完璧な資本主義=神の御心!?

12月4日の金曜礼拝の報告です。
今回も多数の人々が集い、共に食事をし信徒たちは師の指導の下、神に祈りました。師は毎回様々な喩えでダールルハックの理念を表現しますが、今回は完全な資本主義を目指すという話をされました。 私たちは日本は資本主義社会だと思っています。しかし実態は違います。
本当の資本主義社会であれば、毒も自由に売れます。ですが実際には売れません。毒を売ったら客は来なくなるからです。自然淘汰の力が種々の問題を統御しているのです。これが合理的かつ理想的な在り方です。しかし今日本は資本主義や自由競争を謳いながら、その実、行政が物を売る許可を出さねば商売できない不自由な国家主義型管理社会なのです。ダールルハックの目指すべき形態は国との関わりを出来うる限り排した共同体の中で真に自由な経済活動を行う事です。
これこそ完全な資本主義社会であり、現代においての神の御心なのです。

本会の意義と目的

2016/02/16 0:54 に 真理の家ダールルハック が投稿

1月8日金曜日は集団礼拝・食事会でした。
食事を皆で摂り、先生のご指導の下、礼拝を集団で行いました。アルハムドリッラ―.
最近は参加者が増えてきたこともあり、先生は改めて、この集まりはそもそもどのような性格を持つのかというお話をされました。
ここは単に歓談する場ではなく、真理についての認識を深める場である。イスラーム、アッラーに帰依することとはどういうことなのか、ということについての認識を深める場である。そのことだけが重要である。そのために我々が探究しなくてはならないのは、人間に普遍的なこと、すなわち労働と死である。
この集まりは、この二つを探究し、正しく実践しようとする者たちの集団、言い換えれば一つの家族の「家族会議」なのであって、その意味で、中東情勢もイスラーム「文化」もイスラーム「地域」も、熱心に話すような事柄ではありえない。

歴史を進めろ!

2016/02/16 0:49 に 真理の家ダールルハック が投稿

12月18日金曜日の集団礼拝の報告です。
今回は大阪で新しい共同体の構築を目指す仲間達が駆けつけての会でした。宮内師は彼らに向けて言いました。歴史を進めなければならない、と。師は続けます。歴史を進める主体は誰か。それは労働者である。何故か。労働者は資本とも国家とも結びつかず「鳥のように自由」であるからであり、それこそが我々が目指すべき存在であると。では労働とは何か。酒を出し客と話す事か。否それは芸事である。芸事を労働と混同してはならない。ましてや、芸事を労働よりも価値ある事とする今の風潮は間違いである。では真の労働とは何か。師は筋肉の動静であると説明します。生産、運搬、消費が経済の三要素であるなら、労働は何かを作ること或いは作った物を運ぶ事の筈です。筋肉を使わずしてこれらは成し得ません。
自称物書きが氾濫する時世です。師はされど大抵のものはつまらない。価値がないと切り捨てます。労働しない者が書いた文など、何の価値もリアルも持ち得ないからです。労働者だけが歴史を進める。そう宣言する師の啓示以上に力を持つ物がありましょうか。神の意志即ち師の言葉、この実現こそ革命。

続・悪について

2016/02/16 0:42 に 真理の家ダールルハック が投稿

12月11日金曜日は集団礼拝・食事会でした。
食事を皆で摂り、先生のご指導の下、礼拝を集団で行いました。アルハムドリッラ―.先生は前にお話しされた巨悪の模倣、巨悪の象徴としての小悪をいかに裁くかということに関連して、次のようなことを話されました。
共同体の所有物を窃盗するような「小悪」人は具体的に如何なる巨悪を模倣または象徴しているのかといえば、これは現代の偶像神リヴァイアサンすなわち「国家」に他ならない。彼らは現に人民の財物を、法治を装った人治を介して掠め取っていくではないか(税金、罰金……)。
盗人に盗人を裁くことはできない。国家から隠れることを志向する、自律的な共同体は自ら組織した警察を、そして裁判所を持たなくてはならない。また、この態度の「過激さ」を非難し、その他の良き部分だけを採用したいといった言説は、この態度が彼の言うところの「良き部分」を導いた原則から導かれたものなのであって、言い換えればこの種の「過激さ」とその種の「良き部分」は不可分一体なのであるから、そのような似非プラグマティックなやり口は無原則という名の自己崇拝に陥るしかないだろう。

悪について

2016/02/16 0:33 に 真理の家ダールルハック が投稿

11月27日金曜日は集団礼拝・食事会でした。
食事を皆で摂り、先生のご指導の下、礼拝を集団で行いました。アルハムドリッラ―.先生は共同体の所有物を窃盗するような小悪人を念頭に置きつつ、次のようにお話されました。
小悪は「中」悪を模倣し、「中」悪は巨悪を模倣する。その意味で小悪は巨悪の模倣としてあり、巨悪の象徴としてある。それゆえ小悪を適切に処罰することができるか否かに、巨悪と適切に対峙することができるか否かがかかっている。これを日和見的に、見逃すようなことがあってはならない。

議論なんかくそくらえ!

