になるのだからと、日本軍がチャイナで農業を奨励し、新型小麦を持ち込んで食料の大増産政策を採ることで、チャイナの食料生産が3倍に増えた(それは誰もが豊かに安心して暮らせる世の中が生まれるようになったことを意味します)にも関わらず、結局チャイナは人口5万から15万人へと、人口そのものが増加し、民衆の貧困と貧富の差が現代では、かつてないほどむしろ広がってしまったことと、実は同じです。
話を戻しますが、野中兼山亡き後の土佐藩では、財政が逼迫し、結果、ありえない禁じ手が場当たり的に行われるようになりました。
それが「郷士株」の売買です。
江戸時代における「株」という用語は、いまでいう「権利」のことです。
郷士が町人に「株」を売れば、町民でも士分として名字帯刀が許される。
ですから商家などで、小金を貯め込んだ家では、喜んでこの「郷士株」を買いました。
そして藩は、その仲介料で多額の収入を得ることができたわけです。
もちろん、多少の口利き料といった副収入もあったといいます。
しかもおもしろいもので、株を売った側の郷士は、武士としての士分を維持できるとされました。
つまり、郷士としての権利(株)を売っても、武士は武士の身分のままとされたのです。
もっとも、もともとが藩の財政のための場当たり的な手段ですから、売った武士の藩からの俸禄はなくなります。
郷士株を売る人は、もともとお金がなくなって田畑も手放しているような人です。
田畑を売って、それでも首がまわらないから、栄えある長宗我部家ゆかりの伝統的ある家系を売りに出すのです。
世の中、誇りを売ればカネが儲かる、というのは、いまに始まったことではない。
ところが、誇りを売るような人というのは、郷士株の売買によって一時的に多額の収入を得ても、その収入は多くの場合、借金の返済に消えてしまったし、あるいは博打で失ってしまったし、その後の収入源といえば傘張りなどの内職仕事か、土方(どかた)仕事しかありません。
そしてこうした株の売却後の郷士は、地下浪人(ぢげろうにん)と呼ばれて、土佐藩の中で最貧層を形成しました。
よく近年のドラマなどで、土佐藩の郷士というと、とんでもないあばら家の貧民窟(ひんみんくつ)のようなところに住んでいたかのように紹介されることが多いのですが、それらは「貧しい郷士」ではなくて、実は「郷士株を売った貧しい元郷士たちの末裔である《地下浪人》たち」であって、ちゃんと郷士の家を維持してきた郷士たちは、経済的には逆にゆとりがある富裕層を形成していたのです。
ちなみに三菱財閥の創設者となった岩崎弥太郎は、そんな地下浪人の家から生まれています。
弥太郎の岩崎家は、まさに極貧暮らしでしたが、母の実家は安芸浦西ノ浜で医者を営む裕福な家です。
どうしてそんな極貧の家に、裕福な医者の娘が嫁いだのかというと、岩崎家が長宗我部家時代から続く、伝統ある家系だったからです。
そういう次第で、母は実家からお金を出してもらって弥太郎を高額な私塾に通わせています。
幼い頃から親の苦労を見てきた弥太郎は猛勉強をしたし、ですから14歳のときには、藩主の面前で漢詩を披露するまでになりました。
龍馬を描くドラマなどでは岩崎弥太郎は悪人のように描かれることが多いですが、弥太郎は、たいへんな努力の人であったのです。
いまの日本ではサラリーマンは夏冬にボーナスをもらいますが、日本で最初にボーナスを支給したのも岩崎弥太郎です。
もし弥太郎がいなければ、勤め人がボーナスをもらうという制度は日本に生まれなかったわけですから、サラリーマン諸君は岩崎弥太郎に感謝しなくてはなりません(笑)。
坂本龍馬の家は、もともとは町人であり、商家であって、武士の家系ではありません。
江戸時代というのは、士農工商というのは、身分ではなく実は貧乏な順番で、武士は借金ばかり、農家は食い物はあるけどカネはない。職人はカネまわりは良いけれど宵越(よいこ)しの銭がない。商人はとにもかくにもカネがある、といった次第で、要するに商家はお金があった。
もっとも、お金を目的に商いをしているわけですし、お金以外に商家の財産も名誉もないのですから、商家が小金を稼ぐのはあたりまえであったわけです。
坂本龍馬の家は、そんな商家であったもので、小金を貯めこんでいたのですが、江戸中期に藩が郷士株の売買を始めたので、早速、明和七年(1770)に郷士株を買って郷士(士分)になりました。
これには背景があって、坂本家は商業の他に大規模な農場も経営していました。
つまり藩内有数のお金持ちの家であったわけです。
