ほぼ日刊イトイ新聞

2019-11-08

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・昨日、「会話」というのは、人間にとっての
 大きな娯楽なのではないか、というようなことを書いた。

 「無言の行」という修行があるらしいけれど、
 これも、無言でいられないからこそ修行になるわけだ。
 どこかに閉じ込められて「会話禁止」の罰を受けたら、
 これはさぞかし苦しいんじゃないかなぁとも思う。
 お茶飲みに行こうかとか、一杯(酒を)飲もうやとか、
 みんな、よく言ってるけれど、あれは、もちろん
 お茶や酒を飲むという意味もあるのだろうけれど、
 それよりなにより「会話」をたのしみに行くんだよね。
 一人旅じゃなければ、旅だって「会話」がごちそうだ。
 人と人とがいっしょに暮らしたいと思うのも、
 いつでも「会話」ができるから、
 という理由があるかもしれない。
 まだいわゆる「ことば」をおぼえていない赤ん坊も、
 人に向かって話しかけるような声を出したり、
 ひとりごとのようになにかをしゃべっていたりする。

 ぼく自身は、おそらくおしゃべりなほうの人間だが、
 しゃべる機会がたっぷりありすぎるものだから、
 黙っていることも、あんがい嫌いじゃないかな。
 いまでも憶えていることなのだけれど、
 子どものころ、家で父に向かって訊いたことがある。
 どうしてそんなにしゃべらないでいられるのか。
 大人って、しゃべらないで苦しくないのか、と。
 そうしたら父は、じぶんも子どものころは、
 もっと、おまえのようにしゃべっていたけれど、
 だんだんと黙ることをおぼえたのだと言った。
 「それでいいのか?」と、ぼくは思ったのだけれど、
 いまになってみれば、そういうものかと理解できる。
 しかし、その父も、友人と酒を飲みながら
 うれしそうによくしゃべっていたものだった。

 きっと、ほとんどのみんなが、「会話」が好きなのだ。
 高倉健さんも「会話」が好きだったし、
 前川清さんだって、たのしそうに「会話」する。
 人間の本能を語るときには「会話欲」というものを
 勘定に入れてもいいんじゃないかと思うなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日」のみんなは、今日は横浜方面に行ってまーっす。


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