わたしのクラスには魔法使いのもも子がいる。もも子は、ちょっとしたことを除けば普段は普通の女子高生として過ごしている。しかしひとたび学園に危機が訪れれば、たちまちその姿を変え、頼もしい活躍をしてくれるのだ。そんなもも子が、わたしにある悩みを打ち明ける。そしてそれは、わたし自身の人生における重大な選択を迫るものだった……
「おはよ! えみ子」
校門の手前で、仲良しのクラスメートがわたしに手を振った。わたしも手を振って答える。
「おはよ! もも子」
樋串もも子は、クラスメートとは言ってもわたしより一歳年上だ。彼女は高二の終わり、思うところがあって一度高校をやめ、その後思い直してこの四月から復学したのである。小柄で童顔で人なつこい性格であることもあり、周囲も年上ということをあまり意識せず、自然にクラスメートとして接している。特にわたしは、小学校前からの幼なじみということもあって、復学してすぐに一番の仲良しになった。最初は遠慮して「もも子先輩」とか「もも子さん」とか呼んでいたものの、当人が固く拒むので呼び捨てにしているうち、年上という意識が本当になくなってしまった。だがその分、親密さも増した気がしている。
わたしはもも子と並んで教室へ向かった。時折、別の学年や別のクラスの男子がチラチラともも子へ目をやり、わたしはそんな奴らをキッとにらみ返す。だが当のもも子は、そんな目を気にする風でもない。幸い、もも子が復学してから一ヶ月経った現在、クラスの中でもも子に特別の視線を向ける男子や女子はいなくなった。高校生の適応力ってすごいな、と思いつつ、わたし自身がチラリともも子に目を向けてしまう。
もも子は、カバンにじゃらじゃらしたアクセサリーを付けたり、派手な髪飾りやら、ピアスやら、化粧やらをするタイプではない。ただ、おへそに青いブローチのようなものを付けていて、それはたしかに人目を引く。
こう書くと「もも子という少女は、へその出る服を着て学校に着ているのか」と目を剥く向きもあろう。だがそれは違う。へそが出る服も何も、もも子は衣類というものを一切まとっていないのだ。
――つまりもも子は、まったくの裸、すなわち全裸なのである。
一時間目は数学で、今月から急に赴任してきた樋串まみ子先生が担当している。本業はデザイナーだが、教職資格をもち、理数系の大学院も出ているという。
「樋串」という名字からも察せられようが、まみ子先生はもも子のお姉さんである。だが、二人の関係は決して良好ではなく、もも子が先生を見る目は険しい。かつて仲のいい姉妹だった二人は、ある運命に巻き込まれ、お互いに気を許しあえない関係になってしまったのだ。
もも子の険しい視線以外に、先生には、男子たちからの熱い視線も注がれている。たしかにまみ子先生は、幼児体型気味のもも子とは対照的な、モデル顔負けのグラマラスな肢体を備えている。顔立ちは姉妹とも美形と言っていいが、どこか幼さが抜けないもも子と違い、先生は大人の美貌をたたえている。……それだけならばまあ、よくあることなのだが、まみ子先生はその上、衣類というものを一切まとっていないのだ。
――つまりまみ子先生は、まったくの裸、すなわち全裸なのである。
もも子の裸には三日で飽きたらしい男子たちは、まみ子先生の裸には、赴任後一週間経っても熱い視線を送り続けている。女性として、そういった視線は決して愉快なものではないには違いない。とはいえ、このあたりの反応の違いが、もも子のまみ子先生への目をさらに険しくしている可能性はある。
三時間目の古文の授業が始まって十分ほど経った頃、事件が起きた。といっても、わたしも他の生徒も教師も、それに気づいたわけではない。気づいたのはもも子で、不意に立ち上がるとカバンに差してあった木の杖を握り、先生に告げたのだ。
「先生! モンスターが運動場側から侵入しました。今から駆除に向かいますので、退席お許し下さい!」
そう言うともも子は教室の出口に向かい、手にした杖を頭の上で振りながら、口を開いた。
「擬態、解除!」
次の瞬間、もも子は異様な姿に変じた。
腹部と顔を除く全身は、メタリックブルーの外骨格に覆われている。目は巨大な赤い複眼。耳は鋭く尖り、ななめ上に延びる。額からは何本も角が生えており、口には鋭い牙がやはり何本も生え、頭には髪の毛の代わりに青い触毛が伸びていて、それがイトミミズのようにザワザワとうごめいている。手首のあたりからひじの方向へ、カマキリの鎌のような鋭い刃物が突き出し、爪は鋭いかぎ爪。背中にはトンボかハチのような翅。お尻からは長い鞭のような尻尾。お腹と乳房、それに顔の皮膚のあたりは人間らしい外形をとどめているものの、皮膚の色は外骨格と同じ、鮮やかなメタリックブルーだ。
「魔導師」と呼ばれる、人間ならざる生物。一年前に高校を去ったもも子は、そんな存在となってこの高校へ帰ってきた。この姿こそ、今のもも子の真の姿であり、普段の姿はあくまでも「擬態」に過ぎない。
実のところ現在のもも子の「本業」はこの高校の対モンスター警備員で、業務の合間に授業を受けて卒業資格を得てもよい、という契約でこの教室にいるのだ。擬態時にも裸なのは「魔界の掟」ためなのだそうで、気の毒な話だと思うのだが、本人はまるで気にしていない。ちなみに、「魔界の掟」は日本国の法律の上位にあるので、軽犯罪法等は適用外になっている。
十分もしないうちに、もも子が擬態した姿で帰ってきた。どういうわけか、腕組みをしている。
「中座すみません! モンスター、撃退しました!」
そう元気よく報告し、腕組みをしたまま席に戻ろうとするもも子に、先生が慌てた口調で声をかけた。
「樋串さん! 床を!」
先生の目はもも子の歩いてきた床に向けられている。もも子もぎくりとして立ち止まり、振り返って床を見た。床には、入り口からもも子の足下まで、青い血だまりが点々と続いていた。
「……樋串さん。ちょっと擬態を解いてみて。早く!」
もも子が渋々、腕組みをしたまま杖を振り、擬態を解くと、先生もわたしたちもさあっと青ざめた。右肩のあたりがざっくりえぐれており、鋭いかぎ爪の生えた左手でそれを押さえてはいるものの、指の間からたらたらと青い血が溢れ出しているのだ。
「ほ、保健室に行って、すぐに手当してもらいなさい! それで、この授業はもういいから、しばらく休んだ方がいいわ。保健委員の人、付き添ってあげて」
ちょうど保健委員だったわたしは席を立ち、急いでもも子に駆け寄った。
「……あの、床を汚してしまったんですが」
わたしの横で、もも子が申し訳なさそうに言う。
「掃除は後でみんなですればいいから、気にしないで急ぎなさい」
そんな先生の言葉を受けて、わたしたちは教室を出て保健室に向かった。もも子が腕をさらにきつく押さえたためか、もう血は垂れてこなかった。
「……えと、心臓とか血管の配置は人間の頃のままなんで、普通に包帯を巻いて止血して下さい。消毒薬も人間用ので大丈夫です」
丸イスにかけたもも子が、やはり、なぜかすまなそうな口調で説明する。保健の先生は幾分緊張気味に傷口を消毒し、包帯を巻くと、傍らの冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、もも子に渡して言った。
「水分をとって、少し休んでいきなさい。それで具合が悪いままだったら、早退して、魔導師向けの病院で看てもらった方がいいでしょう」
もも子は指示に従ってお茶を飲むと、清掃用の雑巾をしぼって足の裏を拭き、翅をたたんでベッドにもぐりこんだ。わたしがそれを見届け、部屋を出ようとしたところ、もも子がわたしを呼び止めた。
「ちょっと待って。もう十分くらい、いいでしょ?」
わたしはベッドの脇に戻り、横にあったイスに座った。そうしてもも子の真っ赤な複眼を見つめた。
もも子がぽつりと言った。
「ねえ、えみ子。えみ子は、魔導師って、どう思う? 好き? 嫌い? 恐い?」
わたしはどきりとして、どう答えようかしばらく迷った。しかし、もも子が求めているのは率直な答えだということがはっきりわかったので、変なごまかしはやめて、思ったことを素直に告げた。
「もも子は人間だった頃と全く同じで、大好きだし、恐いなんて思ったことはないよ。魔導師だけど、人間のために戦うと言ってくれている。だからもも子は例外。……だけど、他の魔導師は正直、ちょっと恐い。……ううん。すごく、恐い。魔導師マフィアの連中も、魔界直属の魔導師も、なんだか、心の中まで全然違う生き物になってる感じがする。……まみ子先生も、人間だった頃とは色々と変わってしまった。もう普通には話せない気がしてる」
「魔界」とは、三年と少し前に突如この世界と接触し、あっという間に全世界の国家の主導権を奪った――平たく言えば、「世界を征服」してしまった――存在だ。
