昨日のブログを見て、当時から事情を知る人が「あれはひどかったねえ」と思い出してくれたようです。吉川徹やそらパパこと藤居学や消えちゃったベムからの集団攻撃ね。
そしてそれに乗っかった人たち。
誰もまだ治っていない。
花風社クラスタは本を読み始めて数ヶ月で「治ったとしか言えないから治るという言葉を使う」と言っているのに彼らはまだ「治るってなに」「さすがに知的障害は治らないだろう」とか言ってる。
まだそんな段階だっていうだけで、彼らが「治る」を体験していないのがわかる。
でもそれが自分で選んだ道。だから彼らも満足でしょう。
お互い自分の信じる道を行けばいいのです。
私は「こういう方法があるよ」と機会を提供した。
彼らはそれを拒否しただけではなくひどい攻撃をしてきた。
それが答えなら、私は彼らが一生我が子の下の世話をする運命にあろうと、一生仕送りする必要があろうと、1ミリも同情しません。同情したら失礼でしょう。それが彼らが一人の大人として自分で判断して選んだ道なのだから。
私は彼らに1ミリも同情しないだけではなく、彼らにわかってもらおうとも思わない。
ただ後続世代は両方を見て判断すればいいとは思っている。
私は治る本を作り終えたら、マーケティングに大注力するんである。
そしてそのマーケティングに必要な本は出して行く。ギョーカイの悪口本。治った本。66歳になる頃には「うちの親がエビデンスエビデンス言ってたので出遅れちゃったじゃねえか馬鹿野郎」という成人になった猿烏賊親を弾劾する子ども本でも出しているかもしれない。
エビデンスを出したら信頼してやる、と迫られても、一人の人間の発達にエビデンスなんかいらないし、何より我が子に一日五分アプローチを行うことで「治る!」と喜んでくれる人たちを私は客筋としている。そして金のかからないことをやっているから公金に群がる必要もない。ギョーカイがエビデンスエビデンスいうのは公金に頼らないと商売にする自信がないからである。その点うちは純粋な民間でやっていけているんだからエビデンスはいらない。エビデンスが必要なのはあっち。そしてあっちは客ではない。なんで客でもない人のために証明してみせなきゃいけないんだろう。エビデンスと心中したい人は心中すればいいです。
私は私の提供できるものを提供している。それはリーズナブルな値段で明日手に入る。それをやってみるかやってみないかは完全に個人の自由。論文がついていないとやれないのならやらなくていいのです。
もっとも『発達障害、治るが勝ち!』にはそのあたりこう書いておきましたけどね。
=====
でもちょっと考えてみよう。
ギョーカイ人が自分のメソッドの公共事業化を狙い振り回す「エビデンス」という言葉。それに振り回されて選択肢を縮めている親たちのうちどれくらいが実際にエビデンスの出ている論文に目を通しているかと言うと、ほとんどいないだろう。「努力でカバーするには限界があるんです!」と叫ぶ当事者たち。そのほとんどが、限界までの努力などしたことはないだろう。見たことのないエビデンスを信じ、したことのない努力を無駄だと切り捨てる。ギョーカイのご都合とぴったり合った省エネモードで動く人たちがいるのである。私の目的は、それを弾劾することではない。この本の目的は、読者に主体的な選択を可能にすること。そのために「当事者保護者仲間にはそういう人がいるよ」と明示しているだけである。その中で、努力するかしないかは自分で決めればよい。
そして言っておきたい。十数年見守ってきた結論から言うと、努力は報われる。地道な努力は、いつか花咲く。「努力しなくていいんだよ」というのはいつまでも卵を産むめんどりにしておきたいギョーカイのセールストークと考えていた方がよい。ギョーカイにとっては、努力せず、だから挫折も味わわず、だから二次障害に苦しむことはないけどぼんやりと生きている「生ける屍」みたいな人が取り扱いやすいのである。だから努力は奨励しない。二次障害になるのなら死んでもいい、と説く。努力など実らないと説くギョーカイ人もいるかもしれない。そしてギョーカイの立場からは、努力を実らせた発達障害者は皆無に見えるだろう。なぜなら努力を実らせたとたん、ギョーカイは伝家の宝刀を持ち出して切り捨てるからである。ギョーカイの十八番「偽者扱い」である。
=====
エビデンスエビデンスうるさい皆さん。
皆さんは生まれてから何本くらい発達に関する論文を読んだんでしょうね?
論文を普段から読み込んであれこれ検討しているからこそうちにも論文つけろとか言うんでしょ? まさか読む習慣もない論文をいちゃもんで要求しているんじゃないですよね。
まさか論文の代わりに吉川徹大先生のツイッターで済ませてないでしょうね?
吉川徹大先生がよくリンクしている英文アブストラクトくらいには目を通したんでしょうね?
