大本 柏分苑

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日本とヨーロッパ 皇室/王室観の違い
 即位60周年を迎えた英国・エリザベス女王。その祝賀行事をBBCが中継していた時、国会議事堂前で議員らが「君主制反対」の横断幕を掲げていた。日本との余りの違いを痛感した瞬間である。日本で同様のことをしたら、たちまち右翼やネット右翼が攻撃するだろう。命を狙われる可能性も少なくない。
 「天皇の戦争責任はあると思う」と発言した本島等・長崎市長が右翼団体幹部に銃撃され、重傷を負った198812月の事件は、翌月からアメリカの大学院で新聞ジャーナリズムを学ぶことになっていた私には大きな衝撃だった。「しかし、日本人の大多数と連合国軍の意志によって責任を免れ、新しい憲法の象徴になった。私どももそれに従わなければならないと解釈している。」と続くのだが、マスコミ各社が「天皇の戦争責任はあると思います」という部分だけを強調する形で報道した責任は重い。しかし、全て報道したとしても、天皇の戦争責任に言及しただけで、犯人には十分な狙撃理由になったのだろう。
 王室を堂々と批判できる点では、他のヨーロッパ諸国でも同じである。数年前、ノルウェー人の友達と話していた時、「ノルウェーでは多くの人が君主制に反対している」と言っていた。実際は君主制支持の国民のほうが多いようだが、皇太子の結婚時に見られたように、時には王室一家が厳しい世論にさらされることもある。
 日本と英国、ノルウェーの違いを持ち出したのは、公の場での天皇・天皇制批判はタブーというこの国は真の民主主義国ではないことをはっきりさせたかったからである。例えば外で私が天皇制を話題にするのは、アメリカ人の友達を交えて英語で話す時に限られる。あるいは隣の席が離れていて、こちらの会話を聞かれない時にしか批判的なことは言えない。因縁を付けられるかも知れないという恐怖で自主規制してしまうのである。

「君が代」問題
 日の丸掲揚や君が代斉唱に反対する人たちを異端視・白眼視・迫害する日本人が少なくないことも、私にはストレスになっている。阪神タイガースファンの友達が阪神甲子園球場で君が代斉唱時に座っていたら、隣の親子連れにじろじろ見られたと聞いて、昨年、黒人への暴力に抗議してアメリカンフットボール選手達が国歌斉唱時に起立しなかった米国との違いを改めて感じた。トランプ大統領が「クビか出場停止にすべきだ」言ったことに対し、上位チームで構成されるNFLのロジャー・グデル・コミッショナーは「このような分断をあおるコメントは、敬意を不適切に欠いている」と批判した。 

 広島で被爆した栗原貞子が「犯罪の旗」と表現した日章旗(「旗」、1975年)、そして天皇を称える「君が代」。特に、戦後も君が代の歌詞を変えずに解釈を変えるという、安倍内閣による9条の解釈改憲のようなことがまかり通っているのは納得できない。
 天皇は「大君」であって「君」ではない、などという人もいるが、辻田真佐憲著「あなたの知らない『君が代』」(幻冬舎plus 2015年)には、戦後も「君」は「象徴天皇」を指し、「愛しいあなた」ではない、とはっきり書いてある。その根拠として、1950年に天野貞祐文部大臣が、1987年には西崎清久同省初等中等教育局長が、それぞれ「君」は「象徴天皇」にあたると説明したこと、また「国旗国歌法」が成立した1999年には、当時の小渕恵三内閣によって「君」は「象徴天皇」と解釈するのが適当であるという見解が示されたことを挙げている。

 1999年当時のことをもっと詳しく見てみると、まず、611日の国旗・国歌法案の閣議決定で「君が代」の「君」とは「日本国及び日本国民統合の象徴である天皇を意味する」との統一見解が示された。そして7月21日、衆議院内閣委員会において、小渕総理大臣は次のように答弁した。「古歌君が代が明治時代に国歌として扱われるようになってからは大日本帝国憲法の精神を踏まえ、君が代の『君』は、日本を統治する天皇の意味で用いられました 」。更に「終戦後、日本国憲法が制定され、天皇の地位も戦前とは変わったことから、日本国憲法下においては、国歌『君が代』の『君』は日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており...」と続けた。 