ある日、インターネット全体が魔界からのハッキングを受け、世界中の相当数の人々が「同時多発詐欺」の犠牲者となった。各々の関心に合わせて巧妙に装われた「契約書」を開き、それに「同意する」をクリックしてしまった人々が、魂を奪われ、意志をもたない情報端末にされてしまったのだ。
数日後、身も、心も、完全に人ならざる「使い魔」と化した犠牲者たちの手で人類侵攻が開始され、その人知を越えた攻撃により、人類はたちまち制圧された。人類の軍隊と警察は魔界の支配下に置かれ、人々は一見以前と変わりない、しかし使い魔の監視に脅かされ続ける、不安な日々を送るようになった。
侵攻から数ヶ月後頃、さらなる異変が人々を脅かした。「モンスター」と呼ばれる、不快な災厄を撒き散らす存在が出没し始め、同時に、魔界から「魔導師」の資格取得の募集通知が発信された。それによれば、モンスターを倒せるのは、魔導師、および魔導師資格取得を目指す「魔法使い」のみだというのだ。
最初は、モンスターの多発地帯に住む人々が半ば自衛のために魔導師資格に出願し、その後、さまざまな思惑から徐々に出願者は増えていった。そして、もも子もその中の一人に加わったのだ。
実はわたしは、もも子が魔導師に出願する前日の帰宅途上、当時まだ「もも子先輩」と呼んでいた彼女から、その決意を聞かされていた。
「えみ子ちゃん。誰にも言わないでね。あたし今夜、魔導師資格に出願しようと思ってるの」
「……え? まさか……」
魔導師資格の取得というのは、合格率が三割程度で、脱落者は強制的に意志を奪われ、使い魔に改造されてしまうという、危険な選択である。しかも、すでに当時から、魔導師に関しては不穏な噂、不吉な噂が数多く流れていた。曰く、魔導師になると人間ではなくなってしまう。魔導師になると自動的に魔界の手先になり、進んで人類を虐げる活動をし始める、等々。……だから、正義感が人一倍強い「もも子先輩」が、何を思ってそんな決意をしたのか、わたしには腑に落ちなかった。
だが、それに続けて「もも子先輩」が発した言葉は、そんなわたしの疑念を晴らし、わたしを感動させた。
「聞いてえみ子ちゃん。あたしはね、『いい』魔導師になるつもりなの。魔界の暴虐から人間を守って戦う、強くて優しい魔導師。わずかだけどそういう活動をしている魔導師のグループはある。あたしはそれに加わりたいし、もし加われなくとも、そういう活動をしていきたいの」
翌日、予告通り「もも子先輩」は魔導師資格に出願して魔法使いとなり、魔界の掟に従い、全裸になってこの町内を歩いていた。今の彼女とは異なり、顔を真っ赤にしてもじもじと胸や下腹部を隠そうとしている姿を目にして、見ているこちらまで真っ赤になってしまったものだ。
それからしばらく、「もも子先輩」は町内を拠点にモンスター退治を行った。この町内は、ほどほどに弱いモンスターを倒して安全に「レベル上げ」ができる、優れた立地なのだそうだ。わたしはというと、会うたびに皮膚の青みが増し、目が大きな複眼に変わり、角やら牙やらがどんどん延びていく彼女を見て、ひどく不安で心細い思いにとらわれていた。
やがて、予定の「レベル上げ」を終えた彼女は、本格的な「クエスト」へと旅立った。まさにロールプレイングゲームのように、レベルを上げながら一定のイベントをクリアするのが魔導師資格の取得条件であり、クリアできずにゲームオーバーになることがすなわち、使い魔への転落となるのだ。
もも子が町を去ってからしばらくして、わたしたちは、魔導師の多くが、もはや身も心も人間とは別の生き物になってしまったことを思い知った。志願した動機は人それぞれでも、大抵の志願者が、魔導師の資格を得る頃には、魔界による人類支配は当然のことであり、望ましいことだという思想を、心の底から信奉するようになってしまっていたのだ。
ある者はその思想の命ずるまま、使い魔と共に魔界の手下として働き、別の者は魔界を支配しているとされる「大魔王」に仕える「魔王」を自称し、私利私欲のために魔法を用い、人々を苦しめるようになった。
「魔王」を名乗る者たちは、世間では「魔導師マフィア」と呼ばれ、各地で闇社会を形成し、一般人から搾取を行うようになっていった。比較的平穏だったこの町も、しばしば対立する魔導師マフィアの抗争の舞台となり、荒廃が進んだ。ある時期から、マフィアの抗争に加えて、魔界の正規軍によるマフィアへの取り締まりが始まり、治安が多少は回復したものの、息苦しい抑圧感は益々増した。人心がすさむと共にモンスターの数も凶悪さも増し、比較的平穏な田舎へ疎開する人も増えてきた。わたしたちの高校も、もも子が高校を去ってから一年後の四月には、生徒数が半減した。とても寂しい始業式だったのを覚えている。……いや。あの始業式の日のことは、決して忘れない。
その日、始業式を終えて教室に戻ろうとしていたわたしは、講堂に携帯電話を落としてきたことに気付き、一人講堂へと引き返した。講堂の片隅に携帯電話を見つけ、ほっとして講堂を出ようと出口の前に立ったわたしは、いきなりものすごい力ではじき飛ばされ、尻餅をついた。あちこちがヒリヒリするので確かめてみると、腕や額など何か所かに、カッターで切ったような切り傷ができている。顔を上げ、出口の方を確かめると、目に見えない悪意のかたまりとでもいうべき「気配」がたしかに感じられる。
モンスターだ! わたしはすぐに分かった。しかも、人間を突き飛ばしたり、切り傷を作ったりできる、かなり強力な種類だ。
悪意のかたまりはじりじりと近づいてくる。目には見えないが、生存本能が、強烈な危険信号を発している。今すぐにでも立ち上がり、逃げ出さないと、取り返しのつかないことになる。それが直感的に分かった。だが、恐怖と衝撃で、わたしの足腰は麻痺したようになってしまった。わたしは床に這ったまま、手を使って後ずさった。次の瞬間、ズキン、と鈍い痛みがすねの所に走り、すねの皮膚が靴下ごとえぐられて、血がどろりと垂れてきた。
「いや! 助けて!」
あたりには誰もいないし、モンスターに言葉など通じないことはよく知っていたのだが、わたしはそれでも、そんなか細い声を発していた。
「火炎、レベルトゥエンティ!」
わたしの悲鳴に応えるかのように、聞き覚えのある声が講堂の出口の方から響いた。その声と共に、わたしの目の前で一瞬、真っ赤な炎と、それに焼かれる得体の知れない黒い影の映像が浮かび、消えた。そしてそれと共に、悪意の気配も感じられなくなった。
やがて講堂の出口から声の主が現れた。それは、人間の姿から大きく遠ざかった――その分だけ上級であるに違いない――魔導師だった。魔導師は地面にへたり込んでいるわたしを見ると、驚きの表情らしきものを浮かべ、わたしに駆け寄りながら言った。
「えみ子ちゃんじゃない! 大丈夫? 怪我はない?」
異形の顔を間近に見たわたしは多分、怯えた表情を浮かべていたのだと思う。それを見た魔導師は、一瞬悲しげな表情を浮かべてから、杖を一振りして、呪文を唱えた。
「擬態!」
くるりと映像が切り替わるように魔導師の姿が消え、代わりに、よく見知った少女が全裸で立っているのが見えた。
「もも子先輩?」
彼女はにこりと笑い、うなずいて言った。
「うん。この姿は擬態で、さっきのが正体だけど、中身は同じ。樋串もも子だよ。……で、『先輩』はもうやめて! 今日から同級生になるんだ。あたしも『えみ子』って呼ぶからさ」
それが、もも子との再会だった。
ベッドの中のもも子は、魔導師についての、わたしの率直な返事を聞くと、うなずくような仕草をみせてから、口を開いた。
「……じゃあえみ子は、自分が魔法使いや魔導師になるもいやだよね?」
もも子の考えを察したように思ったわたしは、確認するように質問した。
「……ひょっとして、モンスター、強くなってるの?」
わたしが核心をついたためか、もも子は少しびっくりした顔を見せてから、こくんとうなずき、言った。
「今日もちょっと危なかった。実を言うと、お姉ちゃ……姉が加勢に来て、二人でなんとかやっつけたんだ。我ながら情けないし、苦々しい話だけど、一人じゃかなわなかったかもしれない」
まみ子先生も魔導師である。もも子よりも後、この町の治安が悪化した頃に魔導師に志願し、もも子よりも先に資格を取得した。……そして、もも子とは異なり、魔界に忠誠を誓う魔界直属の魔導師になった。以前は、才媛でありつつもおっとりした面もあったのだが、魔導師になってからはそういう部分が消え、冷たく近寄りがたいだけの人物になってしまったようだった。
そんなまみ子先生の力をこの先も借り続けねばならない、というのは、もも子にとって不本意なことであるに違いないし、魔界に対する大きな借りを作り続けることにもなる。それを拒むならば多分、選ぶべき道は一つだ。つまり、魔界への抵抗の意志を貫ける魔法使いや魔導師の仲間を集めるのだ。そしてその候補としてもも子が選んだのは……
これは、以前から薄々感づいていた可能性でもあった。だからわたしは覚悟を決め、もも子に答えた。
