再訪 中国の旅 平頂山、万人坑 本多勝一 週刊金曜日1995.8
再訪中国の旅1
P9盧溝橋
(略)中国を私が初めてたずねた二四年前(一九七一年)にはここに特別なものはなかったが、八年前(一九八七年)に「中国人民抗日戦争記念館」が完成した。(略)
P11-裏庭には別棟の展示場がいくつもあり、ハルビンでの当時「世界最大の人体実験場」だった七三一部隊をはじめ、細菌爆弾の実験、拷問のための刑具などが、写真や実物で示される。ペスト菌班・結核菌班・冷凍実験班・媒介昆虫培養班・ネズミ増殖貯蔵班をどの分担も、そのリーダーの実名とともに表示されている。人体実験・細菌実験などは七三一部隊だけでなく、藩陽の。満州医科大学」の例はすでに。中国の旅』で紹介したが、そのほか長春の「満州一〇〇部隊」とか北京の「北支甲一八五五部隊」、南京の二六四四部隊」、奉天(港陽)の「五一六毒ガス部隊」など何か所にもあったことが図表で明らかにされている。(略)
P12平頂山
今回ぜひ再訪したかったひとつに、撫順郊外の平頂山がある。一九三二年(昭和1)にここで起こされた無差別虐殺事件については『中国の旅』で報告したとおりだが、二四年前には現場がまだ発掘されていなかったので、道路ぎわの土を手で少し掘ると人骨がたくさん出てきた。のちに発掘されて記念館ができ、日本人旅行者で見てきた人も少なくないので、機会があれば再訪したいと思っていた。(略)
週刊金曜日1995.7.21 第83号
P38 再訪中国の旅2
平頂山
いまから六三年前(1932年)の平頂山虐殺事件について、生還者の一人、李偑珍さん(八六)が語った体験は次の通りである。
李さんの実家は平項山にあるので、夫の一家とともに実家に逃げこんだ。食事にしようとしたところへ、日本兵が現れた。外に出てみると、兵隊たちがいっぱいだ。住民を次々と退いたてている。李さんたちも、銃剣をかまえた日本兵らが両側に立つなかを、村の西側にある丘のふもとへと歩かされた。逃げようとして射殺される者もいた。
集められた群衆のうち、李さんがいたのほぼまんなかあたりだった。住民のなかに朝鮮系の民族もいたらしく、それを呼びだすような声を聞いた。機関銃の一斉射撃が開始されたのは、それからまもなくだった。わきおこる阿鼻叫喚のなか、李さんはひざまずくような姿勢ですわらされていた。機関銃弾が左肩に命中する。前の人の上に倒れる。動頴していて痛みもわからない。
P39 機関銃掃射が終ると、日本兵たちが銃剣をもって死体の山を調べにかかった。生存者を刺し殺して歩く。八歳になる姪が李さんを呼ぶ声。二、三人へだてているので姿がみえぬ。「たまってうつぶせになりなー・」と李さんが答え終わらぬうちに、姪は絶叫とともに刺殺された。その直後に李さんも刺された。うつぶせの姿勢で右脇腹をやられた。そのまま意識を失ってしまった。
何時間くらいすぎたがわからないが、気がついたときは深夜だった。霧雨ぎみの天気は晴れて丸い月が出ている。たぶん午前二時ころと思われた。肩と脇腹の重傷で血まみれの李さんは、天に助けを求めて祈ったが、かなえられる徴侯は何もなかった。
夜があげると、血だらけで身重の李さんは、なんとか立ちあがっ現場を脱出し、近くの村の農家に助けをもとめた。(略)このとき殺された李さん一家は次の三人である。父(李従文士=ハ二)・夫/(周徳忠=二七)・夫の弟(二三)・長兄(四一、二)・その妻(四〇?)・その長男(一七)・その妻一九)・その次男(一三?)・その長女(二カ月?)・次兄の長女(八)三兄の妻(二三)・その長男(五)・その次男(三)
兄は李さんを撫順の病院につれていったが、満室で入院できず、瀋陽まで行って手術を、うけた。しかし肩の銃弾はとりだせないまま現在にいたっている。
(略)血まみれの死体ばかりで見つからぬ。死体には赤ん坊や妊婦もあって、なんとも形容できない惨状だった。楊少年より小さな子どもが、這いずりまわって親をさがしている。(略)
(注)平項山以外の村の情況についてはあがらぬことが多い。たとえば曽おばさんの海も(朝日新聞社朝日ジャーナル臨時増刊号』・一九九二年)の読者・班忠義氏の父母も、隣りの千金堡にいて危うく難をのがれている。班氏はこの記録で、この無差別虐殺の指揮責任者とみられる井上清一中尉が、処罰どころか金鵄勲章をもらっていることに強い衝撃をうけている。また澤地久枝氏の『昭和史のおんな』(文芸春秋一九八〇年)は「井上中尉夫人『死の餞別』の章でこの井上中尉についてかなりくわしくふれている。その後『追跡・平頂山事件』(田辺敏雄・図書出版社・一九八八年)という本が出たが、これは当時の守備隊長K大尉の類(娘婿)にあたる筆者のせいか、侵略とか無差別虐殺などについて一切の反省のない立場から書き、虐殺者数を四〇〇〜八〇〇と過小評価している。これを批判する立場から書かれた本に『平頂山事件』(石上正夫・青木書店・一九九一年)がある。
さらに、右の班忠義氏の記録でも引用されている『リポート「撫順」一九三二」(撫順問題調査班=文責・小林実=都立書房一九八二年)もこの事件を追っている。
週刊金曜日1995.7.28 第84号より引用。
再訪中国の旅3
撫順