 つまり天皇は「主権者」から「象徴」に変化したものの「君」が天皇を指すという解釈は戦後も揺るがなかったのであり、「君が代」が天皇を称える歌に変わりはないのである。そのことに違和感を覚えるからこそ抗議の声をあげる人たちへの直接・間接的暴力、そして公立校教員への懲戒処分が止まらない。こんな現状を許している国が果たして真の民主主義国家だろうか。
 天皇が、この状況に責任があるわけではない。2004年秋の園遊会で、米長邦雄・東京都教育委員の「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」という発言に対し「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と応じたのは、「自主的にやってほしい」という意味だろう。もっと踏み込んで「反対する人に強制するのは望ましくない」と言ってほしかったけれど、政治的発言と見なされるから無理、と言われれば仕方ない。 

被爆者と昭和天皇
 今上天皇には戦争責任は問えない。しかし、昭和天皇にも戦争責任がなかったという日本人が結構多いのには驚く。例えば、関西のある都市の被爆者の会会長に一昨年、原爆投下に至るまでの昭和天皇の(戦争)責任の有無を尋ねたら「責任はないと思います。何もご存知なかったのですから」との答えだった。この会長が例外でないことを20158月に訪れた広島でも思い知らされた。平和学習集会の参加者から「被爆者の間で天皇の責任を問う声はこれまでほとんどあがってこなかった」と聞き、失望した。広島と言えば、天皇制批判や日本の加害を詠んだ前述の栗原貞子さんのイメージが強かったから...

 被爆者は昭和天皇の戦争責任に触れず、多くの日本人は「被害」の視点でしか原爆を語らない現実に閉塞感を感じていた私は、昨年、カナダ在住のサーロー節子さんが、原爆を被害と加害の両面から語るのを見て、一筋の光が差し込んだ気がした。13歳の時に広島で被爆し、ノーベル平和賞受賞のICAN 核兵器廃絶国際キャンペーンに関わってきた反核活動家である。

 NHKBS「核なき世界へ ことばを探す」で、アジア系の女子高校生に「日本は多くの罪のないアジア人を殺した。あなたの受けた被害とどちらがより深刻か」と問われたのに対し「殺されるということに違いはない、それが中国人、日本人、朝鮮半島の人のいずれであっても。ヒロシマ、ナガサキについて語る時にとても大切なのは、日本は被害国であり、加害国でもあったということを心に留めておくこと」と答えたのである。

 
 こういう被爆者がもっと存在感を増せば、日本が侵略したアジアの国々の人々も、核兵器は絶対悪という考え方にいっそう共感してくれるのではないか。原爆投下を招いたそもそもの責任は日本にあり、ヒロシマとナガサキがなかったら自国の犠牲はもっと増えていたと考えるアジアの人々には是非、上記のサーローさんの言葉を紹介したいと思う。

 戦争責任についての昭和天皇の自覚
 昭和天皇自身が戦争責任や原爆投下について語った1975年の記者会見は今でも忘れられない。日本記者クラブによる、初の公式記者会見だった。

 (ザ・タイムズ記者・中村康二)陛下は、ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、お考えをお伺いいたします
 [天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。
 (中国放送記者・秋信利彦)戦争終結に当たって、広島に原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受けとめになりましたのでしょうか、お伺いいたしたいと思います。
 [天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。19751031日、皇居)
 これを聞いた茨木のり子は「四海波静」(「ユリイカ」197511月号)で次のように批判する。
思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように 
噴きあげては 止り また噴きあげる
三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果たさねば あばばばばとも言えないとしたら

 この詩は、昭和天皇の「四方の海 みな同胞(はらから)と思う世になど波風(あだ波)の立ちさわぐらむ」を連想させる。(もとは1904年の明治天皇の歌で、194196日の御前会議で昭和天皇が引用。その際、「波風」を故意に「あだ波」と変えて詠んだという説もある)。

 まるで他人事のように戦争責任を語る天皇へのほとばしる憤りが結実したのが、この詩だと思う。記者会見から1カ月もたたないうちに発表されたのだから。茨木のり子は、天皇だけでなく、その発言を批判しない記者たちにも容赦がない。今なら、こんな詩を発表すること自体、作者も出版社も命がけと言っていいだろう。この頃はまだ、公に天皇を批判できたのだと思うと暗澹たる気持ちになる。

 戦争指導者としての昭和天皇
 
昭和天皇には戦争責任はなかったという、一般市民への「刷り込み」は戦後まもなく始まった。日本国憲法の解説のために、194782日に文部省が発行した中学1年生用社会科教科書「あたらしい憲法のはなし」には、こうある。

 こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とう/\戰爭になったからです。そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。
 しかし、昭和天皇が「何も知らなかった、知らされていなかった」というのは事実に反する。例えば1931年9月の中国東北部への侵略「満州事変」を、出先の関東軍が引き起こした際、特別の「勅語」で、侵略を「自衛」の行動として正当化したうえで、「急速に相手の大軍を破って勝利したのは大変立派だ。今後さらにがんばって、朕の信頼に応えよ」とほめたたえた。この事実からも、天皇と軍部が全権を掌握し、侵略戦争を開始・拡大していった事実が浮かび上がる。
 山田朗著「昭和天皇の戦争」(岩波書店、2017年)によれば、「昭和天皇実録」(宮内庁、2015年)は、戦争指導者としての天皇像を極力排除するため重要な部分を省略してあり、防衛省戦史研究センターに所蔵されている旧軍の一次史料に記された天皇の発言と、同じ典拠で書かれた「実録」の記述とでは、まるで違う印象を受ける例がいくつもあるという。
 例えば東部ニューギニアをめぐって日米両軍が激戦を繰り広げていた1943年8月5日、参謀総長杉山元が戦況を奏上した時、「米軍をぴしゃりと叩くことはできぬか」、「どこで決戦をやるのか」と天皇が迫った(真田穣一郎日記「杉山メモ」)とあるのに対して、「実録」には「杉山に謁を賜(たま)い、奏上を受けられる」といった記述しかない。
 それだけではない。「実録」は、天皇出席のもとに行われた1943年5月31日の御前会議決定で、占領したマライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスを「帝国領土と決定」し「重要資源の供給地」としたことには一切触れていない。この決定は外務省編「日本外交年表拉主要文書下巻」(原書房、1965年)ですでに明らかにされているにもかかわらず...
 いよいよ戦局が悪化した1945年の214日、近衛文麿首相が「戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信する」と天皇に言上したところ「もう一度、戦果を挙げてからでないと、なかなか話は難しいと思う」と答えたという話は「一撃講和」として有名である。
 上記「実録」は「難しい」のは陸軍の人事刷新であって停戦受け入れではなかったと読ませたいようだ。しかし、昭和天皇が戦前、戦中の出来事に関して1946年に側近に対して語った談話をまとめた記録「昭和天皇独白録」1990年に『文藝春秋』誌上に公表)には「近衛は極端な悲観論で、戦を直ぐ止めた方が良いと云ふ意見を述べた。私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当でないと答へた」とある。つまり「難しい」の主語が何であろうと、天皇が近衛による提案・即時停戦を拒否したことに変わりはない。
 資料の選択が恣意的な「昭和天皇実録」においてさえも、天皇が臨席して軍事作戦などを決める大本営会議が少なくとも19回行われたことや、同会議に準じる研究会(天皇に対する報告会)が21回開かれていたことが記されている。この事実を前にして、天皇が軍事戦略決定を知らなかったという言い逃れはできない。もっとも、軍部から戦果を誇大に、損害を矮小化して伝えられていたのは事実だが。
 以上のことから、1931年の満州事変から中国各地への侵略拡大、それに続く太平洋戦争、敗戦という全過程の現場にすべて立ち会い、決定に参加してきた人物は昭和天皇以外にいない。天皇以外の首相、陸海軍の責任者など、どの指導的役職をとっても、いろんな人が務めてきたのである。
 これに対し、閣僚は戦況について蚊帳の外に置かれていた。真珠湾攻撃時の首相は東條英機だったが、連合艦隊がハワイにひそかに出発した段階でも伝えられず、閣僚たちが知るのは攻撃が終わってからだった。東條が「ミッドウェー海戦の敗北を知らなかった」と井野碩哉(東條内閣の農林大臣)に、戦犯として共に収容されていた時に語ったという話が事実なら、東條英機は戦争遂行の「飾り」にしか過ぎなかったわけで、旧日本軍の最高指揮官・大元帥だった天皇の戦争責任が改めて問われることになる。