「わたしは、マフィアの連中や、まみ子先生みたいな魔導師になるのは嫌。だけど、もし、もも子みたいな『いい』魔導師になれるなら……」
「ちょっと待って! もう血が止まったみたい。授業に戻りましょ」
もも子は突然そう言い出し、わたしの話をさえぎった。そうして、まだベッドに入ってから十分と経っていないというのに、ベッドから出て、保健の先生の前で包帯を解き、傷口を先生に見せた。アルコールで血を拭き取った保健の先生とわたしはびっくりした。傷口はすでに跡形もなく治癒していたのだ。
「擬態とかじゃありませんよ。魔導師の回復力はすごいんです。水分補給もできましたし、めまいとかもないので、授業に戻ります」
もも子は唖然としている先生にそう伝えると、杖を一振りして少女の姿に戻り、一礼して保健室を出た。わたしも慌てて後を追った。
「ピンチはピンチだったけど、傷そのものは、魔導師にとっては大したものじゃなかったんだ。だから、あちこち汚したり、ちゃんとした手当をしてもらったりするのが申し訳なくてさ」
もも子は歩きながらそう言った。それから、振り返り、わたしの顔を見ながら口を尖らせて、付け加えた。
「どっちかって言うと、えみ子と二人で話す時間が作りたかったんだ。だけど、えみ子、勘がよすぎるよ! いきなり核心を衝くもんだから、ちょっとあそこで話せなくなっちゃった」
もも子はそんなことを声をひそめて言いながら、教室の手前まで戻ると、人差し指を立てて「しーっ」と身振りで示し、掃除用具入れからモップを二本取り出してわたしに一本渡すと、廊下に点々と続く青い血を指さして言った。
「ちょっと手伝って」
わたしは「オーケー」と小声で言うと、二人で血を拭き取りながら廊下を進んだ。
モップをかけながら、わたしはもも子に、ふと思いついた疑問を小声で伝えた。
「こういうの、魔法でぱあっと片づけられないもんなの? ディズニーの『魔法使いの弟子』みたいにさ」
もも子はモップをかけながら答えた。
「『魔法』っていうのは、情報処理への介入能力なの。生き物やコンピュータには効いても、こういう物言わぬ物体を操ることはできないのよ」
わたしはふうん、と言ってうなずいた。やがて二人は血の跡に沿って、校舎の玄関にまでたどりつき、コンクリートの部分についた血をごしごしと洗った。
「校庭のあたりは雨で流れるからいいでしょ」
そう言ってもも子は玄関の横の水道でモップを洗い始めた。自分もモップを洗おうともも子の横に立ったわたしに、もも子が小声で話しかけた。
「変なことさせてごめん。血を拭かなきゃと思ったのは本当なんだけど、手伝わせちゃったのは、怪しまれずにここまで来るためでもあったの。もうちょっとだけ付き合って。先生、もう授業に出なくていいって言ってたでしょ。だからあと二十分くらいは大丈夫」
そう言いながらもも子が指さした先は、玄関を入ってすぐのところの、「警備員控え室」だった。現在の警備員であるもも子に割り当てられた部屋だが、もも子は授業に出ていくため、普段は空き室の状態なのだ。
もも子はモップを近くの掃除用具置き場に入れ、わたしを連れて部屋の前に立つと、杖を振って電子ロックを解除し、二人で中に入った。
部屋の中は殺風景で、大した備品も置いていなかった。デスクと、古い電気ポット、それに大きなロッカーがあるだけだ。もも子は小さな流しで電気ポットに水を汲み、ロッカーから紅茶のティーバックとプラスチックの湯飲みを二脚取り出した。だがわたしの目はむしろ、ロッカーの下の方に置かれた物体に注がれた。
「何? あのでっかい桃……」
もも子はうなずいて、ティーバックと湯飲みをデスクに置くと、幅が五~六十センチはありそうな、巨大な桃のように見える物体をロッカーから出し、ひざに抱えてイスに座った。
「桃に見える? ……なら、そう思ってた方が精神衛生上いいよ。多分」
わたしも立てかけてあったパイプイスを開いて腰掛け、「桃」を近くで見た。よく見ると植物というよりは軟体動物か何かを思わせる、ちょっと気持ちの悪い物体だった。
もも子は「桃」の底に当たる部分に指を当て、そこを左右に押し開いた。ぐにゅりと中央部に穴が空き、もも子の指がその中に入った。やがてもも子が引き抜いた指の先には、青色のブローチに似た物体がつままれていた。否、よく見るとブローチというよりは甲虫を思わせる生物で、腹側にはダンゴムシのような短い肢が無数に生えており、それがわさわさとうごめいている。
もも子はそれを見せながら言った。
「『魔械虫』って言うの。何だか知ってるよね?」
わたしは首を縦に振った。それは、もも子や他の魔導師、魔法使い、それに使い魔のおへそについている物体だった。正式な名前は初めて知ったが、何をするものかは明らかだ。つまり魔導師や魔法使いは、これをおへそに埋め込むことで人としての形を失い、その代償に「魔力」を獲得するのだ。
わたしはごくりと唾を飲んで、もも子に言った。
「……こ、これを、わたしのおへそに付けろってこと?」
もも子は魔法使い、あるいは魔導師の仲間を増やそうとしている。その手始めに、まずは仲良しのわたしを「スカウト」しようというのだろうと思ったのだ。
もも子は複雑な顔で答えた。
「えみ子は本当に飲み込みが早いと思う。……だけど、事情はもう少し込み入ってるんだ。まずは話を聞いて」
わたしの質問にイエスともノーとも言わないまま、もも子は説明を始めた。
「えみ子が察している通り、あたしはこれからこの高校で、魔導師になって一緒に戦ってくれる、信用できる仲間を集めていきたいと思ってる。モンスターが強くなってるから、というのも一つの理由だけど、それだけじゃない。これは、あたしの、いえ、あたしたちのもっと大きな戦いの一部でもあるの。
これを説明するには、姉とあたしの間にあったことを話すのが近道だと思う。
一週間前、あたしは数ヶ月ぶりに姉と再会した。そのとき初めて、姉が魔導師になったことを知った。姉は田舎に疎開していると嘘をついていたの。
姉が魔界の思想に芯まで染まっていることを知ったあたしは、姉と敵対する意思をはっきり示して、姉と決別した……つもりだった。ところがその翌日、こともあろうに、姉が教師として赴任してきた。
あたしは職員室の姉を連れ出して、一体どういうつもりなのかと詰め寄った。姉は微笑みながら言ったわ。
『もちろん、魔界に反抗的なもも子を監視し、正しい方向に導くためよ。いわばお目付役ね。もも子と話して、それが必要だと思った。ただわたしは、もも子の行動を縛ったり、強引に折伏したりするつもりはない。むしろわたしはね、もも子に、もも子が言う理想を試すチャンスを与えたいと思っている』
怪訝な顔をするあたしに、姉は続けた。
『魔界とは巨大な演算装置。大多数の、意志をもたない使い魔たちが端末および計算リソースとなり、少数の魔導師たちがそれを統御し、最終的には全体の集合意識である魔界そのものがすべてを統括する。
ところがもも子、あなたは、この効率的なアーキテクチャに、人間的な感傷からケチをつけて、それへの『革命』を訴えた。使い魔と魔導師の階級差別がない魔界。誰もが平等に使い魔の役割と魔導師の役割を兼ね、使い魔でも、魔導師でもない、見習いの魔法使いだけで構成された魔界。そんな理想を口にした。
……まあ、やれるものならやってみなさい、というのがわたしの、つまりは魔界の判断。だからチャンスをあげる。もしこちらの賭けに乗るなら、もも子が自分の判断で配布できる魔械虫を預けるから、これを使って、この学校で自分の理想をシミュレーションしてみなさい。この学校で無理なら、外の世界でも無理よ。
もも子が配布した魔械虫の所持者には、クエストが免除される取り決めになっている。魔導師の資格を取得できない代わり、クエストから脱落して使い魔に落とされるリスクもなくなる。つまり、本人が望むなら、永久に見習いの魔法使いにとどまることができる。あなた自身の魔導師資格も剥奪されるけど、そのくらいは当然の代償でしょ』
姉はそう言った。で、あたしは『賭け』に乗り、この『桃』を受け取ったというわけよ」
わたしは、もも子の説明で色々と納得がいったものの、ところどころに違和感めいたものをおぼえた。それでわたしは、説明を続けようとするもも子をさえぎり、自分の違和感を確かめることにした。
「ちょっと待って。一つ聞いていい? もも子がまみ子先生に話したっていう『理想』のこと。聞き違いじゃなければ、もも子は今の魔界の方針に賛成していないとしても、魔界の存在自体は否定してない。それどころか、人間がいなくなって、みんなが魔法使いになる……つまりは、魔界の一部分になることを、当然みたいに思ってる。どうなの? これはもも子の本心?」
もも子は一瞬目を丸くしてから、寂しそうな笑みを浮かべながら答えた。
「えみ子は本当に核心をつくなあ。……で、えみ子も、レジスタンスの魔導師たちみたいなことを言うんだね。……それってやっぱり、『人として当然の』考え方?」