私は結構目を通して吉川に助動詞のニュアンスちゃんとくみ取れよ、ってアドバイスしてあげたけど。吉川は助動詞すっ飛ばして訳すから。ま、理系あるあるなんだけどね。
助動詞すっ飛ばすとトンデモにみえてしまうんだよ。
と吉川をディスるのは専守防衛です。最初にやられたからやり返しているだけの話です。
そしてそれに乗っかった人たち。
誰もまだ治っていない。
花風社クラスタは本を読み始めて数ヶ月で「治ったとしか言えないから治るという言葉を使う」と言っているのに彼らはまだ「治るってなに」「さすがに知的障害は治らないだろう」とか言ってる。
まだそんな段階だっていうだけで、彼らが「治る」を体験していないのがわかる。
でもそれが自分で選んだ道。だから彼らも満足でしょう。
お互い自分の信じる道を行けばいいのです。
私は「こういう方法があるよ」と機会を提供した。
彼らはそれを拒否しただけではなくひどい攻撃をしてきた。
それが答えなら、私は彼らが一生我が子の下の世話をする運命にあろうと、一生仕送りする必要があろうと、1ミリも同情しません。同情したら失礼でしょう。それが彼らが一人の大人として自分で判断して選んだ道なのだから。
私は彼らに1ミリも同情しないだけではなく、彼らにわかってもらおうとも思わない。
ただ後続世代は両方を見て判断すればいいとは思っている。
私は治る本を作り終えたら、マーケティングに大注力するんである。
そしてそのマーケティングに必要な本は出して行く。ギョーカイの悪口本。治った本。66歳になる頃には「うちの親がエビデンスエビデンス言ってたので出遅れちゃったじゃねえか馬鹿野郎」という成人になった猿烏賊親を弾劾する子ども本でも出しているかもしれない。
エビデンスを出したら信頼してやる、と迫られても、一人の人間の発達にエビデンスなんかいらないし、何より我が子に一日五分アプローチを行うことで「治る!」と喜んでくれる人たちを私は客筋としている。そして金のかからないことをやっているから公金に群がる必要もない。ギョーカイがエビデンスエビデンスいうのは公金に頼らないと商売にする自信がないからである。その点うちは純粋な民間でやっていけているんだからエビデンスはいらない。エビデンスが必要なのはあっち。そしてあっちは客ではない。なんで客でもない人のために証明してみせなきゃいけないんだろう。エビデンスと心中したい人は心中すればいいです。
私は私の提供できるものを提供している。それはリーズナブルな値段で明日手に入る。それをやってみるかやってみないかは完全に個人の自由。論文がついていないとやれないのならやらなくていいのです。
もっとも『発達障害、治るが勝ち!』にはそのあたりこう書いておきましたけどね。
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でもちょっと考えてみよう。
ギョーカイ人が自分のメソッドの公共事業化を狙い振り回す「エビデンス」という言葉。それに振り回されて選択肢を縮めている親たちのうちどれくらいが実際にエビデンスの出ている論文に目を通しているかと言うと、ほとんどいないだろう。「努力でカバーするには限界があるんです!」と叫ぶ当事者たち。そのほとんどが、限界までの努力などしたことはないだろう。見たことのないエビデンスを信じ、したことのない努力を無駄だと切り捨てる。ギョーカイのご都合とぴったり合った省エネモードで動く人たちがいるのである。私の目的は、それを弾劾することではない。この本の目的は、読者に主体的な選択を可能にすること。そのために「当事者保護者仲間にはそういう人がいるよ」と明示しているだけである。その中で、努力するかしないかは自分で決めればよい。
そして言っておきたい。十数年見守ってきた結論から言うと、努力は報われる。地道な努力は、いつか花咲く。「努力しなくていいんだよ」というのはいつまでも卵を産むめんどりにしておきたいギョーカイのセールストークと考えていた方がよい。ギョーカイにとっては、努力せず、だから挫折も味わわず、だから二次障害に苦しむことはないけどぼんやりと生きている「生ける屍」みたいな人が取り扱いやすいのである。だから努力は奨励しない。二次障害になるのなら死んでもいい、と説く。努力など実らないと説くギョーカイ人もいるかもしれない。そしてギョーカイの立場からは、努力を実らせた発達障害者は皆無に見えるだろう。なぜなら努力を実らせたとたん、ギョーカイは伝家の宝刀を持ち出して切り捨てるからである。ギョーカイの十八番「偽者扱い」である。
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エビデンスエビデンスうるさい皆さん。
皆さんは生まれてから何本くらい発達に関する論文を読んだんでしょうね?
論文を普段から読み込んであれこれ検討しているからこそうちにも論文つけろとか言うんでしょ? まさか読む習慣もない論文をいちゃもんで要求しているんじゃないですよね。
まさか論文の代わりに吉川徹大先生のツイッターで済ませてないでしょうね?
吉川徹大先生がよくリンクしている英文アブストラクトくらいには目を通したんでしょうね?
私は結構目を通して吉川に助動詞のニュアンスちゃんとくみ取れよ、ってアドバイスしてあげたけど。吉川は助動詞すっ飛ばして訳すから。ま、理系あるあるなんだけどね。
助動詞すっ飛ばすとトンデモにみえてしまうんだよ。
と吉川をディスるのは専守防衛です。最初にやられたからやり返しているだけの話です。
科学的なエビデンスが無いから試さない、薬は化学的に合成されたものだから使う人間にどんな影響が出るかわからないのに盲信する。
選択する自由はありますが、私なら一生子供の世話は毛頭する気もないのでエビデンスなんて待っていられませんが。
猿烏賊族には神経が通っていないのですかね。
次は、これから買って下さるかもしれない方です。ニーズを伺い、弊社の商品ご購入後の満足度をイメージいただけるようプレゼンテーションをします。当然、買って下さる方とそうでない方に分かれます。
専門性をベースにしたサービスを提供する身としては、対価を支払って下さったお客様の満足度を高めるために、専門性とプレゼンテーションのスキルアップに取り組み続けることとなります。それが次のお客様につながることにもなります。
まともな企業であれば、自社の商品、サービスが唯一の正解だと主張するようなことはありません。競合するのが当たり前ですし、どの商品にするかを決めるのはお客様の自由だからです。もちろん無理強いはしませんし、競合商品に決めた方を非難するようなことはありません。買わなかった方から非難や不当な要求を受ける筋合いもありません。
社会とはそういうところです。