こんにちは、警察学校を3日で脱走した男です。
僕は警察学校を辞めた後、プログラマー(3ヶ月で引退)や外資系生保営業(研修で引退)などの紆余曲折を経て地元の広告代理店で営業として採用され11ヶ月働きました。
地方の広告代理店ですがやることは東京の代理店と同じような感じです。テレビやラジオのCMを作ったりイベントの運営それに伴う広告物の制作。テレビ局の子会社の代理店だったのでCMやテレビ局のイベントは多めでした。
そもそもなんで広告代理店を受けたのかということですが、僕は大学生の時は映画のプロモーションをしたいと思っていたので広告代理店を受けていました。それこそ電通や博報堂といった大手も受けてました。そして全く箸も棒にも引っかかりませんでした。就活で東京に行ってるときにマルチの勧誘には引っかりましたけれど。わらにもすがりたい若者を狙うなんて非道、社長に就活の極意を聞けるということでセミナーに連れ回されてしまった僕はマルチの商品を売るには至らなかったけれど、余計な油は売ってしまい広告代理店からの内定はもらえず広告代理店への就職は断念しました。
それからは警察学校に入って3日で脱走したり様々なことがあり色々人生をもがいたけれど、結局実家に帰って地元で就職するしかない状況になりハロワでたまたま出ていた広告代理店の求人に応募して採用され働くことになったという式次第です。
一応4月からの採用ということで新卒と同じような扱いで採用されたので、期待と不安が入り混じった入学式モードで入社日を迎えました。
今回はそんな入学式モードで社会への復帰を果たした僕がたった11ヶ月で広告代理店をクビになり心が粉砕骨折するに至った過程を書いていきます。印象的な出来事を思い出しながら時系列に沿って書いていきます。11ヶ月でしたがかなり濃かったのでたくさん書きたいことがあるのですが、今回はクビに至るまでの過程を書いて、それ以外の上司からのパワハラのことなどはまた別な記事で書ければいいかなと思います。
入社初日。その会社では毎朝朝礼がありその日の予定を一人ずつ話していきます。初めての朝礼で僕の一挙手一投足に注目が集まる場面、緊張しながら自分の紹介を待っていたその時。
「なんだよそのシャツは!」
部長からいきなり怒鳴りつけられた。僕は最初なんのことか分からなかった。
「明日からそのデニムシャツ着てくるなよ!」
ああ、そこでようやく合点がいった。デニムシャツは駄目だったようだ。入社前にスーツのお店に行った時職種を聞かれ広告代理店と答えると、店員がそのデニムシャツを持って来てごり押ししてきたのだ。僕はよく分からないままそのシャツを買って着ていったけれどデニムシャツは駄目だったらしい。騙された。マルチにすら騙される僕は騙されるということにかけては超一流。前田敦子のマネージャーなる人に釣られてサイトに登録させられたこともあるほどだ。
野球選手もデニムパンツを履いたら打席には立てないのだろうか、僕は打席に立つ前に違反を指摘されて発言権という名のバットを奪われた。
第一印象が全てという恐ろしい言葉がある。およそ考えうる最悪のスタートを切った僕はそれからずっとボンクラのレッテルを貼られたまま過ごすことになる。そして、そのボンクラのレッテルは本当にボンクラである僕の上に貼られているのだ。まだレッテルが貼られていると思う方が僕のボンクラそのものが剥き出しになっているよりはましだったと言えるだろうか。
入社後は簡単な広告についての研修を受けた後、先輩について営業車の運転をしたり雑務を手伝ったりして徐々に担当を持たせてもらう流れになる。