「レジスタンス」とは、もも子が当初加わりたいと言っていた、反体制派の魔導師の集団だ。反体制派とはいっても、魔界は黙認……というか、大した脅威ではないと放置している程度の勢力らしい。彼らと接触したもも子も色々と幻滅を感じ、結局は飛び出してきたのだと言っていた。
もも子はその話を補足するように、先を続けた。
「上級の魔導師になればなるほど、人間が進化の過程で溜め込んだ、不合理な思考様式が修正される。『双曲線割引』とか、『行為者過剰検出デバイス』とか、そういうのがね。多分そのせいで、あたしにはもう、魔界が『悪』だとは思えないし、種族としての人類がどうしても存続しなきゃいけないとも考えられない。より大きな力を手に入れ、人類が人類でいられなくなっても、それは自然なことだと思う。感情的なこだわり以外、それがいけないという理由が見あたらない」
そこまで話してから、もも子はぞっとする笑みを浮かべ、その先を続けた。
「それにね、仲間を増やすため、最初あたしは洗脳魔法を使おうと思っていたの。洗脳を私利私欲のために乱用するのはよくないけど、当たり前のことを、当たり前に考えられるようにするために洗脳魔法を使うことの、どこが悪いのか分からなかった」
ごくりと唾を飲んだわたしに、もも子は続けた。
「だけど、他でもない、姉からそのことで釘を刺された。
『言っとくけどね、もも子。ことを焦って洗脳魔法なんか使っちゃだめよ。人間の意志に介入して魔法使いを作っても、大した魔法力は引き出せない。それをしたいなら、意志を完全に奪って使い魔にするしかない。もし使い魔を作りたくないというなら、洗脳魔法はだめ』
……ショックだった。自分の発想がまるで魔界の連中と同じコースをたどっていることに、今さらながら気付いたから。それからあたしは、『人間らしさ』を忘れないようにしたいと決めた。弱者である使い魔と人間を虐げるシステムを許せない気持ちは変わらないし、変えたくない。魔界のシステムは『合理』的、つまりラショナルかもしれないけど、間違いなく『道理』に反している、つまり、リーズナブルじゃない。『公正』という意味での普遍的な正義がそこにはない。だからあたしは、人間の側に立って人間のために戦いたい。いずれ消えゆく種族でも、その最後の一人まで、そばに付いていて応援したい。
……だけど、現実問題として、あたしには『人間らしさ』の基準が分からなくなりかけている。あたしの目的を果たすためには、何かこう、方向指示器みたいなものが必要。……そこでえみ子。あなたに、大事な役目をお願いしたいの」
苦渋に満ちた説明を終えたもも子は、ロッカーへ向かい、中にあったバッグをごそごそとかき回し始めた。
わたしは、もも子がこれまで、肉体ばかりか、言葉や態度まで精一杯人間に「擬態」していたことを初めて知らされた。それでももも子は人間が大好きで、人間のために戦いたいと思っている。そんなもも子に、恐怖心や嫌悪感はわかなかった。むしろどんなに変わっても、もも子はもも子なんだ、と素直に信じられた。
カバンの中をかき回しながら、もも子は話を続けた。
「えみ子には、えみ子にしかできないことをして欲しい。ある意味では、ただの魔法使いよりも厳しい役目。つまりえみ子には、魔法使いと人間の中間に立って、あたしや、これから増えていく魔法使いの仲間に、『人間らしさ』のお手本を示す役割を担ってもらいたい」
そういって探しものを続けながら、もも子は突拍子もない言葉を口にした。
「……で、そのために、えみ子に『魔法少女』になってもらいたいと思ってる」
「ま、魔法……少女?」
それは緊迫した空気にそぐわない、ゆるいファンシーな響きだった。
「……まあ、名前は適当につけたんだけどね。要はえみ子に、人間の心と、魔導師の力をあわせもった、スーパーヒロインになって欲しいの」
わたしは戸惑いつつも、ときめきを抑えられなかった。もうじき十八で、「少女」とも言いにくくなる年とはいえ、「魔法少女」と言えば女の子が一度は憧れるガールズヒロインである。しかも、魔導師のもも子が口にするからには、それは「本物の」魔法少女に違いないのだ!
目当てのものを見つけたらしいもも子は、さっきの魔械虫をそれの中にしまうと、立ち上がり、こちらに戻って来ながら言った。
「見て。これが変身アイテム。もともとはクエストのイベントで入手したレアな防御アイテムを、あたしなりの細工を施して改造したもの」
もも子が手にした「変身アイテム」を見たわたしは絶句した。それは無骨な金属製のバックルを付けた、赤い革ベルトだったのだ。
――もも子、それって……――
「このベルトをおへその上に巻くの。一度巻くと、魔械虫と同じで、体と一体化して外せなくなる。だけどその代わり、魔械虫との融合を防ぎ、魔械虫の魔力だけを引き出してくれるようになる」
――……あの、もも子。それ、魔法少女違う! 放映時間が三十分くらい違う! ――
「ここのバックルに魔械虫を装着して『変身』って叫べばいいの。そうすると、魔力によってヨロイとカブトが形成されて、魔法少女に変身できる。あたしは『魔械虫ギア』って呼んでる」
――うわあ! しかも思いっきり『平成』っぽいよ! もも子! ――
……などと内心では激しくツッコミを入れていたわたしであるが、突っ込んでどうなるものでもないことは予想がついたので、控えめな質問だけを一つするにとどめた。
「……もも子、ひょっとしてそれ、変身のとき、派手なボイスやらサウンドやらを出したりする?」
もも子は怪訝そうな顔で答えた。
「しないよ? センタイヒーローのおもちゃじゃあるまいし。……ああ、あと、杖の代わりにすごいレアアイテムをあげるね。これ!」
そう言ってもも子は先の曲がった無骨な鉄の棒を差し出して、解説した。
「これは前世紀、ヴィトゲンシュタインがカール・ポパーを脅すために使ったという、いわくつきの火かき棒。魔具としてはちょっと他にない、最上級の思念が込められてるんだって。なんでも『道徳の地位と哲学的探求の本質に関わる深遠な葛藤』だとか何とか」
もはや「魔法少女」とは縁もゆかりもない。色々と観念したわたしは、もう何も言わず、もも子が差し出したベルトと火かき棒を手に取った。もも子は、急いで付け足すように言った。
「今すぐに決断してとは言わない。それを付けたらもう外せなくなるし、それに、装着した時点で、魔界の掟の上では、魔法使いと同じ扱いになるからね」
すぐにでも装着しそうな勢いだったわたしは、最後の言葉にびくりとして手を止めた。
「魔法使い扱いっていうと、つまり……」
「うん。服を着て表を出歩いちゃいけなくなって、違反したら使い魔にされる。こればかりはあたしでもどうしようもないし、特例措置の対象外。あ、ベルトの効果で寒さとかは防げるから、その辺の心配は要らないよ」
もも子の言葉は、これまで正面から考えていなかった問題を意識させた。
わたしはたしかに、魔法使いになる決意をほぼ固めかけていた。だがその決意は、人としての形を捨てることへの決意であったり、命がけの戦いを引き受ける決意であったり、ともかくスケールの大きな、ドラマチックな決意だった。それに比べれば、服を着るか着ないかというのは明らかにちっぽけな問題で、だからわたしはそれを深く考えなかった。……否、深く考えるのを故意に避けてきたのだった。
もも子がにやっと笑って言った。
「裸のことで迷ったでしょ? 『双曲線割引』だね。『人間らしい』よ、えみ子。大事なことでも、直前になるまではなかなか具体的には考えられなくて、『ちっぽけなこと』だって思えてしまう。……あたしもそうだった。家の玄関を開ける直前になるまで、裸で外を出歩くのがどれだけ覚悟がいることなのか、想像できなかった」
黙ってうつむくわたしに、ミァハ……じゃなかった、もも子は励ますように言った。
「でも、大丈夫! 一度思い切っちゃえば、あとは気にならなくなるよ。むしろ全身の素肌を風がなでる感触が忘れられなくなって、いずれ服なんて着る気が起きなくなる」
もも子はちょっと遠くを見るような目をしながら、先を続けた。
「あたしがレジスタンスの連中を見限った大きな理由はね、あの魔導師たちが人間に擬態するとき、わざわざ服を着た姿になってたことなの。で、あたしにもそれを強要するのよ。それがもう、どうにも我慢できなかった」
ちょっとした疑問を覚えたわたしは、確認した。
「たしかレジスタンス活動自体を魔界は容認してるんだよね。でも、魔導師の着衣は、たとえ擬態時でも、掟で厳重に禁じられてるって言ってたよね。それに違反したらただじゃ済まないんじゃ……」
もも子は苦笑して言った。
「あ、魔導師には脱衣の義務がないの。まして、擬態時にだなんて。だからあれは大ウソ。ああでも言わないと、校内で裸で過ごせなくなるからね。実は姉が来たとき、そのことをチクられるんじゃないかと心配したんだけど、姉も服なんて着るのは嫌だったみたいで、そこは口裏を合わせてくれたわ」
