カール大帝は何語をしゃべっていたか?
以前、『英語の現在完了は、なぜ、「have + 過去分詞」なのか?』という記事を書いたことがある。そのなかで、こう触れた。
カロリング朝ルネサンスというなら、その中心は、「カール大帝」である。で、「シャルルマーニュ」である。え? どっち?
さすがに、Charles the Greatはなしだが、Karl der Großeなのか、Charlemagneなのか?
当然、どっちも違って、ラテン語で、Carolus Magnusとしたいところだし、公式にはそれでいいのだろうが、さて、彼自身はどう捉えていたか?
というか、カール大帝は、何語を喋っていたのか?
ここで、歴史好きなら知っているだろうが、カール大帝の母は誰かわかっていない。母語、mother tongueは?
だが、おそらく、ここは、カール大帝の母の言葉ではなく、彼の教育係の言葉だろうし、それはラテン語だろうが、日常会話はどうだったかというと、俗ラテン語ではないだろうか?
ずっと気になっていたが、『ロマン語』(W.D.エルコック)を読んでいたら、ヒントが書いてあった。アインハルト『カルルスの生涯』に言及して、その引用から。
大帝は饒舌多弁で、言いたいことは何でも明快に表し得た。母語のみに満足せず、諸国語の習得に専念し、なかでもラテン語を懸命に学び、ラテン語と母語とを常に話すほどになった。
この母語とは何か? というと、同書の文脈から、ゲルマン語である。つまり、カール大帝の母語は、ゲルマン語だったのだろう。ついでに、ここでいうラテン語は、俗ラテン(ロマン語)かあるいは、きちんとした文法体型を持つラテン語か、というと、後者のようだが、同書では、こう言及がある。「トゥルー公会議」に言及して。
これは文語ロマン語の誕生の決定的な時期を記すものである。しかしこの証言を正確にはどう解釈すべきだろうか。ロマン語を一言語として認めた直接の結果として、ラテン語が復活したと普通には解釈されている。しかしこの問題をよく考えて見ると、何か別の観点を暗示してみたくなる。フランス語が文学的に優位に立った真の原因は、ラテン語の復興そのものにあるというよりむしろ、カルル大帝の帝国におけるロマン語とゲルマン語の二言語併用にあったように思われる。この帝国におけるラテン語の復興は、平行して起こったもう一つの成果だった。最初のゲルマン人、つまり、サリ・フランク支族は、唯一の文学語である中世ラテン語の継続的使用に直接の脅威を及ぼさないで消えた。メロヴィンガ王朝時代を通じて写字生は、ラテン語で書き続けていた。そのラテン語はゲルマン語法を含み、民衆的ロマン語法に益々近づいていた。
読み間違いがあるかもしれないが、帝国時代は俗ラテン語(ロマン語)は使われていたのだろう。カール大帝自身の母語はゲルマン語であるとし、彼のラテン語は学習された古典的なラテン語を範としても、実際には俗ラテン語に隣接していたのだろう。口語であればなおのことそうだろう。
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