初日に痛ましい出来事はあったけれどまだまだ意欲は十分にあった僕は入社3日目にキツネ顔の韓国人女に車庫入れを頼まれた。会社は2階にあり1階が駐車場になっている。かなり狭いスペースに7台(内1台はデリヘル会社の車)が止まっているため駐車するのはかなり技術がいるのだけれど、案の定君で僕は車を別な車にぶつけてしまい、さらにテンパって前進してまたバックしてぶつけるというのを3往復して車に大ダメージを負わせてしまった。メンタルが崩壊してしまって呆然とする僕。完全に自分の過失なのにキツネにつままれたような表情をして運転席で動けずにいた僕をキツネ顔韓国女がつまみだして道路に放り投げた。その後は顛末書を書いて、最初ということもあり軽く怒られたくらいで許された。何はともあれこの出来事で僕の心はポッキリと折れてしまったけれどまだ粉々にはなっていなかった。
入社3日ですでに大ミス2つ犯した僕はその後も怒濤の勢いでミスを犯していく。それに伴い上司からのパワハラが日に日に強烈になっていった。
広告代理店というのは上司からのパワハラがきつい会社の少なくとも地方では最たるもので、僕のいた代理店も他聞に漏れずパワハラ上司が何人かいた。殴る蹴る、暴言、無視、飲み会での芸の強制など挙げたらきりがない。パワハラに対抗する術は新入社員にはない。何故なら新入社員は仕事を教えてもらう立場だからだ。
仕事が何もない状態は本当に辛い、そうならないために上司に逆らわず、それにつけこむ上司からパワハラを受けるという運命なのである。上司からのパワハラに対抗するならば有能な社員になって会社にとっての存在意義を高める必要があるけれど、もう一つパワハラに対抗する術がある。それは無能だ。僕は圧倒的に無能、つまり仕事ができない。上司がパワハラをすれば僕は無能を発揮して応戦(わざとではない)。そのせめぎあいの中で会社が白旗を上げたときが僕の勝利だ。
何を言ってるんだと思うかもしれないけれど、パワハラが強烈な会社に入った時点で僕には正統的な勝利なんてない。だからといってできるだけ波風立てないようにやろうとしてもつまらない結果に終わってしまうのだ。この中でもがいてもがいて会社に降参だと言わせた時が僕の勝利。以上のことは全て僕が退職してしばらく経ってから11ヶ月間を振り返ってから肯定的に捉え直した戯言です。実際の所は、当時はパワハラに喘いでメンタルがやられ脳が正常に機能せず更に次のミスを生むというシステムがうまく回ってしまっていました。
そんなこんなで(どんなどんなだ)僕はその後もおびただしい数の痛恨のミスをやらかしていった。いくつか例を挙げると
・佐川の発送票をガムテープで貼る
・テレビ局との飲み会で泥酔
・社長に誤って「オッケー👌」というメールを送る
など
こんな感じでやらかしまくっていたので担当を持たせてもらえず、1ヶ月ほどで完全に社内ニートと化してしまった。先輩に同行することもあるけれど社内ではほとんどやることがなく、パソコンの前で頭を抱えていた。
社内ニート最高じゃないかと思う人もいるかもしれない。しかし、社内ニートほど辛いものはないと僕は思う。やることがなくても常に役員や部長からの視線は僕の左側頭部に突き刺さっているのである。そしてその視線は脳内に達するとプレッシャーとなって脳に揺さぶりをかけてくる。その状態で何時間もいたら気が狂いそうになってくるので何か仕事を見つけなければならないけれど見つけてもすぐ終わってしまうのでまた何もやることがなくなる。無から有を生み出すことはできない。エクセルに無意味な文字列を打ち込んでいると部長から「今何してた?」と聞かれて返事に窮してしまうこともあった。
9ヶ月ほど経って社内ニートとしての立場も板に張り付けにされてきた年末。この年末は僕にとってあまりにも怒涛の年末であった。この時の極度のストレスで僕の脳細胞の8割ほどは活動を辞めてしまったのだと思う。
まずは、忘年会と称した社員旅行があった。他の飲み会でもそうだったけれど、広告代理店は盛り上げてなんぼという風潮があり、飲み会の度企画を練らされたり、出し物をさせられたりしていた。パーフェクトヒューマンを僕のやらかした出来事で替え歌にしたイケメン先輩がいてそれを歌って踊らされたりもした。