唖然とするわたしをよそに、もも子はさらに熱を込め、遠い目をしながら先を続けた。
「全裸の素晴らしさは体験しなければわからない。でも、体験しさえすれば、必ずそれに目覚める! だから怖がらなくても平気よ!」
わたしは、もも子が今までで一番遠くに行ってしまったように感じた。ちょっと引いているわたしに、もも子は慌てて付け加えた。
「……あ、さっきも言ったけど、無理強いはしない。どうしてもいやなら仕方ないよ。ただ、そのベルトは持っていて。バックルの横に、変身用の魔械虫もしまっておいたから」
わたしは「ごめんね」と言ってうなずき、「魔械虫ギア」を丸めて制服のポケットにしまい、火かき棒を左手に持った。それを見届けたもも子は、時計を見て言った。
「長ばなししてたら、四時間目に入っちゃったね。教室に帰ろうか」
うなずきかけたわたしは、ふと、ここ数日ずっと気になっていたことを思い出し、もも子に告げた。
「さぼりついでに、もう一箇所寄り道してもいい?」
「どこに?」
首をかしげて聞き返すもも子に、わたしは言った。
「ゆみ子の様子がね、ここ数日、何となくおかしいの……」
ゆみ子はわたしの妹で、この高校の一年生だ。わたしは続けた。
「……それで、どうもそれが、ゆみ子が入った『古生物研究会』と関わってるみたいなの。……で、念のため、そこの部室を見ておきたいんだ。ほら、ひょっとして魔界と関係があるかもしれないでしょ?」
もも子はいぶかしげに聞き返した。
「魔界と関係って……どんな関係?」
「……何の根拠もない、単なる勘だけど、ともかく偵察しておきたいの。放課後になるとゆみ子が部室に行っちゃうでしょ。だからさ」
もどかしくそう言うしかないわたしに、もも子が言った。
「……行こうって言うんなら付き合うけどさ。そういうの、ゆみ子ちゃんは窮屈に感じてると思うんだ。少しはさ、好きにさせてあげなよ」
これは妹としてのもも子の率直な思いなのだろう。だが、姉には姉としての思いがあるのだ。
わたしたちは古生物研究会の部室へ向かった。しんと静まりかえった部室の前で、もも子が小声で解錠呪文を唱え、そっとドアに手をかけた。
「あれ? 開かない」
考え込んだもも子は、ふと思いついたようにわたしをドアのすぐ前に立たせ、自分はドアから一歩離れると、杖を振って唱えた。
「擬態解除。結界、レベルトゥエンティ!」
もも子は元の姿に戻り、次の瞬間には廊下の窓が一瞬で真っ暗になった。それからもも子はドアの前に戻り、ドアに向けて別の呪文を唱えた。
「結界、破壊!」
ピシッ、という木の枝を折ったような音を確認すると、もも子は焦った様子でドアに手をかけた。今度はすんなりと開いたドアと窓の外を見比べて、わたしは今の行為を整理していた。もも子はドアの外に「結界」を張って、それから「結界破壊」の呪文を唱えた。しかし窓の外は暗いままだ。ということは、ドアの内側にもう一つ「結界」があったのだ。
「ぐるるるるる」
ドアを開けたわたしたちを迎えたのは、奇怪なうなり声だった。部屋を見渡したわたしは唖然とした。
部屋の隅には女子が三人、気を失ったように倒れている。そして部屋の中央の大きなデスクの上には、真っ黒なビロード状の皮膚に覆われた異形の女性が、こちらに背を向けてうずくまっている。明らかに人間ではないが、魔導師や魔法使いとは形が違う。モンスター。しかも、人間の目にはっきり見える強力な種類に違いない。またよく見るとその下にもう一人、あるいはもう一体が、こちら側に赤いしわだらけの足を向け、デスクの上に横たわっている。
「麻痺レベルトゥエンティ!」
わたしが部屋の中を見回すより早く、もも子は杖を振って呪文を唱え、モンスターの動きを止めた。それから、わたしをかばうように前に歩み出ると、こちらに背を向けたまま、切迫した口調で言った。
「……ごめんえみ子。状況が変わった。今すぐ服を脱いで魔法少女に変身して。でないと間違いなく、誰かが死ぬ!」
突然の宣告に、わたしは動揺しながらもポケットからベルトを取り出した。
モンスターはすでに「麻痺」から回復しつつあり、ゆっくりと立ち上がり、こちらに体を向け始めていた。肩の上に大きく肉が盛り上がり、それが顔と一体化して、どこまでが顔なのか分からない。その部分に緑色の丸い目が横一列に八つほど並び、その下から牙らしいものが二本伸びている。
もも子は杖を構え、モンスターにじりじりと近寄りながら、さらに切迫した調子で言った。
「時間がない! おへそを出してベルトを巻けば、変身と一緒に服が吹き飛ぶ。早く!」
わたしは無我夢中で制服のすそを上げ、おへそにベルトのバックルを当てがった。ベルトが生き物のように腰の周りに伸び、両端の金具が背中でかちゃりと音を立てて噛み合い、ベルト全体が体に密着した。わたしがバックルの横にある小さな桃に指を当てると、ずぶりと指が中に入り、奥にある固いものに当たった。そのまま、ねばねばする粘液まみれの魔械虫をひと思いに引き抜くと、おへその真上のバックルに押しつけ、ひゅうと息を吸い込み、叫んだ。
「へんしん!」
わたしの声と共に、魔械虫から、空気の流れとは無関係の「精神圧」とでも呼ぶしかない圧力が発生し、皮膚全体を覆うように広がった。圧力によって下着と制服が肌から離れて風船のように膨張し、やがてぼわんという音と共にばらばらにちぎれて飛び散った。
皮膚に広がった「精神圧」は体のあちこちで可視化した。肩、ひじ、ひざにプロテクターらしいものが、また手と足には硬質のグローブとブーツが形成された。続いて、頭の上半分がカブトらしいもので覆われた。真っ黒の窓に映った姿を見ると、丸いヘルメットに赤い大きな複眼、二本の細い触角、という魔導師を模した形で、両目の間にはいかにも魔術的な、逆三角形を重ねた文様が浮かんでいる。……そしてそこで変身は終わった。胸、お腹、お尻やその前のあたりは、丸裸のままだった。
一方、「精神圧」は内向きに、わたし自身の心にも加わっていた。得体の知れない、快感でも、苦痛でもない、異質な「感じ」が心に押し寄せ、その感覚を生々しく刻みつけ……そうな予感を感じたのだが、「予感」は予感のままで止まってしまった。皮のような、膜のような何かが「圧力」を押しとどめ、その「何か」が一体何なのか、よく分からないまま宙ぶらりんになってしまったのだ。
「……う、くうううう」
中途半端な状態が気持ち悪くて、わたしは変な声を上げて身をよじった。このベルトを外して、魔械虫をおへそにはめ直したいと思った。そうすれば、あの「感じ」を生で体感できるのだ……
「えみ子っ」
もも子の悲鳴じみた呼びかけで、わたしはとっさに我に返った。顔を上げると、あのモンスターがすぐ前にいて、両腕を振り上げ、五本の指先から伸びたナイフのような爪をわたしに振り下ろそうとしていた。
わたしはとっさに左手の火かき棒を、ブン、と左上に向けて振り上げた。
「ギャアアアッ」
モンスターは苦悶の声を発して姿勢を崩した。手首のあたりに白いあざができている。火かき棒そのものは届いていないはずだが、火かき棒の先から目に見えない何かが出たようだった。
ひるんだモンスターを前に、わたしは火かき棒を両手に持ち直し、構えた。このまま攻撃を加えれば、やっつけられそうな予感がした。
「待って! 攻撃はだめ! 凍結レベルテン!」
もも子はわたしを制止し、モンスターの足下に杖を向けて魔法を放ちながら、もう一方の手で自分の下腹部をまさぐった。
「えみ子はこれを、デスクの上の子に!」
もも子はそう言って、自分の下腹部から取り出した魔械虫をわたしに放り投げた。こちらを見てもいないのに、驚異的なコントロールで、青い虫はわたしの手の中に収まった。
もも子は、足が凍り付いて動けなくなったモンスターの背後に回り、杖をもった腕でモンスターの上半身を押さえ、レベルテンの麻痺の呪文を発した。それから、もう一方の手をモンスターのおへそのあたりに回した。その指にはもう一匹の青い魔械虫がつままれている。
「お願い。間に合って!」
そう言いながらもも子は、ブローチのような虫をモンスターのおへそに押しつけた。モンスターは動きを止め、黒い皮膚がまるで魔械虫に吸い込まれるように消失し、人間の皮膚に置き換わり始めた。ほぼ同時に頭部の組織がぐしゃりと崩壊し、人間の顔に変じ始めたのを見たわたしは、驚いて声を上げた。
「は、橋国さん!?」
橋国さんは隣のクラスの三年生で、古生物研究会の部長だ。イランやアフリカ諸国を転々としてきた帰国子女で、中東系の血の入ったオリエンタルな美女である。だが、どうして人間の橋国さんがモンスターになってしまったのか……
「えみ子! 早く!」
一瞬、モンスターの変貌に気を取られてしまったわたしは、もも子に託された使命を思い出し、魔械虫を握りしめてデスクの方へジャンプした。変身前では考えられないほどに軽々と宙を舞ったわたしは、一瞬でデスクに飛び乗った。
「……うう……お姉ちゃん……助けて……」