そこで土佐藩が郷士株の売買を斡旋することになったときに、むしろ藩の方から坂本家に「株を買って郷士にならないか」と頼みに来たし、坂本家でも、それで自分たちが藩のお役に立てるのならと、郷士株を買い取ったという次第です。
こうして坂本家は、苗字帯刀を許されるようになるわけです。
ちなみにこの苗字、どの家でも先祖代々の苗字はあったのですが、当時の一般的政策として農家は土地に根ざすものという考え方があり、本当は斉藤さんだけれど、普段はその名を名乗らず、山本村に住んでいるので山本村の長兵衛さんなどと名乗るという習慣でした。
これが苗字帯刀を許されると、山本村に住んでいても斉藤姓を名乗ることができるようなります。
さて、坂本龍馬は、文武とも子供の頃の成績はイマイチだったようです。
けれども家が豊かであったことから、より高い教育を受けさせようと、親が江戸留学を奨めてくれました。
いまで言ったら、成績が芳しくないからと、親が子をアメリカに留学させるようなものです。
江戸に出た龍馬は、当時日本一だった千葉周作の道場に通いました。
剣術道場というのは、身分よりも剣の腕がものをいうところです。そして道場が江戸一番という評価があったために、全国から腕に覚えのある若者が集っていました。このことによって龍馬は、生涯役立つ人脈を手に入れています。
江戸で豊富な人脈を築いた龍馬は、世の中が混乱していく中で、脱藩後もその豊富な人脈を各方面から期待されるようになりました。
そして龍馬が起草した「船中八策」は、そのまま藩を通じて幕府の基本方針となりました。
船中八策に書かれているこを要約すれば、
(一)幕府が政権を朝廷に返納することで将軍家は一大名となっても新政府内での発言力を温存できる。
(二)これによって薩長の討幕の理由もなくなり国内の治安を回復させることができる。
(三)欧米の軍事力(海軍力)に対抗するには、何より国内での戦費の流出を防ぎ、諸藩が一致して新政府を打ち立て、列強国に対抗することができようにすることである
まさに一石が二鳥にも三鳥にもなる妙案で、これが後に明治新政府の基本方針となる五箇条の御誓文に昇華していきました。
ちなみに、江戸時代までの我が国の学問というのは、ただ師匠に言われたことを、そのまま鵜呑みにして、これを金科玉条のように墨守するというものではなく、先達の思想をもとに、これを後の世にまで通用する思想に発展させていくところに、学問の妙味があるとされていました。
よくあることですが、社長が専務に、「最近災害が多いね。我社も災害対策をキチンとしなければならないね」と言う。
するとこれを聞いた専務が常務に「最近災害が多いね。我社も災害対策をキチンとしなければならないね」
常務は部長に「最近災害が多いね。我社も災害対策をキチンとしなければならないね」
部長は課長に「最近災害が多いね。我社も災害対策をキチンとしなければならないね」
課長は係長に「最近災害が多いね。我社も災害対策をキチンとしなければならないね」
係長は部下に「最近災害が多いね。我社も災害対策をキチンとしなければならないね」
部下はバイト君に「最近災害が多いね。我社も災害対策をキチンとしなければならないね」
これでは何の意味もないのです。
社長が専務にそのように言えば、専務は常務に命じて、自社の災害対策の現状の問題点と今後の対応について調査研究をまとめるように指示する。
常務は関係部署の部長に、各部門ごとの取りまとめを指示する。
部長は部下に命じて、これをまとめさせ、常務は各部のまとめを、総合してとりまとめて、これを専務、社長に報告し、次には予算を確定して、具体的な対応の実施を行う。
こうしなければ、いつまで経っても、災害対策などできないわけです。
つまり、ひとつのことを誰かが発案したら、それをさらに発展させていく。
そこに人生の妙味があるし、会社や組織の発展があります。
このときに最大の敵(障害)となるのが、嫉妬と対立です。
これは、ただ足をひっぱることしかできない。
そして場当たり的な対応は、世の中の矛盾を増大させます。
歴史は学ぶためにあるのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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何にでも牙を剥いて、意見が違うとすぐ噛みつきます。
我国は一体どうなるのか?
心配で仕方ありません。
運んできた貝を海に捨てる…こういう政治を是非行ってほしいと熟々思いますね。