そしてその社員旅行でも僕はボロ雑巾になるまで盛り上げ役をやらされた。宴会では即興漫才や即興クイズ大会をやらされてスベったらげんこつ、カラオケでは狂ったように踊らされ、部屋に戻ったら賭け事。負けが2万になった所で頭に割れそうなくらいの激痛が走り発狂して自室に逃げ帰った。翌々日、自室に逃げ帰ったことを役員に30分に渡って説教された。
そして年賀状事件。社員に年賀状を送る必要があったのだけれど、その年賀状をイケメン先輩が一緒に会社でプリントしようと言ってきた。僕は断った。というのも役員から会社のプリンターは使うなと言われていたからだ。しかし、いいから会社に来いと言われて渋々出社するとそこには驚くべき光景が広がっていた。ホワイトボード一杯に僕がやらかした出来事が箇条書きにされていたのだ。
僕は切れ長の目を一所懸命にまんまるにして目を丸くしてその光景を眺めていた。そしてそれを書いたイケメン先輩はそれを背景にして年賀状の写真に使おうという恐ろしい提案をしてきたのだ。僕は即座に断った。こんなハイリスクノーリターンなことをする訳にはいかない。何より会社のプリンターは使ってはいけないと言われている。しかし、イケメン先輩は飲み会でパーフェクトヒューマンの僕のやらかしエピソード替え歌が好評だったから絶対に大丈夫だと言ってきた。僕も広告代理店の端くれ、いや端切れくらいの存在ではあったからこの業界は面白さが何より大切なことは分かっていた。ミスをしてもユーモアがあれば笑いに変えられる、そんな話を直近で制作会社の社長さんにされていたこともあったし僕の生き残る道はそこかなと薄っすら感じていたこともあって渋々ながらそれを承諾した。
写真撮影、何事も中途半端はいけない、自分の持ちうる最大限のユーモアを体現してポーズを決めた。
そして運命の年明け最初の出社。
エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)
マタイによる福音書27章45-66節より
僕は役員陣に会議室に呼び出されて2時間みっちり説教を受けた。全く笑いに繋がってはいなかった。ユーモアが全て解決するなどという妄言を浮かべていた自分を恥じた。そのようなことをユーモアと言い張るのはユーモアに対する冒涜でもあったのだろうか。役員からは色々言われたけれど、要はあれだけのミスを犯して会社に損害を与えておきながらお前は全く反省していないのか?というもの。あとは何であれほど言ったのに会社のプリンターを使ったのか。ドが付くほどの正論だった。真っ赤な事実、しかしそこには先輩に無理矢理やらされたという薄紅色の真実が隠れているのだけれどそこには光が当たらず真っ黒な秘密となっていた。ぐうの音も出ないとはこのことだった、もはや詭弁での反論も不可能、童貞がいくら恋愛について説いても、でもお前童貞じゃんで一点突破されてしまうような根本的な過ちを犯していた。ぐうの音も出ないならぐーのパンチで全員を記憶喪失に追い込むしかないかとも思ったけれどハイリスクノーリターンだから辞めた。
このことを経て僕に懲戒処分(戒告)が下った。
社員旅行から始まる年末の一連の事件を経て僕の脳は完全に機能停止に向かっていった。
そしてついに最悪の事件が起こる。
年が明けてから僕はそれまでの脳の疲労がピークに達し廃人に近い状態になっていた。出社するのもやっとで母親に会社近くまで送ってもらいふらふらしながら出社して虚ろな目で仕事をしていた。
部長が出張に行っていたある日、僕は部長のパソコンから部長に電話で頼まれた写真データを随時送るように頼まれていた。部長から電話が掛かってきたらすぐにデータをピックアップして送る。電話口で遅いと怒鳴られながら動かない脳を必死で動かしてデータを送った。その日もへとへとになって家に帰った。
その翌日の土曜日、家で死んでいると部長から電話が掛かってきた。
「お前俺のパソコンになにした。」
すぐに会社に来るように言われ出社すると部長と社長がいて、パソコンの画面を見せられた。
デスクトップに何もアイコンがない. . .