二四年前の『中国の旅』の取材旅行中、撫順市で初めて「万人坑」という言葉をきいた。以来東北地方ではよくきくことになる。要するにこれは、死体をたくさん捨てた所を意味し、数百人であれ何千人であれ、象徴的な数として「万人」とよばれるのであった。正式な墓に埋葬されるのではなく、適当な場所にゴミ捨て場のようにして人間の死体が遺棄されることだ。したがって炭鉱だの大規模工事現場だの、危険な重労働をともなうところの周辺に多い。そうした現場で働く労働者には、強制連行者や囚人として、あるいは遠方からの出かせぎとして来ている例がほとんどなので、死んでもいいかげんに扱われやすかった。
そのような〝ヒト捨て場〝としての万人坑が、撫順には大小三〇カ所もできたと、二四年前に革命委員会の孫徳驊氏は言った。あのときの話では、日本占領の四〇年間に二五万〜三〇万人の中国人労働者が使い殺されたとのことだから、もしその死体が三〇カ所の万人抗に捨てられたとすれば、平均はまさに一カ所一万人ちかいことになるだろう。けたはずれに古い歴史と、けたはずれの広さと、けたはずれの人口をもつ中国には、日本では想像もおよばぬことがあるとはいえ、三〇カ所の万人抗はいかにも多すぎるような、あくまで「感じ」としてそんな気がする。本当だろうか。
実際、撫順にいた日本人たちの団体「撫順会」は、こうした万人坑の存在に全く否定的である。それに「…また一部は家や工場建築の邪魔になるために除去されましたから、全部は残っておりません」とあのとき孫氏は語ったものの、「全部」といわず一カ所くらい実物があってもよさそうなものではないか。(略)
P41 ところが、撫順市社会科学研究院の趙立静氏によれば、やはり万人坑は大小三〇カ所以上、正確には三三カ所にあったという。小は三桁(何百人)から大は「万」にいたるまで確実にあったと。それに「万人坑」という言葉は戦後にできたので、戦前の日本人が聞かないのも当然だというのである。そして趙立静氏は万人坑の実態をつぎのように語った。万人坑に捨てられる労働者は、およそ三つの場合が多かった。
①炭坑で負傷したりして廃人同様になった者。
②伝染病などによる死亡者。
③大部屋のひどい生活環境と悪い食事のため、栄養失調などで衰弱しきった者
撫順には八つの炭鉱かあって、それぞれで毎日のように死者が出たので、それに応じた大型万人坑も八カ所はあり、それは断じて「墓」ではないという。墓は別にあると。そして各炭鉱には「死人把頭」とよばれる雇われ中国人がいて、これはいわば死人を捨てるための管理係りであった。(略)
P42 万人坑はヒト捨て場だから、そのための建築物や設備の類があるわけではもちろんない。ときにはまだ絶命していない廃人も捨てられたし、死体を食う犬もたくさんいた。、解放戦争(国共内戦)まではこのあたりに民家も何もなく、人骨が折りかさなっていた。その後この丘の上に工場や住居ができるようになり、平らに整地されったが、その作業のときも人骨がたくさん出てきた。(略)
週刊金曜日1995.8.4 第85号より引用。
再訪中国の旅4
P40 『中国の旅』で紹介した写真は虎石溝万人坑である。ぺつに”観光ルート”として開放されているわけではない。それに中国にはよくあることだが、政府の政策によっても開放したり閉めたりする。たとえば「日中友好」を強調するときには、こうした日本による侵略を訴える記念物をあまり開放しなくなる。現在も日本人旅行者に自由に見せてはいない。
虎石溝万人抗は、二四年前と基本的には変らなかった。基本的には」と表現したのは、骸骨の累々たる光景そのものや、それぞれの位置などはむろんそのままだからである。しかし、これは仕方のないことなのであろうが、人骨の風化が明らかに進んでいる。平項山のように何らかの措置をしなければ、いずれは消滅の運命にある。条件にもよるが、土中にあるほうが風化がおそいのが普通だ。したがって二四年前よりも「生々しさ」が消え、それだけ〞霊気〞のようなものが少なくなって、変な言いかただが「迫力」も減少しているかにみえる。洪水の被害にあったというのもわざわいしている。ともかく個別によく観察してみよう。針金でしばられた遺体とか、二人がつながれていたらしい例、ひとつの箱(棺?)に複数の遺体が入れられている例など、墓地と強弁するにはあまりにも無理がある。また、骸骨が何重もの層をなしている部分をよくみると、これは意外に短期間の「層」らしい。石器とか化石が出土した場合には、出土層とそれより上の層の問に相当期間の差が認められるものだが、ここではそうした違いがほとんどないようだ。ということは、骸骨が埋まっている層が厚くても、それを埋めている土は人工的な力にょるか、自然としても洪水などによる比較的新しい堆積かもしれなともあれ再検証の結果は、これが墓地だなどということは到底できないと考える。(略)
ーーー(引用終わり、全文はこちら。再訪2、再訪3、再訪4<ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。)
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