日本人の戦争責任の取り方
 この国の戦争責任の取り方が、米国主導の極東国際軍事裁判(東京裁判)による28名の「A級戦犯」の処刑、そして連合国7カ国が独自の法令に則り各地で行った軍事裁判(B,C級戦犯)で幕引きとなったのは、ドイツが官僚の責任を徹底的に追及しているのと対照的である。ゲシュタポとSS(ヒトラー親衛隊)については時効がないために、例えば2012年に、90歳前後のアウシュビッツ収容所の元看守3人が逮捕された。これに対し、日本では連合国によるいずれの裁判でも警察と官僚機構の戦争責任は一切問わなかったどころか、戦後も引き続き政界・教育界や警察機構での「活躍」を許したのである。

 満州国国務院実業部総務司長、総務庁次長などの官僚職や、東條英機内閣での商工大臣などを経験した岸信介は、A級戦犯被疑者として巣鴨刑務所に拘置されたものの不起訴となり、公職追放後に政界に復帰し、1957年に首相の座に就く。戦後、吉田内閣で文部大臣に就任した大達茂雄は、旧内務省の出身で、日本が占領したシンガポールの市長や内務大臣などを務め小磯内閣では閣僚だった。岸同様A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に囚われたが、不起訴となった。敗戦時に内務大臣で、岸信介に近かった安倍源基は、A級戦犯容疑で一旦は逮捕されたものの、東條英機が絞首刑死した翌日、不起訴・釈放になった。初代の警視庁特高部長で、就任翌年(1933年)には、特高警察によって19人が拷問死しているにもかかわらず...。戦後は1954、乱闘国会で成立した新警察法による警察行政の中央集権的一元化実現に力を注ぎ、旧内務官僚出身者を中心とする自民党右派で構成された同党の政務調査会治安対策特別委員会で活躍したのである。1958年には木村篤太郎らと新右翼団体「新日本協議会」を結成、代表理事を務めた。
 東京裁判やBC級戦犯裁判には、このほか天皇や財閥の不起訴を初め、731部隊による生体実験や細菌戦などの戦争犯罪が免責され、朝鮮人の強制連行など植民地での犯罪行為が不問に付されたなどの欠陥もある。日本共産党は、天皇の戦争責任を追及する動きを見せたものの 結局、国民の間には広がらなかった。徳田球一など幹部は、進駐軍を「解放軍」と錯覚し、日本を反共の砦と位置付けた米国によって公職追放されてしまったのだから。
 BC級戦犯裁判終結間もなく48カ国と日本の間で調印されたサンフランシスコ講和条約(1951年)で、連合国は日本に対する賠償を放棄し、経済協力による「賠償」が進められたが、中国や韓国・朝鮮、台湾は講和会議に参加を認められなかった。その結果、日本人のあいだに「アメリカ相手に無謀な戦争をした」という認識は定着しても、中国との戦争で負けたことや朝鮮・台湾の植民地支配などについての認識は乏しいまま、戦後70年以上過ぎた。自分たちの手で戦争責任者を裁くこともなかった。
 昨年11月出版された井上寿一著「戦争調査会 幻の政府文書を読み解く」(講談社現代新書)では、これまであまり語られなかった事実が明らかになっている。この調査会は、日本が敗戦に至った理由を調査するために194511月、幣原喜重郎内閣が立ち上げ、40回以上会議を開いたものの、1年弱でGHQによって廃止された。同首相は「大東亜戦争の原因及実相を明らかにすることは、之に関し犯したるが為に必要なりと考えられるが故に、内閣に右戦争の原因及実相調査に従事すべき部局を設置し、政治、軍事、経済、思想、文化等凡ゆる部門に亘り、徹底的に着手せんとす。」と、もとの内閣調査局案よりいっそう踏み込んだほど意欲を見せていたにもかかわらず、次の吉田茂内閣は、GHQの廃止要請に大した抵抗もなく従った。
 この調査会が中途半端に終わったのは実に惜しいと思う。極東軍事裁判の判決との乖離や、元軍人や戦争遂行に協力した技術者らの人選などについてGHQが懸念を示した時に、もっと踏ん張ってほしかったとか、調査会が十分機能したなら今のように歴史修正主義がはびこる日本社会にはならなかったかも知れない、などいろんな思いが湧いてくる。

伊丹万作の発言
 
締めくくりにふさわしいのは、一般市民の戦争責任について見事な考察を見せた、映画監督の伊丹万作の「戦争責任者の問題」だと思う。敗戦から1年後、「映画春秋」創刊号に発表されたもので、肺結核で亡くなる直前だった。

 「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 (中略)
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 (中略)
そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