頭が真っ白になった。部長のパソコンのデスクトップのデータが全て消えてしまっていた。部長はとても仕事ができる人で自分の担当するクライアント以外の過去データも全て保管していた。その20年分のデータが全てぶっ飛んだようだった。それがないと過去の見積りやスケジュールの確認ができない。
僕は消した記憶がなかったため最初は自分ではないと否定した。しかし、前日にパソコンを触ったのが僕だけという状況から僕が犯人で間違いないということになり、それから地獄の事情聴取の日々が始まった。
僕は正直虚ろな状態で仕事をしていてデータを消した記憶はなかったけれど、社長を含めた役員から別室でどのように消したのかを毎日問い詰められた。僕はあまり覚えてないと答えていたけれどその度お前ふざけてんのかと詰められ続けた。
データを全て復元するのはできないようで、一部を復元するだけでも数百万かかるとのことだった。そして僕はそれを負担しろと言われた。頭が真っ白になってその次に胃の辺りに真っ黒な澱が溜まって重たくなっていくのを感じた。さらに役員は僕が今までやらかしたことを一個一個記録すると言い始め、そのリストを作成し一つ一つこれは事実だよなという確認を取られた。おそらく僕をクビにするための材料を揃えていたのだろう。中にはそれは違うということもあったけれど特に反論しなかった。
こんな状況だったから、事情聴取を受けてる時以外は仕事を全く与えられず席で死刑執行を待つ死刑囚のように無表情でピクリとも動かず座っていた。
そしてある日社長と役員にホテルのカフェに連れて行かれた。何を話したかはあまり覚えていないけれど、僕にはまだ将来があるからというような話をされた。役員から社長の言っている意味わかるな?と言われて僕は「はい」と答えた。そう、これは諭旨解雇というやつである。要は退職届を出せということだ。
しかし、アスペの僕には実はその意味は伝わっていなくて何日か普通に出社していた。すると役員から呼び出されてお前社長の言葉の意味分かってないだろと言われた。
「お前はクビなんだよ。でも温情で辞職しろって言ってるんだよ。気づけ。」
ああ、そういうことか。なんて馬鹿なんだ僕は。分かりましたと言ってその次の日に退職届を社長に出して僕は退職することになった。僕は社長のことがめちゃくちゃ嫌いだった。殴るしサシで飲みに連れて行かれてうちは少数精鋭だからお前みたいなのはいらないとか言われるし。でも、退職届を出した時に君は営業には向いてなかったねって言われた時は少し救われた気がした。向いてないだけ、別なもっと合ってる道で頑張れ、そう言っているように聞こえた。アスペだから真意は分からないけれど。
同じ日に相談役と会議室で二人で話した。相談役は前の社長で少しボケてきていて普段はあまり発言に論理性がなかったりするのだけれど、その日は、僕は一つのことをしていても注意が散漫になっているとかそういった僕の的を射ているアドバイスをもらった。そして自分のことを分かってもらえたような気がして、それまでの数週間大人の悪意みたいなものにずっとさらされていていっぱいいっぱいになっていた心の容量が溢れて号泣してしまった。それで少しすっきりした僕は、ああ僕はこの会社からいなくなるんだなと実感した。
その後は特に引き継ぐものもなかったから軽くデスクの片付けをしてすぐ有給消化に入って最終日に出勤して終わり。結局データの復旧も予定よりは少ない金額で済んだので支払いもなかった。
帰り際、僕が帰りづらそうにしていると部長がやって来て早く帰れーと言った。部長は僕が就業時間の後、手持ち無沙汰にしているとそう言ってくれていた。部長はパワハラが最もひどい人だった。でももう部長の早く帰れーを聞くことがないのかと思うと少し寂しい気がした。
世の中には100%の正義も100%の悪もない。僕が憎んでいた上司達も別な見方をすれば誰かを救っていることもある。僕は上司を心の中で全否定して過ごしていた日々を後悔して概ね悪かったのは僕だったのだと思った。僕が入社したこと自体が間違いであったのだ。自分が社会に出れば皆が不幸になる。焦燥し切っていた僕は思考が悪い方に深化していった。
退職して荒れ地に放り出された僕は人生の指針を失いしばらく己の内にこもった。とても悪い意味で人生を悟った気になっていたのだ。何もすべきではないと思った。
そんな時だった、大学の友人から連絡が入った。そいつは無謀にも文学部で大学院に行ったやつで社会には絶対出たくないと言っていた(以下教授くんと呼ぶ)。その教授くんが就活を始めるという。彼女との結婚を考えてふらふらしていられないからとのことだった。
それを聞いて僕は自分も立ち上がらないといけないと思った。実は在職時から公務員試験の勉強を少ししていた。しかし、社会に出るべきではないと悟っていた僕は勉強を止めていた。僕の人生には何もない、緩やかな下り坂を下っていくのみだと思っていた。
不惑という言葉がある。40歳で自分の人生に迷いがなくなるという孔子の言葉だ。あれこれ悩まないという意味だとすると不惑には2種類あると思う。起こる状況に対して何とかなると思え柔軟に対応できる不惑、もうひとつは自分の人生は緩やかに堕落していくのだという確信めいた不惑。僕は間違いなく後者の不惑に囚われていた。何もすべきではない、どこにも目を向けないべきだ。そのような確信めいた矜持を胸に秘めて日々を過ごしていたけれどその友人と話して何かが変わった。ずっとこの荒れ地で暮らそう、そう考えていた。視野が極限まで狭くなっていたのだ。
重たい頭を上げ、後ろを振り向くと大海が変わらずにうねり続けていた。僕は荒れ狂う海原に再び帆を張り次の島を目指して勉強を再開した。