2016/02/15 23:53 に 真理の家ダールルハック が投稿   [ 2016/02/16 0:14 に更新しました ]

11月13日の活動報告です。

今回師は議論と奴隷と宗教に関して述べました。左翼と呼ばれる人々は議論が大好きです。議論をすれば問題を解決できると思っています。しかし本当にそうでしょうか。稲を刈り落穂を拾う事に議論は必要でしょうか。そもそも議論とは西洋古来より有閑階級のあそびでした。
奴隷は議論をする時間も言葉も持っていませんでした。これに論理と倫理の両面で正当性を与えたのがキリスト教です。キリスト教は根本的に奴隷使用を容認する宗教だと師は断言します。その例として師は最近見たミッション系私立大学付属の小学校の生徒の話しをしました。先生が自転車で登校中に生徒達に

おはよう!おはよう!と呼びかける。しかし生徒達はみんな無視。この様な態度の根本にあるのは何か。それは奴隷使用の発想。金を払っている自分が使用人。教師は教育という「サービス」を提供する下僕。奴隷に返事なんかしない。この話を聞き初参加者から同じ付属小の生徒たちが、あいつは3000万程度のマンションにしか住めないレベルと話してたのを聞き愕然としたと言いました。師は言います。「私」は人間が人間を支配することを許さない。奴隷を使う人間の作法である「議論」などやめ、差別と貧困をなくすために正しく働こう、それが修行である。

間違いだらけの企業批判

2016/02/15 22:50 に 真理の家ダールルハック が投稿   [ 2016/02/16 0:08 に更新しました ]

11月6日の集いの報告です。
今回師が語った事の中心はブラック企業批判への批判でした。既存の左翼は労働法を守らない企業をブラックと言い攻撃します。しかしこれは二重に愚かな言説です。まず一つ、左翼は自身が気に食わない法はブル法と吐き捨てるのに対して、労働法は錦の御旗として掲げるダブルスタンダード。
現政権は派遣法を変えて、今まで違法とされていた事を合法にしました。これは「左翼」の論理に従えば喜ぶべきことです。違法企業が合法企業になったのですから。もう一つは、自らが仕事を作り出そうとせず、これ又普段から批判している国家(の定めた制度)に保証と批判の根拠を求めるという態度。
その様な態度は問題の本質を見誤る。中小零細企業は事業を維持継承する為に必死である。その様な企業の経営者を叩いても事の解決にはならない。ではどうすればいいのか。自らが仕事を作り、真の仲間と真に繋がることではないか。師は語ります。繋がるとは自分が倒れれば貴方も倒れるという利益共同体。
私たちがなすべき事は差別と貧困の根本原因たる偶像崇拝を廃し、
共に焦土の中で落穂を拾うこと です。

綺麗なもの、穢いもの

2015/11/12 5:21 に 真理の家ダールルハック が投稿   [ 2016/02/16 0:13 に更新しました ]

 10月9日の集いの報告です。

 師は「綺麗」と「穢い」の適切な基準を知り正しい判断を持てる様にと話されました。私たちは或る物を綺麗ないしは穢いと感じることがあります。それは自然なことです。しかしそれはどの様な基準によっての綺麗穢いなのでしょうか。中古品は穢い、農民は穢い。本当でしょうか。

 近年、綺麗の基準が次々と変化してゆき、以前まで綺麗とされていた物が、汚ない古いと言われ、それらの物は捨てさることが推奨されています。綺麗の基準をズラしてゆくことで、最新の物をより綺麗な物として大量に売り出すのです。この紛い物の基準を私たちは無批判に受け入れてはないでしょうか。

 師は言います。本当に穢いものは何なのか。毛沢東は牛糞をつけた農民よりも知識丈の学者の方が穢いと述べたそうです。丸の内や霞が関で或いは高層ビルディングの中で「綺麗な仕事」をしている人たちを世間は立派と讃えます。そして私たちはその様な世間の基準を内面化しています。牛糞をつけた農民になろうとは思いません。師はその様な態度を常に徹底的に批判し自らが農民となる事を説き命じます。それこそ綺麗な生き方なのだと。口でいくら戦争反対、弱者救済を述べても、誤った綺麗穢いの基準に服していればそれは今起きている戦争への加担と何ら変わりません。

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