 つまり、伊丹万作は、全ての国民にあの戦争への責任がある、と言っているのである。抵抗を貫いた一部の人たちを除けば「一億総懺悔」するべきということだろう。
 ただ、誤解のないように、私の考える「総懺悔」の意味は、この言葉を発したと言われる東久邇宮稔彦王首相のそれとはまるで違う。敗戦直後の同内閣は国民に対し「承詔必謹」と「国体護持」を説き,天皇制支配の維持に努めるとともに,一億総懺悔を主張し、天皇への敗戦の謝罪を唱えたのに対し、伊丹万作は、国民一人一人が戦争に加担した責任と向き合い、反省すべきだと言っているのだと思う。
 日本人は、A級戦犯とBC級戦犯が裁かれたことであたかもアジア民衆への加害責任を取ったような錯覚に陥り、戦後の学校教育も原爆や大空襲や沖縄戦などもっぱら「被害」に焦点を当てて戦争の悲惨さを教えてきた。ベトナム反戦運動(1960年代後半~1970年代前半)によって、やっと東南アジアでの日本の加害にも関心が向けられるようになった。例えば日本がベトナムに大量の米を供出させた結果、戦争末期に大量の餓死者が出たり、ジャワ(インドネシア)のスマランで、連合国民であるオランダ人女性を日本軍による抑留所から「慰安所」へ連行して強姦した事実などが一般の人たちにも知られるようになった。
 しかし、学校ではまず、こういったことは教えないから、今でも日本の戦争責任について知識が乏しいまま社会に出る。そして、太平洋戦争中の東南アジアでの加害だけでなく、朝鮮半島の三一独立運動弾圧(1919年)や中国での平頂山事件(1932年)、南京虐殺(1937年)、重慶爆撃(1938年~1943年)など植民地化したり侵略した国々での殺戮、蛮行も、ほとんど知らないか、知っていてもネット上の偽情報を信じている場合が少なくない。
 私には、米国とフランスの大学で教えている、それぞれアメリカ人とチュニジア人の友達がいる。彼らが言うには、日本人学生は、アジア太平洋戦争や日本の朝鮮半島支配が話題になった時に、中国や韓国からの学生とは対照的に、ほとんど知識がないために議論に入っていけないそうである。「日本人は自国の近現代史について、もっと学ぶべきではないか」と二人とも言う。どちらも日本びいきで、前者は数年日本に住んだ経験があり、後者も2回訪日したことがある。そういう親日派・知日派からの真摯な忠告には耳を傾けるべきだと思う。
 日本は侵略戦争などしなかったとか、欧米と戦うことでアジア各国の独立を助けたなどと信じている人たちは、一度、現地を訪れ、歴史資料館・博物館に足を運んだらどうか。そこでは、日本による侵略の歴史を学ぶことができる。親日的と言われる国でもそうだ。現地の人々は、日本が彼らの土地で何をしたかを、学校やこういう施設で学ぶ。中国の南京大虐殺記念館や抗日戦争記念館などに難癖をつける人は、これら東南アジア各国の施設の展示も「偽物」と決めつけるのだろうか。
 伊丹万作は上記「戦争責任者の問題」で、日本人の国民性を痛烈に批判している。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。

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☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*

明日から新元号に
又長い間niceもお世話様でした(o*。_。)oペコッ
お疲れさまです
気温13/7度 良いお天気ですが時々突風が
寒く無い所はお花見でしょうか
我が家の桜らもチラホラ咲いて来ました

何時も応援(人''▽`)ありがとう☆御座います

2019/3/31(日) 午前 10:46 げん

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明日はまだ平成ですよ。
新元号は5月1日からでしょ。
西暦ならば、めんどくさいことないのに。。。
役所が悪い。元号なんか使わないで欲しい。
税金の無駄遣いでしょ。
戦後、GHQは元号を認めなかった。そして天皇家の財産を没収した。武道館とか科学技術館あたりはその土地です。現在天皇家は資産がなく、実費で運営してます。
税金の無駄遣いだと思いますね。。

2019/3/31(日) 午後 7:52 [ 大本柏分苑 ]

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『昭和天皇独白録』は贋作です。寺崎英成日記と独白録の、手書き写真が並んで乗っている本があります。1991年文春刊です。図書館で見てみてはいかがでしょう。明らかに別人です。
高須クリニック院長が2017年末に競り落とした現物画像を、ネットで検索して、比べてみるのもいいと思います。

2019/7/5(金) 午後 5:00 [ 三色すみれ ]


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