足下を見下ろしたわたしは自分の目を疑った。赤い怪物の足を生やしていたのは、他でもない、妹のゆみ子だったのだ。おへそのあたりを中心に、下半身のほぼ全体と、乳房の上あたりまでが赤いビロード状の皮膚で覆われ、手足の指先はいぼのようにしわしわになっている。だがその顔は、見紛いようのない、わたしの妹だった。朦朧とした目で、多分わたしに気付きもしないで、うわごとのようにつぶやいている。
「……お姉ちゃん。助けて……あたし……あたしじゃなくなっちゃう……」
わたしは握りしめた魔械虫をちらりと見た。橋国さんが「間に合った」以上、ゆみ子も多分助かる。だが、これを付ければ、モンスター化は免れても、魔法使いになってしまう。
「早く!」
もも子に促され、わたしは慌てて、ゆみ子のおへそに魔械虫を押し当てた。異形の皮膚は見る間に消失し、手足も元通りになって、とりあえずは人間の姿に戻った――遅かれ早かれ、魔法使いの肉体に変ってしまうとしても……。
「結界、解除!」
もも子はそういって最後の呪文を唱え、窓の外の景色が戻ったのを確認すると、ため息をついて地面にへたり込み、言った。
「よかったあ! 誰も死なずに済んだ!」
橋国さんとゆみ子は、まだ混乱しているのか、目をパチパチさせて周囲を見回している。部屋の隅の三人は気を失ったままだ。
わたしはバックルの魔械虫を外し、「変身」が解けて「精神圧」が一気に引いていくのを感じながら、もも子に問いかけた。
「一体、何がどうなったの?」
もも子は赤い複眼をこちらに向けて、答えた。
「人間と合体できる新種のモンスターよ。モンスターはもともと純粋な思念のかたまりだった。それが単純な動物から始まり、徐々に複雑な神経系をもつ動物と融合するようになっていった。その中にとうとう、人間の肉体と融合できる種類が現れた。だからとびきり強力で、しかもこれに関しては姉の助けは呼べない」
最後の言葉を補足するように、もも子は説明を続けた。
「魔界の連中は、モンスターに具現化した魔力の回収を至上命令としている。そのためにはモンスターを憑依された人ごと殺しかねない。だから、結界をもう一つ張り、姉からの監視を防いだ」
わたしはゆみ子のことを思い出し、ぞっとした。
それからもも子は幾分声の調子を落として、話を続けた。
「……ただ、あたしも確信があってやった訳じゃないの。ああやれば魔械虫の仕組みからして、魔力のかたまりであるモンスターだけを魔械虫が吸収し、同時に、宿主である人体の生存を維持してくれるだろうと推理しただけ。……融合が進んでしまった場合、このやり方ではうまくいかないかもしれない」
わたしは再び戦慄を覚えた。万一「間に合わ」なかったら、やはりゆみ子の命はなかったかもしれないのだ。
「あの、もも子……ありがとう。色々と」
もも子がベルトを委ねてくれなければ、あのとき変身を呼びかけてくれなければ、その後わたしが迷い、誤りかけるたびに呼びかけ、適切な指示をしてくれなければ……もも子の言う通り、誰かが死んでいたに違いない。
もも子は首を振って答えた。
「いや、えみ子が決意してくれなきゃ成功しなかった。……勝手に色々、ごめんね」
わたしも笑って首を振る。そうしてお互いに安堵の息をつきかけたとき、デスクの方から素っ頓狂な声が響いてきた。
「あ~っ! 何これ! 魔法使い? あたしら、魔法使いになっちゃったわけぇ!? お嫁に行けないじゃん!」
橋国さんだった。橋国さんはいつの間にか身を起こし、デスクの縁に腰掛けているゆみ子のおへそと自分のおへそを見比べながら、大声を上げたのだ。
振り向いたわたしたちと目があった橋国さんは、もも子の前につかつかと歩み寄り、その目をキッと見つめて、言った。
「あんたらの仕業だね!」
わたしは固唾を飲んで成り行きを見守っていた。仮に、これまでの記憶が二人の中になかったとしたら、騒ぎはすべて、もも子とわたしのせいにされてしまうかもしれない。
橋国さんはしばらくもも子を見つめてから、ぺこりと頭を下げて言った。
「ありがとう! いきなり魔法使いだなんて、気持ちの整理がつかないけど、でもこれって、ええと『肉を切って骨を守る』ってやつ? おかげで、取り返しのつかないことにならずに済んだ。感謝するよ。……ほら! ゆみ子もお礼を言いなよ」
橋国さんに促されておずおずと前に進み出たゆみ子も、ぺこりと頭を下げ、わたしたちに言った。
「ありがとうございます、もも子さん。それに、お姉ちゃん」
橋国さんは目を丸くして言った。
「きょうだいだったとはね! 姉の勘が働いたのかな? 何にしてもよかったよかった」
はははは、と朗らかに笑う橋国さんに、わたしは色々と救われた思いだった。言い方はあけすけで、格言も正しいのか間違いか微妙だったが、この場にいる皆の中のわだかまりが最も小さくなるように話を進めてくれた気がした。いい人なのだろう。
そうしているうち、部屋の隅から別の声がした。
「あれ? 部長? なんすか素っ裸で?」
気絶していた三人が目覚めたらしい。二年の相川さん、植屋さん、岡崎さんの三人で、声をかけたのは相川さんだ。橋国さんはにやっと笑って返事をした。
「ああ、詳しくは放課後に話すけど、あたし、今日から魔法使い始めるから!」
三人は目を丸くしてわたしたちを見た。それから植屋さんが感心したように言った。
「部長! すごいナイスバディっすね! そのまんまモデルになれますよ!」
橋国さんはかっはっはっはと笑ってから答えた。
「いや、残念だけど、もう十日もすれば複眼の青肌ボディで、この体ともおさらばだよ」
植屋さんはちょっと気まずそうな顔になったが、代わりに岡崎さんが屈託のない口調で言った。
「いやいや、多分その後が本番ですよ。きっと、人間の男からも、魔導師の男からも、引く手あまたになりますよ! わたしが保証します!」
橋国さんと三人はどっと笑い声を上げた。少なくとも彼女たちに、魔法使いだからどうといった偏見はなさそうだ。ゆみ子はいい居場所を見つけたな、と思えた。
そのとき、もも子が時計を確認して言った。
「あ、もう結構な時間。みんな、お昼はどうするの?」
「あたしらは学食で。もう券を買ってるんで」
二年生の三人組が言った。
「あたしはお弁当」
橋国さんだ。
「わたしとゆみ子は、購買部でサンドイッチか何かを買って食べる予定。親が夜勤で、わたしたちも寝坊して、お弁当が作れなかったんだ。もも子は?」
「あたしは朝にコンビニで買ったおにぎり。……じゃあ橋国さん、あたしたちと一緒に屋上で食べませんか。なんて言うか、業務連絡的なこともあるんで」
橋国さんはうなずいた。わたしは、制服のポケットに小銭入れを入れていたのを思い出し、ほうきで散らばった服の断片を履き集め、小銭入れを回収して、火かき棒にぶら下がっている革の袋に入れた。そんなわたしの様子を見ながら、植屋さんが聞いてきた。
「お姉さんも魔法使いなんでしょ? こう魔法でぱあっとはできないんすか? ディズニーの『魔法使いの弟子』みたいに」
二年の三人を見送り、掃き掃除やその他の後片付けを終えたときには、四時間目が終っていた。わたしはドアの前に立ち、後ろのゆみ子と橋国さんを振り返って、大きく息を吸ってから、確認した。
「それじゃ、開けるよ?」
橋国さんとゆみ子は緊張の面持ちでこくりとうなずいた。その後ろの、擬態したもも子はにこにこと笑っている。わたしは決然と扉に手をかけ、開いた。
部室棟の廊下にも、すでに男女の生徒が数人いた。ドアが開き、裸の女生徒四人が現れたのを見て、一人の男子が目を丸くし、それから慌てて目をそらした。
部室棟を抜け、本校舎に入ると、廊下を行き来する生徒や教員はさらに増えた。気の毒そうにこちらを窺う女子、慌てて目をそらしてから、ちらちらとこちらをのぞき見る男子、渋い顔で目を背ける女子、無遠慮にこちらを見てくる男子、等々。
わたしは意識すまいと思いつつ顔が真っ赤になるのを抑えられなかった。胸と下腹部にさりげなく手を回し、まっすぐ歩こうとしながらも腰がもじもじもじと落ち着いてくれない。
後ろを窺うとゆみ子もほぼ同じで、ゆみ子の場合、かつてもも子がそうだったように、ミーアキャットのように腕をまっすぐに伸ばし、下腹部の辺りで両手を合わせて、やはり真っ赤な顔でもじもじしながら歩いている。橋国さんは、両腕を頭の後ろに組み、思い切り胸を張って堂々と歩きながら、よりにもよって「コネクト」を口笛で吹きながら歩いている。『まどマギ』の主題歌だ。だが、音程がめちゃくちゃで、橋国さんも内心は動揺しているようだ。
「……あの、部長……その曲だけはやめましょうよ。不吉です」
たまりかねたゆみ子が振り返ってそう言うと、橋国さんは「あはは、やっぱり」と言って口笛をやめた。その後ろのもも子は、そんな様子をにこにこと見ながら、言った。
「なんかさ、初々しくていいね。三人とも」
