日本赤十字社と漫画「宇崎ちゃんは遊びたい!」がコラボレーションした献血キャンペーンで登場するキャラクターなどをめぐり、ネット上では議論が巻き起こっている。
 登場する胸の大きい女性キャラクターをめぐり、ネット上では、「公共的な団体が掲示する内容ではない」「日本赤十字社が『胸の大きすぎるアニメ絵』を広報に使用する必要はない」と言った批判の声や、「若者に献血に来て欲しいから、若者に人気のコミックのキャラクターを使ったポスターを作ったってだけの話じゃないのかな」という声が上がっていた。
 献血PRに「胸強調」女性キャラで疑問の声も 日赤「セクハラという認識は持っておりません」-J-castニュース
 ある漫画を赤十字が広告に使ったことが批判を集めています。

 この件に関しては、議論するまでもなく「不適切である」という結論が導けるので特に踏み入りません。しいて言うなら、赤十字が公的な場での宣伝に使う表現が「際どい」時点でアウトだというだけです。

 ここで問題にしたいのは、この件に関してあまりにもレベルの低い認識が方々で開陳されているということです。

 まぁ、Twitterユーザーだって何百万といるんだから、バカの一人や二人いるでしょと思う人も多いでしょう。ですが、上にあげたアカウントというのはすべて、多かれ少なかれ表現を売って利益を得ている、プロの創作者のものであることが重大な問題です。

 問題は「快不快」ではない
 1足す1は2みたいな話ですが、一応確認しておくと、この問題は表現の快不快とは一切関係がありません。もちろん、環境型セクハラと見なされうる表現は女性にとってほとんど不快なものでしょうし、問題を語るうえで合わせて不快であると表明されることも多いのですが、それはこの問題が快不快の問題であることをまったく意味していません。

 ここでの問題はあくまで、公的な性質を持つ機関が、その宣伝に、女性の体を客体化した表現を使ったこと、つまりある種女性を「道具」のように扱って自身の目的を達成せんとしたこと、そしてその際に「性的な要素」を強調する形をとったことにあります。

 この問題に関して、巨乳であることが問題とされているんだとか訳のわからないことを言い立てるぼんくらもいますが、やはりそれとは無関係な話です。

 ゆえに、この問題において「表現が不快だから批判されている」という認識を開陳することは、表現への評価以前の問題であり、批判者の批判内容を一切理解できていないという理解力・読解力のなさや、何が問題とされているのかという事実関係を捉える能力の不足を露呈することになります。

 そこら辺の素人ならともかく、プロの創作者がそういう状態にあるということは、プロ野球選手が一塁と三塁の区別がつかないことを露呈するレベルの致命的な状態であることがよくわかるでしょう。
 しかしながら、上で挙げたように、本邦の創作者の少なくない数がこんなザマであるという、一種の異常事態に見舞われています。

 なぜこんな惨状になったのか
 では、なぜこんな、基本的な事実関係すら踏まえられないレベルの「創作者」が跋扈する事態になってしまったのでしょうか。

 ここからは推測ですが、おそらく下記のツイートが関係しているのではないでしょうか。

 ラノベに解説がないという話です。確かに、私も見たことがありません。
 というか、解説に限らず、オタクカルチャーの創作物を題材とした批評、評論の類が貧弱すぎるというのが実際のところでしょう。

 もちろん皆無ではないのですが、オタクカルチャーの規模に対して少なすぎ、また批評の形態や出版社を見る限り、おそらく数少ない批評の受け手はオタクではないでしょう。オタクで批評や評論までカバーする人は「気合が入ったオタク」と扱われそうです。

 そもそも、オタクカルチャーそれ自体をライブラリー化するという試みですら、不足していると指摘される状態ですから、それを根底とした批評が育ちにくいのは自明といえましょう。

 つまり、オタクカルチャーには、創作物を批評する文化がない、あるいは貧弱であるということです。それはつまり、創作物をそれ以外の文化や社会と結び付けて論じる方法、書かれたことから書かれていないことを読み解く方法が普及していないことを意味しています。裏を返せば、オタクカルチャーは創作物を社会その他から独立した物体として受け取りがちであるということを指しています。

 創作と現実の区別なる、実際には困難な行為があたかも簡単なものであるかのように語られるのもこのあたりに原因がありそうです。実際には、あらゆるフィクションは多かれ少なかれ事実に立脚し、虚構と入り混じるので創作と現実を区別するのは難しい(民明書房が実在の書店だと思ってたというのがいい例)のですが、オタクたちは自分がそれを実行していることを前提に物事を語りがちです。

 まぁそれはさておき、批評が貧弱であり、創作物をほかの文化や社会背景と結び付けて考えることができないことは、創作物の需要の仕方、そのチャンネルのようなものが少ないことを意味します。批評を理解している人はある創作物を社会背景と結び付けて考えるチャンネルがあったり、行間を読み解くなかで味わっていくチャンネルがあったりするわけですが、批評を理解できない人はそもそもその方法を知らないのでチャンネルも存在せず、やるやらない以前の問題として「できない」のです。

 そのような限られた需要チャンネルにおいて、もっとも勢力を誇るもの。それが表現に対する「快不快」のチャンネルであると考えられます。

 社会を考えなければいけないとき
 もちろん、個人が表現を快不快の水準で捉えることは問題ではありません。個人の自由の範疇です。問題は、そうすべきでないときにまでそうすること、そしてそのような態度がプロの表現者にまで広がっていることです。

 そうすべきでないときというのは言うまでもなく、今回のように、オタクカルチャーが社会に進出する場合です。オタクカルチャーの内輪から飛び出し、社会の公に進出する以上、そこにふさわしくない表現というものが存在し、常に微調整が求められます。

 その微調整をどうすべきか、どのようにすべきかに関しては当然議論があり、一朝一夕に決まらないこともあります。ですが今回のポスターの擁護者のような人々は、それ以前に、議論の主題を理解できず、表現を快不快のチャンネルでしか受容できていないので、「不快だから批判されている」という頓珍漢な反応しかできません。よって議論は成立せず、何年経っても進歩なしということになります。

 またプロの創作者は、社会に進出する表現を作り上げる立場であり、製造責任者として、表現が快不快以外の水準で理解される場合があること、場所によってはふさわしくない表現があることを当然知っておくべき立場です。小麦を使った料理をアレルギー対応メニューの中へ紛れ込ませ、いやなら食べなければよかったと放言することは許されない、ということです。

 このような人々が跋扈している状況で、どうすれば改善するのかは皆目見当がつきません。どうしようね、ほんと。