創作物が出来上がる過程は倫理的である方が望ましい。
映画や漫画、そしてその他全ての文化的な創作するときに、制作者は世間の最大公約数的な倫理を知ることが必要である。
例えばドキュメンタリー番組を撮る際に、作為的に個人をこっぴどく叩き、有る事無い事を面白おかしく描き、名誉を棄損する為に生まれた創作物はたとえどれだけ面白いものであっても、その存在自体が否定されても仕方がない。
これは二次創作でも同じことが言える。
しかし、完成した創作物が最大公約数的に倫理的である必要は無い。と私は考える。
それは『表現の自由』が日本で認められているからだ。
表現の自由とは、自己の精神の動きつまりは考えを外部に表明することを自由に行えるということである。もちろん、自由な表現を受け取る側が、それに対する感想を外部に表明することは自由である。
ただ、ここで勘違いをしてはいけない。
受け取る側が持つ権利は、創作物に触れるか触れないかを決める権利と、表現に対する感想を持ちそれを外部に表明することだけだ。
創作物を制限したり、さらには抹消する決定を下す権利などは誰も持ってはいない。(もちろんその表現が法に触れる場合はその限りでは無い)
漫画を読み、映画やアニメを見て、そして音楽を聴いて何かを受け取る。
反倫理的な作品に抱く感情は否定的だったり、あるいは好意的あっても自由だが、好きになる事や嫌いになる事を強いる自由は誰にも存在しない。
作品を慕い続編を心待ちにしたり二次創作に励んだりすることは勿論、作品を嫌い憎悪を表現することもまた自由である。
だが、それは作品に対する感想として内側であくまでも個人的に終えるべきことであって、作品の外側に飛び出して作者や読者・ファンの人格を否定するような事をしてはならない。
もし、反倫理的な作品が私たちが住む社会に何か悪影響をもたらすのだとしても、作品を抹消するのではなく、悪影響とならない社会作りを目指すべきである。
(資本主義が発達している現在では、倫理教育が進めば自然に反倫理的な作品は好まれなくなり市場から消えていく。つまり求めていくべきは、子供だけでは無く大人を含めた社会全体での倫理教育の発展だと思う)
感想をSNSを通じて大多数の誰かに向けて発表するのは間違いでは無い。むしろ、表現の自由において大事なことだ。真理は沢山の意見の中から生まれる。たとえ間違えた意見だとしても、一部真理を含んでいるかもしれない。
それは発言して誰かが受け取らなければ気づけなかった事だ。
「表現の自由」さについて、現在の日本はとても恵まれている。
誰もが自由に発言する事ができる。だからこそまずは、落ち着いて思考して自分の意見を纏めるべきだ。
皆で最大公約数的な倫理の終着点を探そう。全て燃やしてしまっては貴方の好きな何かさえ灰になってしまうのだから。