もう、裸の姿以外想像できないほど自然に歩く擬態したもも子を見て、わたしははあ、と息をつき、再び前を見て歩き始めた。それから、わたし自身と他の三人との違いがふと心に浮かんだ。
ゆみ子や橋国さんはこれから少しずつ人間から遠ざかっていく。身も、心も。魔力が上がればもも子のように擬態もできるが、それはあくまで視覚的な錯覚だ。そんな中、ベルトをしたわたしだけは、心も、体も、変身時を除けばずっと元のままなのだ。自分だけ申し訳ないような、独りで置き去りにされるような、複雑な思いがわいた。
購買部に着いたとき、ちょっとしたトラブルが起きた。
わたしは小銭入れからお札を出し、購買部のおじさんに言った。
「あの、サンドイッチ二つと、あと、タオルを三枚下さい」
サンドイッチはわたしたち姉妹の昼食。タオルはわたし、ゆみ子、橋国さんがイスの上に敷けるようにだ。下着も履かず、直にイスに座るのは衛生的ではない。タオルか何かを敷いて座り、それを毎日洗濯するのがいいだろう。
だが、仲良しのはずのおじさんは、無遠慮にわたしの体をにらみ付け、吐き捨てるように言った。
「ああ? 悪いが、魔導師やら魔法使いやらに物を売る気はない。みっともない裸なんぞ見せてないで、さっさと退散しろ」
一種の職務放棄だが、クビになるのも辞さない意気込みだった。橋国さんやもも子も唖然としている。ゆみ子が、思い出したように耳打ちした。
「たしかおじさん、奥さんを使い魔にされてしまったって……」
わたしはうなずき、少し考えてから、おじさんに向かって言った。
「おじさん。魔界を忌み嫌う気持ちはわたしたちも同じです。わたしたち四人は、魔導師でも魔法使いでもない。『魔法少女』です。魔法少女とは何か? それは、魔力を人間のために用い、魔界と戦うことを選んだ魔法使いのことです。……だから、サンドイッチとタオルを売って下さい!」
そう言ってわたしは頭を下げた。
周囲がしいんと静まった。やがて、わたしたちを取り巻いて様子を見ていた生徒の中から、パチパチという拍手が鳴った。拍手は二つ三つと広がり、やがて廊下にいた生徒全員がわたしたちを囲んで拍手を始めた。おじさんは、憮然とした表情でサンドイッチとタオルを出し、お釣りと共にわたしに突きつけて言った。
「ああ分かったよ! 持っていきやがれ! ……だが、いいか。人類を裏切ったら、ただじゃ済まさんぞ!」
プイと横を向いたおじさんの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
それから数分後、わたしたちは屋上でさっきのタオルを敷き、昼食を食べていた。もも子は橋国さんとゆみ子に杖を渡し、もも子が乗った「賭け」のシステムについて説明した。橋国さんからはこの数日の異変を、本人のおぼろげな記憶によってだが、聞くことができた。
事後承諾だったとはいえ、橋国さんはうってつけの人材であったらしく、もも子と橋国さんは意気投合していた。一方のゆみ子はというと、温厚さや善良さは姉のわたしが太鼓判を押すが、ひどく引っ込み思案な性格で、戦力として足手まといになってしまわないか、不安だった。それに、ふっきれた様子の橋国さんとは違い、突然魔法使いにされたことに戸惑いを隠せない様子だ。
橋国さんたちとの話が済むと、もも子はわたしを軽くにらみながら言った。
「で、えみ子。さっきのは何? 『魔法少女』はあなただけだって言ったでしょ? なんであたしたち全員を魔法少女だなんて……」
わたしはすまして答えた。
「新しい名前が、必要だと思ったの。で、どうせ魔法少女とライダーと戦隊の区別もつけずに付けた適当な名だし、勝手に拡大解釈して使わせてもらったのよ。だからわたしは謝らない」
もも子はきょとんとしていたが、やがて「やれやれ」という様子で、わたしの思いつきを受け入れてくれた。
五時間目は選択科目で、もも子は音楽、わたしは美術で、それぞれ別々の教室に向かった。
わたし自身気が重いことであり、もも子も心配してくれたのだが、先週から美術の教師もまみ子先生が受け持っている。疎開による人手不足で、学校から兼任を頼まれたらしい。
先週から始まった課題は――人に話すと、納得する人と呆れる人が半々なのだが――ヌードデッサンである。無論モデルはまみ子先生だ。教師がモデルをやって、どうやって指導するのかといぶかる人もいるだろうが、そこは魔導師で、うまいやり方がある。
わたしたちがキャンバスをセットし、中央にまみ子先生が立つ。まみ子先生は先週と寸分たがわぬポーズをとると、小声で呪文を唱える。
「残像!」
呪文と共にまみ子先生の残像が中央に残り、本物のまみ子先生は生徒の絵を見て回るのだ。上級の魔導師なら、このくらいは擬態を解かず、杖も使わないで唱えられるらしい。
やはり疎開の影響で、授業を受けているクラスメートは十人と少しだ。それでも、これだけの人目があれば、まみ子先生も妙な真似はできないだろう。……そう思っていた矢先、異変が起きた。
「先生! お手洗いに行ってきます」「僕も!」「先生! 切っていたはずの携帯が鳴って、母から呼び出されました!」「わたしは父から!」
そんな調子で、五人ほどの生徒が教室を出ていくと、入れ替わりに教員や保護者が押しかけ、口々に言った。
「山田と川田、ちょっと職員室へ」「上田の父です。ちょっと急用で」「下田の母です」「左右田の祖母です」
そんな調子で、あれよあれよという間に、美術室にはまみ子先生とわたしだけになってしまった。
「あら、珍しいこともあるわね。まあ、残った生徒で授業を続けましょう」
出ていく生徒たちを目で追いながら、まみ子先生はしれっとした口調で言った。
わたしは先生をにらみ付けて言った。
「とぼけないで! 情報操作は魔導師のおはこでしょ? どうせ……」
だが、ふと見るとまみ子先生の姿がなくなっている。きょろきょろと見回していると、頭の横から、いきなり細い腕がにゅっと伸びて、わたしのキャンバスの一部を指さした。
「ここの腕のところ、ちょっと変よ。よそ見しないで前を見なさい」
わたしはそれが何かの合図のように思えて、あえて振り返らず、指示通りデッサンを修正し始めた。背後のまみ子先生は声を落として言った。
「二十分もすればみんな戻ってくる。それまで、ちょっと時間をちょうだい。その時間で、魔界の手先として、あなたを言葉でたぶらかそうと思うの」
ギクりとしたわたしの気配を察した先生は、急いで付け加えた。
「あ、洗脳魔法なんて使わないから心配しないで。賭けはフェアにやらないと意味がないし、それにそのベルトのせいで、かけようにもかけられないのよ。……もも子も面白くて、そして残酷な道具を作ったものね」
わたしは黙って虚像のまみ子先生のデッサンを続けた。先生も話し続ける。
「もも子はね、あの子が自分で思っているよりもずっと微妙な立場にあるの。わたしが魔界ともも子の間に立っているのは、お目付役という以外に、あの子を守るためでもある。あの子の暴走を防ぎたいというのは、あの子自身への、姉としての思いからでもあるの」
「姉としての思い」という言葉が、心にズキンと響いた。先生の説明は続く。
「わたしは、できればあの子にごく普通の魔導師として、魔界の規律に従っていて欲しい。つまり、人類を使い魔と魔導師に選別し、最も効率的なアーキテクチャをこの世界に構築する手伝いをして欲しいの。
……でもこれは、人であり続けることを運命づけられたあなたには、決して飲めない話よね。それは分かっている。そして、そんなあなたに特別、ちょっといい話を教えてあげる」
繰り出される言葉に翻弄されるわたしをよそに、先生は話を続けた。
「『臨界期』って知ってる? 子供が母語を自然に身につけられる限界の年齢を指す、仮説的な名前。そしてこの『臨界期』に似たものが、どうも制御システムとしての魔導師のフレームワーク、あるいは『価値観』にもあるらしい。
魔導師、特に上級の魔導師は通例、魔界の価値観を共有する。それが、魔力を有効に発揮できる唯一のフレームワークだから。そして、あるフレームワークを身につけて魔導師として完成すれば、もうそれが変わることはない。このわたし自身が、その実例。これはちょうど、臨界期を過ぎた大人が、新しいネイティブ言語を身につけられなくなるのと似ている。
……ところがどうも、もも子は、独特の幼さのおかげか、上級魔導師でありながら、未だに『価値観の臨界期』を迎えていない。言語との平行関係が成り立つなら、これはちょっとすごいことなの。というのも、ピンカーなんかの言うところでは、幼児の言語習得というのはその都度の『新しい言語の創造』であるらしい。同じ地域の人がで同じ言葉を話すのは、その地域の幼児が同じ言語環境、同じ言語データを利用して同じ言語を『再創造』するからだと。そしてもも子は、既存のものとは異質な、新しいフレームワークの『創造』を行いかけている。
普通に考えれば、無からのフレームワークの創造なんて、成功するはずがない。でも、もも子は意外な手を思いついた。つまり、あなたという特別なロールモデルを作り出した。魔力を使いこなしながら、人間の心を失わない存在。そんなあなたをモデルに、魔法使いたちが新しい価値観を共有、いえ、『創造』していけば、それは既存のフレームワークに匹敵する新しいフレームワークの構築につながりうる。
これが何をもたらすのかは未知数。ただ、魔界は『様子見』を指示したわ。もも子たちが魔界の秩序を直接脅かす場合は阻止するけど、システムの新たな可能性の芽を摘むことはしないでおこう、ということらしい。
……ただ、わたし自身は、できればもも子の計画が失敗して欲しいと思っている。だってわたしはもう、新しいフレームワークを共有できないの。相容れない二つのフレームワークはいずれ全面対決を導く。つまりもも子やあなたとの全面対決よ。それはできれば避けたい。姉として」
「姉」という殺し文句で一旦話を切ったまみ子先生は、さらにわたしを翻弄する言葉を付け加えた。
「……で、今の話、もも子には絶対に言っちゃだめよ。もも子の心に迷いが生じ、わたしとの敵対関係が鈍ると、困ったことになる。魔界がわたしたちの馴れ合いを疑い、わたしをクビにして、違う魔導師を派遣する恐れがあるのよ。そうなるともう、今までみたいにもも子をかばうことはできなくなる」
わたしはまみ子先生の話を必死に整理しようと目を閉じ、考えをまとめようとした。するといきなり、キャンバスの前から先生の声が響いた。
「……ということで、魔界の手先として、あなたを言葉でたぶらかしてみました。全部ウソかもしれないんだから、信じなくてもいいわよ」
まみ子先生はそう言いながら残像のモデルの横で同じポーズをとり、妖しい笑みを浮かべた。同時に、美術室を飛び出したクラスメートたちが首をかしげながら戻ってきた。
まみ子先生の思うつぼかもしれないが、頭の整理がつくまで、今の話はもも子には伏せておこう、とわたしは思った。
放課後。橋国さんは部活に行ったが、ゆみ子はちょっと気分が悪いというので、わたしやもも子と一緒に帰ることになった。
わたしとゆみ子にとって、裸のままで公道に出るのは新たな試練だ。昼からの経験で、過度にもじもじするとかえって人目を引くことを学んだわたしは、あくまで冷静を装い、堂々と歩いた。ゆみ子も同じらしく、三人はごく普通の女子高生のように談笑しながら歩いた。人目がなければ、たしかにもも子の言うことも分かる。外気を全身の肌に浴びる感覚には、やってみないと分からない爽快感があるのだ。
とはいえ、ふと横にあるショーウィンドウを見ると、素っ裸の女子高生がカバンと杖をもって談笑している姿が映り、何というか、やっぱりシュールである。
もも子と別れ、家に着いたわたしたちは、玄関の前で足を洗い、タオルで拭いて、持ち帰った靴を飛び石のように使って家の中に入った。
玄関の中には段ボール箱があった。疎開した叔母が果物を送ってくれたらしい。夜勤明けの母が受け取り、そのまま開封せずに仕事に出たようだ。ゆみ子が、わたしが運ぶよ、と言って段ボール箱を抱えた。
段ボール箱を抱えたゆみ子が居間に入って来たとき、それは起きた。箱を下ろそうとしたはずみに、ゆみ子の魔械虫がぽろりと落ちたのだ。
「あはは、落っこっちゃった」
ゆみ子は平静を装って落ちた魔械虫をおへそに戻した。だが、明らかにただごとではない。魔械虫は装着後直ちに肉体と一体化する。ぽろりと落ちたりするはずがない。しかも、一瞬だが、魔械虫の外れたゆみ子の体が、ぼんやりと赤く染まったのがたしかに見えた。
「……ゆみ子? ……それとも、ゆみ子じゃないの?」
はは、と誤魔化し続けようとしかけた「ゆみ子」は、やがてクスクスと含み笑いをしながら、おへその魔械虫を自ら外した。全身がビロードのような赤い絨毛で覆われ、両目と鼻、それに口の両側からカタツムリのような触角が生え、口は縦に細長く裂けた穴になった。手足はしわだらけでぶよぶよになり、先から黒いかぎ爪が伸びている。体の両側にも小さなぶよぶよの突起が列をなして並び、その先からもかぎ爪が伸びる。
変身を終えた「ゆみ子」は愉快そうに言った。
「あ~あ。ばれちゃった! しばらく『魔法少女』のふりをして遊ぼうと思ったのにさ」
バックルの横の魔械虫に手をかけながら、わたしは問いかけた。
「……いつ? いつから入れ替わったの?」
怪物はクックッと笑いながら答えた。
「あのとき『助けて』と言っていたのは、たしかに元のゆみ子。その後お姉ちゃんが一瞬ためらったせいで、間に合わなかった。融合には適性があってね。部長と違い、ボクはとても融合しやすい体質だった。で、覚醒したボクは、魔械虫を乗っ取り、モンスターの邪気を魔械虫の中に隠して、魔法使いに擬態した」
涙がこぼれるのを感じながら、わたしはモンスターに、すがるように質問した。
「……あなたはもう、ゆみ子じゃないの?」
モンスターは首をひねりながら答えた。
「どうなんだろ? お姉ちゃんとの楽しい思い出も、そのときの気持ちも、全部覚えてる。別人じゃあない気がする。……でも、人間だったときの気持ちとか、考え方とか、全部なくなっちゃった。代わりに、貪欲で、残忍で、不合理な衝動で、心が一杯になってる。魔界も、人類も、めちゃくちゃにしてやりたい! ……って」
うろたえるわたしに、モンスターは言った。
「でもお姉ちゃん。人類のために戦いたいなら、もも子とじゃなく、ボクと手を組むべき。もも子は結局魔導師。自分自身は不合理な感情や衝動を失い、それをモンスターから吸い取って利用する存在。魔界はそうやって世界から世界へ侵食を続け、住人の感情と衝動を吸い取り、滅ぼしてきた。ボクたちも『悪』だけど、それは『必要悪』。人間が『人間らしく』生きるためには、ボクたちに具現化された不合理な力が必要。だからお姉ちゃんが人間を守りたいなら、もも子とじゃなくて、ボクと手を組み、モンスターを保護すべき。そうしないとこの世界は滅ぶ。
それに、もも子の言うまま魔法使いを増やしていったらどうなる? 学校も世界も魔法使いだけになり、誰もが人間の体と心を失う。でもお姉ちゃんはベルトのせいで、人間の体も、人間の心も、捨てることができない。待つのは、孤独な保護動物の運命」
わたしは頭が混乱しかけた。最後の言葉は、まみ子先生が言った「残酷な道具」という言葉を思い起こさせた。……だが、わたしはこの怪物がどうしてもゆみ子だとは信じられなかった……いや、信じたくなかった。だから、湧き上がる混乱をすべて怒りの言葉に変え、涙で声を震わせながら、モンスターにぶつけた。
「うるさい、モンスター! ゆみ子を返せ!」
ふと見るとモンスターは魔械虫をへそに装着し、ゆみ子の姿になっていた。そうして、ゆみ子の口調でしゃべった。
「だから、お姉ちゃん。わたしがゆみ子なんだってば! ……ふふ。でも、そういう不合理なところ、悪くないよ。それがある限り、お姉ちゃんはわたしたちの同類。魔界の敵よ。それを忘れないでね」
それから「ゆみ子」はカバンを持って玄関に向かいながら言った。
「この家にはもういられないね。わたし、座敷わらしみたいに『誰でもない生徒』に擬態して、邪気を隠して学校に潜伏する。ハッキングの腕なら魔界の連中にも負けないから、名簿の偽装だってやれる。
あの学校、まみ子先生も知らないみたいだけど、すごい場所なの。地下で『魔術的特異点』が形成されつつあるのよ。だから機が熟すまで、魔導師姉妹の戦いを見物しながら、時々ちょっかいをだして遊ぶことにする。じゃあね」
「あ、待っ……」
追いかけようとしたわたしは、足が動かないことに気付いた。魔法ではなく、物理的な粘液のようなものが、いつのまにか足を接着していたのだ。「ゆみ子」はゆうゆうと居間を出ると、玄関に置いてあったバッグから下着と制服を取り出して着込み、靴を履いて玄関に立った。
「またね! お姉ちゃん」
粘液に四苦八苦していたわたしが、魔法少女に変身すればいいと気付いたのは、「ゆみ子」が出て行ってしばらくしてだった。強化された右足を持ち上げたところ、床板ごとバリっと足が持ち上がった。運悪くそこに父が帰宅し「家を破壊する裸の仮面女」に仰天して、警察に通報した。
……色々と片づいたのは真夜中で、今さら「ゆみ子」を追っても仕方がなさそうだった。疲労困憊したわたしは布団にもぐりこんだ。
布団の中、わたしは三人の人ならざる者たちとの対話を思い返した。
――もも子の誠意を疑う気はない。もも子は、人と魔導師の間の友情と、普遍的正義を心底信じている。そんなもも子にとって、わたしが人として独り残されることは、孤独とも不幸とも思えないのだろう。
――まみ子先生の理想はとうてい支持できない。だが、姉としての気持ちを一番分かち合えるのは、多分あの人だ。
――わたしのためらいのせいで、怪物になってしまったゆみ子。元に戻す道はないのか。その言葉は無視しきれるのか。「魔術的特異点」とは何だろう?
様々な思いは睡魔の中に溶け、わたしの長い一日は終わった。(了)